補足2
~芝蘭堂~3
寛政6年(1794)オランダ商館長の江戸出府で
オランダ人と初めて対談した玄沢は、
これを機にこの年の閏11月11日が
西暦で1795年元日に当たることから、
芝蘭堂(この時期は京橋水谷町)に多くの蘭学者らを招き、
新元会(元日の祝宴)を催した。
世にオランダ正月と名高いこの宴はその後も毎年続けられ、
玄沢の子・玄幹の死まで44年間行われた。
芝蘭堂は文政10年(1827)の玄沢の死後も、
長男玄幹(磐里)が継ぎ、
さらに孫の玄東(磐泉)にまで引き継がれ、
江戸における蘭学学習の一大中心地としてあり続けた。
なお、洒落っ気も持ち合わせていた玄沢は
「しらんどう」の名をもじって「無識堂半酔先生」と号し、
「医者商」なる戯作も書いている。
古美術 崎陽
長崎の歴史
~芝蘭堂~3
寛政6年(1794)オランダ商館長の江戸出府で
オランダ人と初めて対談した玄沢は、
これを機にこの年の閏11月11日が
西暦で1795年元日に当たることから、
芝蘭堂(この時期は京橋水谷町)に多くの蘭学者らを招き、
新元会(元日の祝宴)を催した。
世にオランダ正月と名高いこの宴はその後も毎年続けられ、
玄沢の子・玄幹の死まで44年間行われた。
芝蘭堂は文政10年(1827)の玄沢の死後も、
長男玄幹(磐里)が継ぎ、
さらに孫の玄東(磐泉)にまで引き継がれ、
江戸における蘭学学習の一大中心地としてあり続けた。
なお、洒落っ気も持ち合わせていた玄沢は
「しらんどう」の名をもじって「無識堂半酔先生」と号し、
「医者商」なる戯作も書いている。
古美術 崎陽
長崎の歴史