邦文活字の鋳造には成功したものの、
開業するだけの資力を
持ち合わせていなかった本木に、
才助は五千円の融資を申し出、
これによって大阪活版所が設立された。
小幡が経営にあたり、
予定通り英和辞典の印刷に着手したが
組版がはかばかしくいかず、
結局、明治4年に上海で刊行された。
これが五代編「薩摩辞書」と呼ばれるものである。
同じ頃、才助は同郷の高橋新吉(良昭)、
前田献吉(正穀)らの努力で出版された
「和訳英辞書」(通称「薩摩辞書」)
五百部の販売斡旋も引き受けている。
小松清廉(帯刀)が
依頼されていたのを引き継いだもので、
後に高橋は欧米留学、大蔵省大書記官、
ニューヨーク領事、九州鉄道社長、
勧業銀行総裁を歴任し、男爵になっている。
長崎の歴史