『長崎代官』~5
~代官の職務~2
徳川家康に代官職を務める事を追認された村山等安は
引き続き長崎の外町の統治を任された。
その後に代官となった末次平蔵は
当時長崎に常駐ではなかった長崎奉行の補佐役として
長崎の町政に大きく関与した。
町年寄の高木作右衛門家が代官を勤めるようになった後
明和元年(1764)に米方・寺社方事務が長崎代官に属し
文化2年(1805)には抜荷取締も兼ねる。
江戸時代後期には米100俵と受用銀45貫を受けた。
代官は、支配地の徴税を執行し
海外貿易の輸入貨物の検査
南北瀬崎の米蔵・御用物蔵・武具蔵・御船蔵のほか
長崎の寺社を管理した。
長崎代官は勘定奉行直属だが
長崎奉行の指示を受けて動く事もあった。
幕末には天草代官も兼務した。
古美術崎陽
長崎の歴史
~代官の職務~2
徳川家康に代官職を務める事を追認された村山等安は
引き続き長崎の外町の統治を任された。
その後に代官となった末次平蔵は
当時長崎に常駐ではなかった長崎奉行の補佐役として
長崎の町政に大きく関与した。
町年寄の高木作右衛門家が代官を勤めるようになった後
明和元年(1764)に米方・寺社方事務が長崎代官に属し
文化2年(1805)には抜荷取締も兼ねる。
江戸時代後期には米100俵と受用銀45貫を受けた。
代官は、支配地の徴税を執行し
海外貿易の輸入貨物の検査
南北瀬崎の米蔵・御用物蔵・武具蔵・御船蔵のほか
長崎の寺社を管理した。
長崎代官は勘定奉行直属だが
長崎奉行の指示を受けて動く事もあった。
幕末には天草代官も兼務した。
古美術崎陽
長崎の歴史