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(ブログ全般見聞録)

自公新自由主義者はハーメルンの笛吹き男 

2013-05-06 21:00:39 | 日記
ハーメルンの笛吹き男  改訂版2
http://youtu.be/I5hj6CkgKE8

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【●】I-1 こどもの数は1665万人、31年連続の減少
統計局ホームページ/統計トピックスNo.59/全国 - 総務省統計局
http://www.stat.go.jp/data/jinsui/topics/topi591.htm

平成24年4月1日現在におけるこどもの数(15歳未満人口。以下同じ。)は、前年に比べ12万人少ない1665万人で、昭和57年から31年連続の減少となり、過去最低となりました。
 男女別では、男子が852万人、女子が812万人となっており、男子が女子より40万人多く、女子100人に対する男子の数(人口性比)は104.9となっています。


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小泉内閣以来の新自由主義(弱肉強食のジャングルの掟)により若者の雇用は不安定になり結婚し子供を産むことが益々困難になり。製造業派遣、さらにはサラリーマン(事務職)アルバイト化と家庭崩壊へ突き進む。自公政権こそはハーメルンの笛吹き男
その上何とかかんとかワクチンで人口削減とか、やめてほしい。働き手減少で年金も医療保険も機能不全となる。

ビル・ゲイツ 「ワクチンで人口削減が可能」
http://youtu.be/b4vE8AdSPGc

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【●】メディア報道を鵜呑みにしてしまう日本人
植草一秀の『知られざる真実』2013年5月 6日 (月)
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-f89e.html

ゴールデンウィークの休日も最終日になった。

全国的に好天に恵まれた今年のゴールデンウィークをそれぞれに有意義にすごされたことと思う。

ゴールデンウィークが終わると、いよいよ本格的に参院選の季節に入る。

こどもの日の昨日は元巨人軍の長嶋茂雄氏と松井秀樹氏に国民栄誉賞が授与された。

長嶋茂雄氏は始球式のバッターボックスに入って意欲満々でバットを振った。

肉声であいさつもした。

日本全国の脳梗塞を患った人たちにも大いなるエネルギーを付与しただろう。

松井氏のあいさつは松井氏の人柄をそのまま表すもので、多くの人を感動させるものだった。

長嶋氏と松井氏の姿そのものは国民に力を付与するものである。

しかし、このイベントがほぼ100%、政治的目的で企画、立案、実施されたことにすべての主権者が留意するべきだ。

日本のマスメディアは数が限られ、しかも、ごく少数の資本がテレビ、新聞、ラジオを系列で支配してしまっている。

この電波産業は寡占集中で、しかも行政権力の支配下に置かれている産業だ。そのため、基本的にその大半が御用メディアに堕落してしまっている。

主権者の情報入手経路がマスメディアに集中しているため、マスメディアが情報を操作すると、その影響が極めて大きくなる。

さらに問題なのは、日本の主権者がマスメディアの情報を鵜呑みにしてしまう傾向を強く持つことだ。

青山貞一氏がネットに公表しているマスコミ鵜呑み度の国際比較を見ると、日本人のマスコミ鵜呑み度が群を抜いて高い。

http://goo.gl/Rz0Gq

これは私たちの実感とマッチするものである。

メディアの発する情報を主体的に読み解き、その真贋(しんがん)を見分け、活用する能力のことをメディアリテラシーと呼ぶが、私たちはメディアリテラシーを涵養(かんよう)しなければならない。

メディアに踊らされてはならないのだ。

日本人のメディアリテラシーが低いとされる理由のひとつがメディア側の状況にある。

メディアの側が大政翼賛状態で、おしなべて権力迎合であるため、すべてのものごとに対する多種多様な意見が提示されていないことが最大の問題である。

メディアがそれぞれの立場から多種多様な見解を示し、政治権力に対して堂々とものを言う姿勢が示されていれば、ものごとに対して、多様な角度から批評し、認識する力が国民にも備わってくる。

ところが、日本ではほとんどのマスメディアが既得権益勢力に迎合し、礼賛の報道を展開するから、国民の多くがその多数意見に身を委ねてしまうのだ。

そして、日本の教育は個性を育てることよりも、個性を封殺することに重点を置いてきた。

学校の方針、上位に立つ者の方針を従順に受け入れ、これに従う人間をつくることが目指されてきた。


それでも、日本国憲法や旧教育基本法には個人の尊厳、ゆたかな個性の重要性が明記されてきた。

しかし、本当の意味での民主主義の推進は1947年で中止され、1947年以降は日本国憲法や教育基本法の規定とは裏腹に、個性を削ぐ教育が実行されてきたのである。

2006年に安倍政権が誕生して、教育基本法が大幅に書き換えられた。

名実ともに、個性を削ぐ方針が固められ、さらにいま、憲法までをも改正して、個人を国家が統制する方向に日本の基盤が変更されようとしている。

参院選を間近に控えて、安倍政権はますますメディアを活用した情報操作を強化することと思われる。

日本の主権者はその策略を見抜き、本当に大事なことは何であるのかをしっかり吟味しなければならない。

メディアリテラシーの問題を考察するための恰好の素材がいくつも存在する。これらの素材を改めて吟味してみることが大切だ。

三つの素材をあげておこう。

第一は、2010年の民主党代表選で本来圧倒的に優勢であったはずの小沢一郎氏が代表に選出されなかった事案

第二は、2012年12月総選挙で、未来の党の議席が激減させられた事案

第三は、昨年12月総選挙、本年7月参院選で、本来主要争点として掲げられるべきテーマが陰に隠されている事案である。

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【●】国民栄誉賞の始球式で背番号96を付けた安倍首相の真意、本音は気持ち悪い程危険極まりない (かっちの言い分)★阿修羅♪ > 投稿者 笑坊 日時 2013 年 5 月 05 日
   http://www.asyura2.com/13/senkyo147/msg/309.html

http://31634308.at.webry.info/201305/article_5.html
2013/05/05 22:04 かっちの言い分

先日も『憲法改正に賛成する人は、自分自身、自分の子供を国防軍に真っ先に入れて欲しいhttp://31634308.at.webry.info/201305/article_3.html』の中で、自民党の憲法改正に賛同しているのは、読売新聞だと書いた。いつもは、政府の言いなりの読売と同調する毎日新聞、朝日新聞ですら、96条の憲法改正を批判している。毎日新聞にしては珍しく、今日の社説にも以下のように自民党の最終ターゲットである憲法9条(戦争の放棄を無くして集団自衛権、国防軍)について、ダメと述べている。 


毎日新聞社説:憲法と「9条改正」 武力行使偏重は危うい
http://mainichi.jp/opinion/news/20130505k0000m070090000c.html 


今日は、自公の政府のやることを最も支援してくれる読売新聞の渡辺恒雄氏の意向がかなり入った国民栄誉賞の受賞式が後楽園球場で行われた。この始球式に安倍首相が審判の役で出席した。松井氏には悪いが、明らかに読売側の意向を反映して追加してもらったのであろう。安倍首相はこの始球式に96番の背番号のユニフォームを着ていた。これは明らかに悪乗りだろう。今や96条改正が自分の内閣の一番の使命というか悲願であるようだ。

このまま安倍氏に首相を任せていたら、何をするかわからない。原発のトルコへの輸出もあっさりと決めてしまった。国会での議論もない。福島原発が今のような大事故になったのは、津波による電源喪失と言われているが、実際は津波の前の地震で原発内の配管系が壊れて、立ち入ることが困難なほどダメージを受けたことは常識になっている。こんな危ない原発を日本政府がお墨付きを与えて外国に売ったら、同じような事故が起これば、当然他国は企業だけでなく日本政府に賠償を求めるだろう。そうしたら日本はお終いである。多額の補償費用を出す羽目になる。

TPP参加しかり、社会保障議論をしない消費税増税、憲法改正と、国民が特に望んでいない、むしろ日本国民にとって生活が危うくなる政策に邁進している。国民はもう一度気づくべきである。

民主党があまりに酷過ぎたから反動が生じているのはわかるが、この流れを変えないと、何もしなかった民主党以上に大変なことになるのは明らかである。

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【●】「憲法9条は,日本側からGHQに押し付けた妙策だった(津久井進の弁護士ノート)」   晴耕雨読 2013/5/6 憲法・軍備・安全保障
http://sun.ap.teacup.com/souun/10829.html

憲法9条は,日本側からGHQに押し付けた妙策だった(津久井進の弁護士ノート) 投稿者 gataro 日時 2013 年 5 月 05 日 から転載します。

2013.05.04 憲法9条は,日本側からGHQに押し付けた妙策だった(津久井進の弁護士ノート)

改憲論は,「米軍の押付け憲法を廃して,自主制定を!」と声高に叫ぶ。

要するに「Made in USA」はイヤだから,是非「Made in JAPAN」にという血統主義的な御説なのだが,

「中身が良ければどっちでもいいじゃん」,「中身がダメなら純和製でもダメでしょ」
という実用性重視の現実派の私としては,こういうセンチメンタルな情緒論には,あまり本気で議論する気になれない。

しかし,世の中では,こういうブランド志向で判断が左右されることも多いので,無視は出来ない。


そこで,憲法9条は,GHQの押し付けではなく,
逆に,日本側からGHQに押し付けたものである,

という内幕の事実をきちんと確認しておきたいと思う。

下記に引用した『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』と題するメモは,憲法調査会事務局において保管されていて,平成16年11月10日の第161回国会参議院憲法調査会でも引用されている。

 以下は,幣原喜重郎・元首相の語りの一部である。

■ここまで考えを進めてきたときに、九条というものが思い浮かんだのである。
 そうだ。誰かが自発的に武器を捨てるとしたらー 最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。

■この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。

■そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心した

■僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。(中略)
 すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。
 それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。




 幣原喜重郎・元首相は,理想を語り,現実を知り,巧妙な策に長けた名政治家だったんだと,あらためて感じる。


※なお,法的にも,手続き的にも,日本の自主判断で憲法が改正されているのだから,「Made in USA」ということはありえないし,
 また,実質的にも,主権者たる国民の圧倒的支持を得て成立・公布されているのだから,権威の源泉も「Made in JAPAN」である。
 要するに,GHQが下書きしたのが気に入らないということなのだろうが,しかし,構想は幣原喜重郎大臣によるものだから,やっぱり日本製なのである。
 イメージ押し付けで世論を洗脳するような改憲論は,国民を見くびったアンフェアな手法だと思う。

なお,下記の憲法調査会事務局の資料は,下線を引いたり,強調を付けたりしていますが,これらは私の手によるものです。
[幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について]

- 平 野 三 郎 氏 記-
憲法調査会事務局


はしがき

 この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。

 なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。

  昭和三十九年二月

          憲法調査会事務局



第一部

 私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬のことである。

同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。

 側近にあった私は、常に謦咳にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、当日は、私が戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて幣原先生にお答え願ったのである。

その内容については、その後まもなくメモを作成したのであるが、以下はそのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである。

 なお、当日の幣原先生のお話の内容については、このメモにもあるように口外しないようにいわれたのであるが、昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにしたのである。


問 かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわりたいと存じます。
実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。

答 いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。


問 そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか。

答 それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。

問 死中に活といいますと・・・・・。

答 たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。
しかし原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。
何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。
恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。
そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。
そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。

問 しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか。

答 そうだ。世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。しかし実際問題として世界中が武器を持たないという真空状態を考えることはできない。

 それについては僕の考えを少し話さなければならないが、僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。
つまり世界政府だ。
世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて一つの政府の傘下に集まるというようなことは空想だろう。
だが何らかの形における世界の連合方式というものが絶対に必要になる。
何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少なくも各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれないからである。

凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。
しかしその武力は一個に統一されなければならない。
二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも武力が威嚇手段として行使される。
したがって勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には無限の軍拡競争が展開され遂に武力衝突を引き起こす。

すなわち戦争をなくするための基本的条件は武力の統一であって、例えばある協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々か進んで且つ誠意をもってそれに参加している状態、この条件の下で各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合わせよりも強力である、というような世界である。

 そういう世界は歴史上存在している。
ローマ帝国などがそうであったが、何より記録的な世界政府を作ったものは日本である。
徳川家康が開いた三百年の単一政府がそれである。
この例は世界を維持する唯一の手段が武力の統一であることを示している。
 要するに世界平和を可能にする姿は、何らかの国際機関がやがて世界同盟とでも言うべきものに発展しその同盟が国際的に統一された武力を所有して世界警察としての行為を行うほかはない。

このことは理論的に昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。
しかし原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す秋が来たと僕は信じた訳だ。

問 それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は大国同志が国際的に話し合って決めることで、日本のような敗戦国がそんな偉そうなことを言ってみたところでどうにもならぬのではないですか。

答 そこだよ、君。
負けた国が負けたからそういうことを言うと人は言うだろう。
君の言うとおり正にそうだ。
しかし負けた日本だからこそできることなのだ。

おそらく世界には大戦争はもうあるまい。
もちろん、戦争の危機は今後むしろ増大すると思われるが、原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。
第二次世界大戦が人類が全滅を避けて戦うことのできた最後の機会になると僕は思う。
如何に各国がその権利の発展を理想として叫び合ったところで、第三次世界大戦が相互の破滅を意味するならば、いかなる理想も人類の生存には優先しないことを各国とも理解するからである。

 したがって各国はそれぞれ世界同盟の中へ溶け込む外はないが、そこで問題はどのような方法と時間を通じて世界がその死顎の理想に到達するかということにある。
人類は有史以来最大の危機を通過する訳だがその間どんなことが起こるか、それはほとんど予想できない難しい問題だが、唯一つ断言できることは、その成否は一に軍縮にかかっているということだ。
もしも有効な軍縮協定ができなければ戦争は必然に起こるだろう。
既に言った通り、軍拡競争というものは際限のない悪循環を繰り返すからだ。
常に相手より少しでも優越した状態に己を位置しない限り安心できない。
この心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻が起る。
すなわち協定なき世界は静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、その静けさがどれだけ持ちこたえるかは結局時間の問題に過ぎないとい恐るべき不安状態の連続になるのである。

 そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮を身をもって体験してきた。
世の中に軍縮ほど難しいものはない。
交渉に当たるものに与えられる任務は如何にして相手を欺瞞するかにある。
国家というものは極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを交渉者に要求する。
虚虚実実千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。
軍縮交渉とは形を変えた戦争である。
平和の名をもってする別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性など初めからないものなのだ。

 原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。
むしろ軍縮交渉は合法的スパイ活動の場面として利用される程である。
不振と猜疑が亡くならない限りそれは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。

 そのような瀬戸際に追いつめれても各国はなお異口同音に言うだろう。
軍拡競争は一刻も早く止めなければならぬ。
それは分っている。
分ってはいるがどうしたらいいのだ。

自衛のためには力が必要だ。
相手がやることは自分もやらねばならぬ。
相手が持っているものは自分も持たねばならぬ。

その結果がどうなるか、そんなことは分らない。
自分だけではない。誰にも分らないことである。
とにかく自分は自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。
責任は自分にはない。
どんなことが起ろうと、責任は凡て相手方にあるのだ。

 果てしない堂々巡りである。
誰にも手のつけられないどうしようもないことである。
集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景―それが軍拡競争の果ての姿であろう。

 要するに軍縮は不可能である。
絶望とはこのことであろう。
唯もし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ方法がある。
それは世界が一せいに一切の軍備を廃止することである。

 一、二、三の掛け声もろともすべての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。
もちろん不可能である。
それが不可能なら不可能なのだ。

ここまで考えを進めてきたときに、九条というものが思い浮かんだのである。
そうだ。
誰かが自発的に武器を捨てるとしたらー 最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。
次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。
自分は何を考えようとしているのだ。
相手はピストルをもっている。
その前にはだかのからだをさらそうと言う。
なんという馬鹿げたことだ。
恐ろしいことだ。
自分はどうかしたのではないか。
もしこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。まさに狂気の沙汰である。

 しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。
どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。
恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。
何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。
今だ。
今こそ平和だ。
今こそ平和のために起つときではないか。
そのために生きてきたのではなかったか。
そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。
何か僕は天命をさずかったような気がしていた。

 非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。
だが今では正気の沙汰とは何かということである。
武装宣言が正気の沙汰か、それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。

 要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。
何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。
これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。
その歴史的使命を日本が果たすのだ。

 日本民族は幾世紀もの間、戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。
神の信条は武力である。
その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。
何故なら武力は神でなくなったからである。
神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。
日本人はその悪魔を投げ捨てることによって再び神の民族になるのだ。
すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。
それが歴史の大道である。
悠々とこの大道を行けばよい。
死中に活というのはその意味である。

問 お話の通りやがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。
しかしその日が来るまではどうする訳ですか。
目下のところは差当りは問題ないとしても、他日、独立した場合、敵が口実をつけて侵略したらです。

答 その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。
そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。
しかも次の戦争は今までとはわけが違う。
僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。

もちろん軍隊をもたないと言っても警察は別である。
警察のない社会は考えられない。
とくに世界の一員として将来世界警察への分担負担は当然負わなければならない。
しかし強大な武力と対抗する陸海空軍というものは有害無益だ。
僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。
その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論によって裏付けされたものでなければならない。
そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。
何故なら世界の秩序を維持する必要があるからである。

もしある国が日本を侵略しようとするそのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それによって脅威を受ける第三国は黙っていない。
その第三国との特定の保護条約生むにかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう。
要するにこれからは世界的視野に立った外交の力によってわが国の安全を守るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ


問 よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。
一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。
もっとも草案は勧告という形で日本に本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。

答 そのことは此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の春から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。
僕が決心をしたのはその時である。

それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。
元来、第九条のようなことを日本側から言い出すようなことは出来るものではない。
まして天皇の問題に至っては尚更である。
この二つに密接にからみ合っていた。
実に重大な段階であった。

幸いマッカーサーは天皇制を維持する気持ちをもっていた。
本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決まっていた。
所がアメリカにとって厄介な問題があった。
それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。
これらの国々は日本を極度に恐れていた。
日本が再軍備したら大変である。
戦争中の日本軍の行動はあまりにも彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。
日本人は天皇のためなら平気で死んでいく。
殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。
これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の評決ではアメリカは孤立する恐れがあった。

この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。

 豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。
故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。
もともとアメリカ側である豪州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることができる。

 この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。
もっとも天皇制存即と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。
元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。
もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。
世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。
日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。

 この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。
憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。
松本君にさえも打ち明けることのできないことである。

幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。
そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。
それは昭和二一年の一月二四日である。
その日僕は元帥と二人きりで長い時間話し込んだ。
すべてはそこで決まった訳だ。

問 元帥は簡単に承知されたのですか。

答 マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。
しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚いていたようであった。
僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。

 元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの侵略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。
それについて僕は言った。

 日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。
日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。
原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。
次の戦争は想像に絶する。
世界は亡びるかも知れない。
世界が亡びればアメリカも亡びる。
問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。
問題は世界である。
いかにして世界の運命を切り拓くかである。
日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くかである。
日本がアメリカと全く同じものになったらだれが世界の運命を切り拓くか。
 好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。
来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。
その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にないであろう。
同時にそのような戦争放棄国の出現もまた空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たしうる位置にある。
歴史の偶然は日本に世界史的任務を受けもつ機会を与えたのである。
貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は対外的にも対内的にも承認される可能性がある。
歴史の偶然を今こそ利用する時である。
そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一の道ではないか。

 また日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際ありうる。
しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。
世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。
それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。
未来を約束するものは、たえず新しい思想に向って創造発展していく道だけである。
共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかのごとく考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史のかなたに埋没してしまうだろう。
現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。
それと同様に共産主義のイデオロギーもいずれ全く変貌してしまうだろう。
いずれにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。

 このことはやがてロシア人も気付くだろう。
彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。世界の共通の敵は戦争それ自体である。


問 天皇陛下はどのように考えておかれるのですか。

答 僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。
マッカーサーの草案をもって天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。
僕は元帥と会うときはいつも二人きりだったが、陛下の時は吉田君にも立ち会ってもらった。
しかし心配は無用だった。
陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、といわれた。

この英断で閣議も納まった。
終戦の御前会議の時も陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。

もしあのとき天皇が権力に固執されたらどうなっていたか。
恐らく今日天皇はなかったであろう。
日本人の常識として天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。
当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。
それを外してくれたのは元帥であった。
だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。
天皇は己を捨てて国民を救おうとさらのであったが、それによって天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。

 正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。
たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。
危機一髪であったと言えるが、結果において僕は満足している。

 なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。

 

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09. 2013年5月06日 00:59:42 : 2QBGFtnu6Y
第43回(5月6日):照屋寛徳議員

天皇元首化と「天皇陛下万歳」

http://www5.sdp.or.jp/special/kenpo/img/43teruya.jpg

 今日(5月6日)で大型連休、ゴールデンウィークも終わる。

 沖縄では、4・28「『屈辱の日』がってぃんならん沖縄大会」、5月3日の憲法記念日、5・15本土「復帰」平和行進と県民大会まで、「憲法月間」として様々の運動や闘いが続く。今年は、7月の参議院選挙と連動する沖縄の沖縄による「憲法月間」を闘うつもりだ。

 さて、去る4・28「『屈辱の日』がってぃんならん沖縄大会」には、1万人余の県民が世代を超えて結集し、4・28「主権回復の日」政府式典の欺瞞と虚構を暴いて見せた。その意味で4・28「『屈辱の日』がってぃんならん沖縄大会」は大成功だ。

 ところで、その日の政府式典で、安倍総理はじめ、三権の長、閣僚、国会議員らが「天皇陛下万歳」を三唱した事に対して、沖縄の側から強い不快感、違和感が表明され、批判が高まっている。

 政府式典に仲井眞知事の代理として出席した高良倉吉副知事は「式典の趣旨がぶち壊しになった」と不快感を示し、「天皇陛下万歳」は唱和しなかったものの、「なぜそうなるか理解できない。アジアや沖縄への戦争責任に向き合えない、柔軟性を欠く日本社会を表している」と批判する(5月1日付沖縄タイムス)。高良副知事は、琉球史が専門の歴史学者でもある。

 菅官房長官は、「天皇陛下万歳」は「自然発生的であり、政府として論評すべきではない」と弁解する。私は、まさに憲法が禁ずる天皇の政治利用だ、と考える。

 自民党の「日本国憲法改正草案」では、第一章第一条で「天皇の元首化」を定め、前文で「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家である」と規定する。自民党「日本国憲法改正草案」第百二条第2項は、現行日本国憲法第九十九条が天皇・摂政に課している憲法尊重擁護義務を削除し、逆に国民に憲法尊重義務を課している。これって実にアベコベだ。

 4・28「主権回復の日」政府式典における「天皇陛下万歳」の唱和は、安倍内閣が憲法を改悪して、国民主権から天皇主権へと回帰せんとする合図のように、私には思える。イチデージナタン!(一大事だ!)

(2013年5月6日 社民党衆議院議員 照屋寛徳)

http://www5.sdp.or.jp/special/kenpo/43teruya.htm

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