天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湘子は11月中旬どう詠んだか

2023-11-16 05:38:07 | 俳句



藤田湘子が60歳のとき(1986年)上梓した句集『去來の花』。「一日十句」を継続していた時期にして発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の11月中旬の作品を鑑賞する。

11月11日
辨当の壓されし飯や神の留守
弁当の飯が押し付けられて美味くないとよく思う。特に焼売弁当でそれを感じる。この感覚にやや寒くなってきた神無月とが呼応する。
鶏頭の芯に到らず夕日消ゆ
鶏頭という花は桜や菊と違い花弁という感じがまったくない。よって「芯に到らず」という心理を納得する。秋の暮の感慨。

11月12日
丹波とふ國は行かねど薯蕷(つくねいも)
つくね芋は通称大和芋とも呼ばれ長芋の仲間。丹波は山国にてつくね芋がよく採れるのだろう。行かないところへの挨拶句である。
山茶花にいま燈のつきし袂かな
「山茶花にいま燈のつきし」はすぐわかる景色。庭にこれが咲いていて家の廊下なの電灯がついたとみる。これに対して「袂かな」が意表を突く。電灯をつけた人(女性)がそこにいるのか。ともかくこの下五への飛躍は凄い。

11月13日
冬といふほのめきに川けぶりをり
「春といふほのめき」ならわかるが冬である。常人はほのめかないのだが……。
宿帳のわが名わが歳冬に入る
旅をした。宿帳を出されて記名した。ああ年を取ったと感じたのか。「冬に入る」は納得できる季語であるし、この些細なことを句になした技量はやはり先生である。

11月14日
干蒲團絵巻のやうにうち竝び
巨大な団地の百も二百も並んで干されている蒲団を思う。「絵巻のやうに」で美しい句にになった。
夜學生泡なすものを飲みて去る
コカ・コーラみたいなものか。やっと授業終わった、眠かったなあ、というところ。季語に「泡なすもの」を合わせたところに芸がある。

11月15日
菊師ほど冷たき指はなかるべし
要するに菊という花が冷たいのである。ほかの花と比べて実際はどうか知らぬが心理的に菊は冷たい。それを菊を扱う人に託した、その指に。湘子の基本は繊細なのである。

11月16日
長汀に道来て合へり秋の暮
「長汀に道来て合へり」の解釈に悩んだ。普通、「桟橋にAと会う」という形で文脈をなすところ「長汀に道来て合へり」であり、会ったのは人ではない。歩いてきた道が汀になって行った、というだろう。このレトリックにしばらく翻弄された。

11月17日
踏切の長鳴り湖の白鳥へ
たとえば琵琶湖のそばの湖西線を渡ろうとするようなときか。むこうの湖に白鳥がたくさんいる。広がりのある風景句である。切り取り方が巧い。

11月18日
百千の鴨日の波へ日の波へ
17日の湖と同じところか。たくさんの鴨と広い湖が簡潔に描かれている。湖にいるたくさんの鴨を見て句を書けと言われて、このような句を小生は詠めないだろうと思って読んだ。言われてみるとできそうだが、ここまで持ってこれない。
覚めてまだ大枯野より他知らず
朝、目が覚めて窓の向こうに広い枯野を見た。それだけのことを詩にしている。この句も巧みなレトリックが冴える。
鮭漁も末の死屍なり洲といはず
下五の言い方に芸がある。「洲といはず」の次を省略していて補えば「瀬といはず」であろうか。要するに川じゅうが鮭の死骸でいっぱいなのだ。18日の3句のレトリックの巧さは際立っている。俳句は表現を磨かねばならぬと痛感する。

11月19日
鮭のぼるみちのくのこの朝月夜
朝方の月がそうとう明るい。そこを鮭が上ってゆく。見たままだが力強い。
鮭番屋晴天にして誰もゐず
晴天なら働いていそうなものだが無人。そこがおもしろい。

11月20日
望遠鏡白鳥の首大寫し
百円入れたら大きな首が映った。なんだ白鳥の首かといた驚き。瞬間の印象を詠むのが俳句である。
雁の竿東北線をよぎりつゝ
東北線をもってきて一句になった。鉄道の旅情を雁の飛ぶ風情と重なる。
菊人形問答もなく崩さるる
そりゃ相手は菊だから壊すぞといっても答えはない。けれどそう言ってみてそこに抒情が通う。菊人形の一物として秀逸ではなかろうか。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする