
11月19日の蘖句会は11時に東伏見駅に集合して吟行を行なう。
持ち句8句に吟行句4句、あわせて12句提出の句会となる。小生以外の参加者が11名とすれば132句を見ることになる。
「センセイ大丈夫ですか」と事務長が気づかってくれる。17時までに句会が終了するかということと、全句講評をするぼくの体力気力への配慮である。
選句者の発言を絞れば全句講評をする時間は捻出できると踏んでいる。
しかしだ。
全句講評などという一見優しいことをしていて果たして個々の俳句は向上するのだろうか、ほんとうに個人のためになっているのだろうか、という根本的な疑問はずっと感じている。
高浜虚子が句会で弟子たちの句を見て「今日は採る句がありません」といって帰った話は俳句界に語り継がれている。
俳句の指導はこれでいいのではないか。
先生が採った、採らなかったがもっともシンプルな評価だろう。
先生に採らなかった理由を聞くのではなく自分であれこれ考えることのほうが勉強になるのではないか。
そこで考える量や深さが簡単に解説されることよりも自分を磨くことになるのではないか。
虚子が優しくなかったのではなくて本質を見極めていたのだろう。
世の中がどんどん甘くなった。
カルチャーセンターとやらが雨後の茸のようにできて人は何かを教えてくれることに慣れてしまった。
愛犬の口にまるで餌をスプーンでやるような図式を勉強と思う人が世に満ち、口を開けて指導を待っている。
藤田湘子はかつてカルチャーセンターの講師をやっていた。
それをやって1週間後に鷹のわれわれを指導するときは猛烈に厳しかった。カルチャーセンターで自分自身が甘くなったことを振るい落としたいような感じであった。
湘子の一番弟子、飯島晴子は「俳句は教えることなどありません」とおっしゃった。彼女は人と連まずひとり吟行して厳しい句をものす孤高の人であった。
名句がいっぱい世の中に出ているのだからそれをしっかり読むので勉強できるでしょう、というのが晴子の思いであったであろう。
全句講評は句会へ人がひとりでも多く来てくれるための方途であると自覚してやってきた。
句の取捨を重視するという原点へ還るべき時が来たかなあ。
指導されることばかりに慣れてしまうと人は自分の頭を使わなくなる。自分の頭をめいっぱい使うことが大事ではないのか。
全句講評というオブラートを剥すべきときに来ているのではないか。自分で問題に気づくことのほうがいわれることよりはるかに有益であろう。自覚しないと俳句はよくならない。
俳句が自得の文芸といわれるゆえんである。