天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

飯島晴子のようにわれ激す

2016-11-21 18:53:42 | 俳句


おとといの蘖句会で134句見た中で次の一句はぼくの神経を逆撫でした。

胎の子へピアノ弾く嫁小鳥来る
 

鷹同人の点が入ったのでよけい気に入らず暴言に近い口調で嫌だなあとわめいてしまった。
「胎の子へピアノ弾く」とは胎教というやつか……だいたい何かためになるためにこれをしましょうというセンスが大嫌い。
そういう価値観にまずとらわれてしまった。

学校で読書感想文を書くために本を読む……嫌だ。
そのための課題図書があって……嫌だ、それは人間の品性がよくなるもの、正義に貢献するもの……嘘っぽい。
「胎の子へピアノ弾く」なんてそういう路線のうわべの幸福じゃないか。
調子に乗っている人に飢餓や虐殺やその他の酷い修羅が充満している自分の住む五キロ圏外の広い世界が見えているのか。そういう酷さと関係なくぼくらは生きているのか、と説いたくなってしまった。
そんなことまで考えて俳句をしなくていいのだが、この句のふわふわした幸福観が眠らせておいたぼくの反発心に火をつけてしまった。

日ごろ俳句は好き嫌いの感情は横においてテキストを真摯に正面から読みましょう、などといっておきながら激してしまった。
家に帰って句稿を読みなおしていて激したぼくはあのときの飯島晴子に似ていたなあと感じた。
晴子はいつだったか湘子が主宰をしていた中央例会でぼくと同じように句の出来そのものとは関係のなく猛反発したことがある。
その句は忘れもしない。

長き夜の妻の正論聞きゐたり 中村昇平


晴子は論評したから採ったのだろうが採ってから褒めるのではなく、男社会に対して女の立場みたいなことをいい始めてしまった。
句そのものの出来と関係ない句評で妙だった。会場がざわざわした。
後で昇平さんが「晴子さんどうしちゃったのかなあ」といってニヤニヤした。ぼくも晴子さんが激した内容は何だったのか実に興味深かった。

いま思うと晴子の世界観に昇平さんの句は合わなかったのだろう。
晴子さんが句の出来を離れて興奮したのはおもしろかった。
ぼくも同様に興奮したわけだが、俳句は理性を失ったような句評に割に本質的なことが垣間見えるのではなかろうか。
句は基本的に書きたいように書くしかない。何を書くかは個人の自由である。この句の作者には後で電話して手直しの必要のないことを告げた。

また、人が激する句というのはおもしろい側面を持っていることも伝えた。毒にも薬にもならぬ句に人は何の反応もしない。嫌と思わせる句のほうがずっといいのである。
嫌な句はきちんと嫌さを伝えるレベルに仕上がっているのである。
コメント
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