天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

添削プラスアルファの労働

2016-01-17 16:28:08 | 俳句

今年31人目の添削のお客様Оさん(72歳)は添削句以外に講師あての質問があった。
それは朝日俳壇の金子兜太選に入った句に関しての疑問である。

冬鹿や光の中の爪を切る

Оさんはこの句を採った金子兜太さんの句評の「冬光の中に鹿。爪を切る自分」に疑問を抱いている。
すなわち、「冬光の中に鹿」と読むのは「光の中の爪」の光が上五へ帰っていくのであろうか、でも「冬鹿や」で大きく切っているから変ではないか、という趣旨である。

ぼくは兜太さんがそこまで厳格に読んだのではなくて冬鹿にも光を感じたのであろうと解釈する。
ぼくが問題にしたいのは、この句は作者の爪切りがテーマであろうか、ということである。

兜太さんもОさんも上五が大きく切れているから下の爪は作者のものと取っているところでは一致している。
けれどぼくは構造上「や」切れではあるが、鹿の爪を切った句でないとまるで俳句にならないのではないかと思うのだ。
ホトトギス黄金時代の作者たちは上五を「や」で切りながら実際は下へつなぐための一拍取る意味の使い方をよくした。
ぼくも彼等にならって「猟犬や車飛び出し息荒し」と書いたことがある。息を整えるための「や」切れであり、内容はつながっている一物仕立ての句である。

自分が日当りのいいところで爪を切る句だとすると「冬鹿」などという季語は唐突きわまりないではないか。
ふつう爪切りは自宅でするだろう。そこに鹿がいるなどふつう考えにくい。
自分の爪切りならこんな特殊な季語をつけず、今なら「初春」とか「春隣」とかいった普遍性のあるものをつけたほうがいい。
まあどんな季語を持ってきても「光の中の爪を切る」という措辞じたいがあいまいで(光は世に満ちていてつかみどころがない)、ここをもっと掘り下げるべきだろう。
この句がぼくの句会に出てきたらそう指導するだろうし、添削に出てきたら「中七下五はあいまいゆえ自分自身がこれは見たという説得力のある言葉を探してほしい」と注文をつけるだろう。

世の中には活字になったものは優れているという思い込みが蔓延している。
特に初心者はそう考えてしまう。
ぼくは朝日俳壇の俳句のレベルをそう高いとは思っていない。まだしも讀賣俳壇のほうが見るべき句があると思っている。
すべからく自分自身の俳句眼を養うことが大事である。

添削だけならまだしもときおり大先生の採った句に関して意見を求められるという厄介な仕事も舞い込む。しかしこれに答えるほうがその人にとって添削よりも勉強になることが多く、逃げるわけにはいかないのである。
コメント
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