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天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

俳句つくりの原点を考える

2022-06-10 06:54:01 | 俳句



初心のRさんの句をまとめて見ていて気がついたことがある。それは言葉を核心に向かって発していないということである。サッカーでいうと球は動いているのだがゴールに向かって来ない。何のために球を扱っているのか、というようなことである。

雲の峰重きザックの八合目
この句を読んですぐ八合目でなくてもザックはいつも重い、と思ってしまった。それに鷹の人なら、「重きザックの八合目」という名詞のフレーズに対して季語を「雲の峰」というふうに名詞剝き出しのまま置かない。
これは藤田湘子が「山本山」と言って嫌った構造である。なぜ湘子が嫌ったかというと、名詞と名詞が間に何もなくぶつかるとまったく動き、流れがなくなって苦しいのである。俳句を読み流れとリズムを感じ、息をゆっくりさせたくないか。したがって鷹の作者はとりあえず「峰雲や重きザックの八合目」とする。「や」で切ることによって空間が生じ句が恰幅を持つことになる。
しかし、やはり「重きザックの八合目」という措辞がおおざっぱに思えてならない。モノはあるがそのモノに対して作者の思いが薄い。俳句は心を書くものではないが自分が意識したモノならばそこに自分の意思が投影されていないとおもしろくない。表現というのは結局自分を書くことである。景色の中に自分を立たせること。
小生ならここで自分を出す。八合目は捨てる。説明である。
たとえば、
「重きザックを石に置く」
「重きザックを草に置く」
「重きザックを放り出す」
「重きザックが肩をずれ」
「重きザックと倒れ込む」
「重きザックに汗しとど」
のように自分とのからみでいろいろな展開ができる。いまあげたいろいろなフレーズにどんな季語が合うのか。
「郭公や重きザックを石に置く」
「夏蝶や重きザックを草に置く」
「雲の峰重きザックを放り出す」
「蟬鳴くや重きザックが肩をずれ」
「万緑や重きザックと倒れ込む」
「峰はるか重きザックに汗しとど」
こんな感じでフレーズと季語のお見合いを繰り広げる。そのうちザックが重いことを言わなくてもいいか、という考えも浮かぶ。ザックをおろすとすっと軽くなって、よろめいたことを思い出す。こっちのほうがおもしろいかな。
「ザック下してよろめきぬ」
これに季語をつけるとすると上五、黄菅が咲いていたなあ、ということで、
「黄菅原ザック下してよろめきぬ」みたいに展開していく。
こうなっていくと、「重きザックの八合目」で放り出していた他人行儀から言葉はがぜん自分のものになっていく感じがする。
「言葉が自分のもの」というのはまやかしである。万人が共有しているから言葉は通じるのであるが、言葉の連結を変えたりすることで自分を出すことができ、それがおもしろいのではないか。
「雲の峰重きザックの八合目」は俳句のスタートラインだと思うのである。ここからやるべきことがたくさんある。Rさんはスタートラインでうろついていて言葉の海を泳いでいない。七転八倒して苦しむことが楽しいという世界が待っている。

もう1句挙げる。
靴音の徐々に遠のく夏未明
「靴音の徐々に遠のく」で作者を感じることができたが、季語が効いていない。
どうしてそう思うかといえば、作者が感じた靴の人はどこにいたのかまるで見えない。そもそもこの句に見えるモノが皆無。それは俳句として弱い。それに「夏未明」などという季語が胡乱。「夏の朝」というほうがまだしもまっとうである。季語に手を加えないほうがいい。
季語を「霧」にすれば場所は「夏未明」よりクリアになる。それでも山もあれば海もあるし情緒過剰な感じもする。けれど「靴音の徐々に遠のく」には情緒に訴えたい作者の心情が根底にある。ならば「アカシヤの花」がいいかもしれない。
アカシヤの花靴音の遠ざかる
これなら原句より見える出来となる。
季語は一句全体を支援するものである。見ない心情などを五七、七五にもってきたようなとき、季語でしかと見せることがが大事である。

たとえば、連合が死んだらというようなことをふっと思う。
すると「妻亡き後を考へる」というフレーズが出来する。ここにはモノがないが句にできないわけではない。季語次第。季語にしかとモノがあれば支えられる。
蟻地獄妻亡き後を考へる
としてみた。この季語で複雑な心境がいちおう出せたと思う。
向日葵や妻亡き後を考へる
などとしたら小生は妻に首を絞められて妻よりはやくこの世とおさらばだろう。
余談だが、古い世代の夫婦の妻は
雲の峰夫亡き後を考へる
ということも言えるわけである。夫の世話に明け暮れする女の人生もある。季語はかように物を言う。作者があからさに心情を吐露できない俳句において季語は作者を代弁してくれる切り札なのである。ゆめゆめそこにその花があったから、という安易な理由で使わないように。

写真:府中市欅通り
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