
中山学氏の挿画
片町文化センターの新刊書コーナーに葉室麟が出ていた。
『津軽双花』(2016/講談社)である。中篇の表題作のほか「鳳凰記」「孤狼なり」「鷹、翔ける」という短篇を収録している。
「津軽双花」は、津軽藩二代藩主の津軽信枚に嫁いだ、石田三成の娘で高台院(ねね)の養女・辰姫と、徳川家康の養女・満天姫の二人の姫を描いている。
帯文が「この戦い、女人の関ヶ原にございます」と謳うように、運命の戦から13年して因縁の血筋の二人の女が再び因縁に立ち向かうのである。
最初に嫁いでいた辰姫から正妻の座を奪うべく満天姫が乗り込むという形になるのだが、予想に反して二人は互いを認め合い、津軽家存続の危機と再び乱世となる危機を乗り越えるべく己を鍛えていく。
殿の寵愛を得むとすれば殿の気持ちは自分から離れるだろう、そういう欲は抑えることで美しくなれる。相手も同様に考えているだろうから負けるわけにはいかぬ。
葉室麟作品にしてはやや粗い面はあるが人間の倫理観から来る気高さを美しく描くのはこの作家ならではの味わい。
甲乙つけがたい女二人が凛と振る舞うさまはややできすぎでリアリティに欠けるほどであるがうっとりし、梅(辰姫)も桜(満天姫)も堪能できる殿さまになりたいと思った。
一方が早逝するとき二人は面談して信頼し合い子どもを託すのだが美しい。
これが最大の見せ場かと思いきやこの作家はさらに満天姫の連れ子の処遇に話を展開して哀憐を極める。
ピアノ線が指に食い込むような直木賞受賞作『蜩ノ記』ほどの迫力は「津軽双花」にはないものの、大義の前で個人を律すること倫理感には打たれる。
葉室麟を読むと身を粉にして大義のためにはたらく、律するということの美学に酔ってしまう。
閑話休題―――――――――――――――――――――――――
葉室麟が描く武家社会の道徳規範において、人は人に見られているから規範にならねばならぬという強い意思がある。
たとえば自分の置かれている俳句のつきあいにおいて、同人であるならばついてくる後輩の模範にならねばいけないということになる。
ある句会でれっきとした同人が、「みほとけの慈愛の指に秋深む」という句を出してきた。これが同人の句であることが判明してがっかりした。
こんな句に初心者の2点が入ってしまった。
藤田湘子がこの場にいたらどれほど激怒したであろうか。これから俳句をやろうとする者の目に触れさせてはいけない代物。俳句を知らない人はこういう古色燦然とした古臭いものが俳句と誤解してしまう。
失敗作は誰でも書くのであるが、書いてはいけない種類の句というのはある。
あるていど俳句をやり指導的立場にある者は自分の立場をもっと意識すべきなのだ。
葉室麟は身の律し方、身の振り方の美学をぼくに問うてくる。
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