10月13日のひこばえ句会から。
Zさんの「畳まんとすれば朝顔乱れ咲く」の畳もうとするモノが見えないという小生の意見にZさんが反論したことを先に書いた。
Zさんは同じ素材で朝顔の句をもう一句書いていた。
棚畳む朝顔ひとつ凛と咲き
ぼくは「棚畳む」と「朝顔」の関連がどうなっているか戸惑った。ここで切れていて朝顔の関係ない棚が家のそばにあってそれを壊した。そのとき朝顔が咲き出したとすると関係なさが面白いと思った。
鷹同人Fさんも採っていて、「私は朝顔を支えるようなものを思った」という。そこでそれを「棚」というのがいいかということになった。
ここで書き手のZさんにコメントを求めた。自分の句に何か言って参加していい場面である。彼はネットで張りめぐらせたものという。
ここに「秋草」の木村定生さんが「それを棚というのは無理がある」と言って合評に参加。ぼくも朝顔の棚には無理があるから別の棚を思ったのである。藤棚、糸瓜棚というのは水平の概念であり、楯状の朝顔にはふさわしくない。モノをつかみ損ねたのが失敗の原因である。
この議論に参加した木村さんのモノ意識はしっかりしていた。
皮すぐに千切れる蜜柑剝いてをり 木村定生
この句を小生ひとり採って特選とした。
薄皮で中身が張りつめているみずみずしい蜜柑が目に浮かぶ。そういう蜜柑の皮むきはまさに「皮すぐに千切れる」で苦労する。巧まず端的にとらえたのがいい。そのへんを木村さんは「ぼくの句はばかばかしい」と笑うが、この卑近さは俳句のおおいなる魅力。ばかばかしさのすぐ横にあるエアポケット、俳句はそういったところで勝負できる詩型なのだ。焦って爪で傷つけあらわになった果肉も見える。そういうことがビビッドに伝わる。
蜜柑がみずみずしいのがまずいいし、苦労している指が見える。食べるまでに時間がかかるもどかしさがおかしい。諧謔の味わいで蜜柑の存在を際立たせている。
この句に対して句歴1年半のHさんが「これなら私でも書けると思いました」と、句会後不満げに言った。「ではこういう句を書いたらいかがですか、ほんとうに書けますか」と問うと黙った。できた作品をみて私もできるという感慨を持つことを「コロンブスの卵」という。
簡単に見えていてなかなか書けないのが一物俳句である。技術的にいうと「皮」をどこで出すかという問題に作者は頭を悩ませたであろう。「蜜柑の皮を剝く」というのもたぶん考えそれでは流れができないと気づいたはずである。「皮」の置きどころは冒頭が最善と断じたとき「蜜柑剝く」でいけるとなってすっと流れたと小生は推察する。
朝顔の一物は「棚」で破綻したが蜜柑の一物は「皮」で成功した。その原因は、朝顔のほうは複数の朝顔を書こうとしたのに対して蜜柑のほうは一つに絞ったためである。絞ったことにより「皮」をしかと見せることができたためである。
俳句はモノに拠って成る詩ということの証左であろう。
写真:わが家上空(10月16日7時ころ)
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