大國魂神社
藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の11月上旬の作品を鑑賞する。
11月1日 濱離宮公園
房州の海女ほどならず鳰の息
どだい鳰が息をするとき声を感じないだろう。そこに敢えて海女が海から出たときの吐息を重ねた。そうすることで両者の息遣いを見せる。
鴨の陣ときをり鰡を放ちけり
鴨の陣だから鴨がたくさん水上にいる。「鰡を放ちけり」は、鰡が撥ねたことを言っているのだろう。主語を「鴨の陣」とした巧妙な表現。鰡は秋の季語だがこの場合、主季語は鴨であろう。立冬が近い季節感の句。
11月2日
曇るべし輝るべしどれも紅葉山
妙な句である。曇っても日が照ってもどっちでもいい、と言う。どっちにしろ紅葉山は紅葉山である。この投げやりな気分はどうしたことか。
11月3日 「おくのほそ道」封人の家
翁忌の近き爐を焚き且守り
前書の「封人の家」は、山形県東部に古くから見られた茅葺き寄棟造り、広間型民家。芭蕉が滞在したとされる国の重要文化財。「爐を焚き且守り」と見た作者の愛着もこもる。
封人の家
鳴子峡
あしたより水欲るからだ紅葉狩
朝から水を飲む。「百日紅ごくごく水を吞むばかり 石田波郷」があるが夏でなくても作者は喉が渇いたらしい。紅葉見物を前に興奮したのか。
紅葉山却つて松を讃えけり
赤や黄の紅葉山に松があった。色変えぬ松である。そのみずみずしい緑にえらく惹かれたのである。「却つて」の使い方の巧さを記憶すべきだろう。
尿前の関跡
籾殻の山なすここが関の跡
籾殻の山というのがおもしろい。関所跡など今はこんなものだろう。
残菊に今ゐる虻も芭蕉みち
「今ゐる虻」で芭蕉の旅を懐かしむ。「芭蕉みち」なる圧縮した造語が一句を締める。
11月4日 江合川
昼月があり死鮭の貌があり
「昼月があり」は通常にて驚かないが、「死鮭の貌があり」にはっとする。たんに鮭ではなくその「貌」をクローズアップしたことで臨場感を出した。並列の妙味。
11月5日
夜学校鏡錆びつつなほ映す
古い校舎。「鏡錆びつつなほ映す」で、ところどころ見えないがおおまかに映る鏡を描く。この目の付け方に感服するばかり。
威銃出羽街道をずたずたに
「出羽街道をずたずたに」は、ふつう、洪水跡の惨状だがこの場合そうではない。見えている出羽街道が作者の想念の中で散り散りになった感じがしたのだ。この見方はファンタジーであり弟子ながらこれを嫌うのが小澤實ではないか。小生はこの場合、まあ許容してもいいかと思う。
照紅葉いくたび息を継ぎてもや
この句にも湘子の情念が見える。「いくたび息を継ぎてもや」がそれ。この表現でまず思うのは山登りであろう。しかしここでは運動による酸素補給の忙しさではなく、紅葉の眩しさに対しての心象である。このへんが湘子の湘子たるところである。
11月6日
大時計夜長を生んでゐる如し
この時計は振り子時計のような気がする。振り子の揺れを見ていて時間を感じるのは理解できる。振り子が揺れるから夜が長いと思うのも。みごとな一物仕立て。
11月7日
椿の実恥の記憶のひとつならず
来し方を振り返っての感慨を作者はよく書く。中七下五は誰にもある思い。こりっとして硬い椿の実が効いている。
秋風や書けば見えくるものの綾
喜怒哀楽といった思いを俳句に書くなと初心者は教えられて俳句の道に入る。けれど畢竟、それを書き切ることで達成感を得るのも事実。この句は作者の推敲の過程であろう。複雑な思いをいろいろな角度から書いてみることで新たな局面に至る。新しい自分を発見する。言葉との格闘の楽しさ、歓びといったものがこの句に詰まっている。
11月8日
榾積んで厩のうしろ固めたる
榾は質量があるからこういう場所に積むのにふさわしい。厩は壁が厚くないので風が通る。それを榾でふさぐのだ。実直な内容。
11月9日
黄落や水からのぼる日の匂ひ
「黄落」を置いたことで水の清冽さをしかと感じる。水の上に朝日が出で光がさっと広がる。これを「匂ひ」ととらえた。実際に「匂ひ」などないだろうが詩の中で「匂ひ」が生れる。胡麻化されてもいいと思う。
歩みゐるところは乾き落葉道
よく見ている。確かに踏まれたところにそう水分はない。左右は濡れている。
山茶花や情かけたる人の死へ
これで一句できるのか、といった種類の句。使った言葉全体のバランスがいいのである。そうたいした意味がなくても俳句は一読した感じで「ああいいな」と思わせればいい。分析すれば「情かけたる」と「山茶花」は親近感が絶妙なのだ。
11月10日
泰山も廬山も知らず風邪心地
泰山(たいざん)も廬山(ろざん)も中国の名山。それを知らないことと風邪っぽいのとは関係ないが強引に併せた。すると不思議に言葉が化学反応を起こし言葉が屹立してくる。取合せの妙である。
もの申すほどに齢古り夷講
七福神の夷(えびす)を祀る行事。人に意見するほど自分は年を取ったという感慨である。この季語にふさわしい言辞であろう。
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