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天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

桑の実がクレープに

2025-05-25 07:01:24 | 身辺雑記

 

是政橋付近で桑の実摘みをするはずが、吉祥寺でクレープを買うはめになったという話。↓

 

 

きのう結と遊んだ。5月24日、桑の実の熟すピークである。自転車に結を載せ多摩川へ向かって走り出して1キロすると「総武線に乗りたい」とはっきり言うではないか。多摩川に線路はないぞ。そういえば出かけるときも「総武線」とか言っていた。それを無視して多摩川へ南下したのだが奴は総武線でないことに気づき、はっきり言葉にして反旗を翻した。いいことである。総武線はどこで乗るか聞くと「三鷹」と答える。「三鷹へ行くにはどうするか」「中央線に乗る」。「どこから?」「西国分寺」。しかたなく西国分寺駅へ引き返す。

1年に1度の爺の壮大な希望はあっさり瓦解した。

三鷹駅で総武線のホームへ行き、始発電車に乗る。走り出してから行く先を聞くうち吉祥寺駅が見えてきた。「京王線が来ていた?」と結に聞かれ頷くと、それに乗るというのであわただしく下車。京王井の頭線に入場券がないので140円区間を買う。久我山まで行き引き返し、井の頭公園駅で降りて井の頭池を通って吉祥寺駅へ戻るという構図である。

 

 緑の藻が繁茂する池

 

途中「腹が減った。おやつ食いたい」と結が言う。爺も腹が減った。久しぶりに買い食いをしよう。店を探しつつ歩き、駅近くへ来たとき、結がとあるクレープの看板で動かない。

ここは駅から井の頭池へ行く目抜き通りのクレープ屋。そういえば何度かここを通ったとき結がいちばん関心を示したのがクレープであった。

小生は昔から買い食いしないタイプ。結に時間をやらず、手をぐいぐい引いて通り過ぎるのが常だった。結はそうとうクレープを食べたかったようだ。しかし「食べたい」とか「買って」とか言わなかったのは偉い。けちな爺と思ったことだろう。

きのう、はじめて苺クレープを食べた。このくらい時間をかけて欲しい物を手にするのが教育的であろう。教育的という小生にふさわしくない言葉が浮かんだ。恋だって失恋を経験したほうが濃厚になるのだ。

クレープは美味かった。もちもちしたクレープの食感がいい。爺のほうが感動して結のを千切って食べた。結は、爺もひとつ買ったらという顔をしたが買わない。出費を630円で抑えた。

 

           

             「桑の実は爺が摘んで来い。俺は町が好きだ」と言わんばかりの結。

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桑の実3リットル収穫

2025-05-17 04:01:17 | 身辺雑記

 

きのう踏み台を積んで自転車を多摩川へ駆った。桑の実摘み初日である。結と土曜に行こうと思っていたら妻が「雨の予報だし結は咳が出るからやめて欲しい」という。女はどうしても安全を最優先して冒険しない。おもしろくないが、まあ、一人の方が採取に集中できることは確か。

誰でも知っている大樹Aへ行くが誰もいない。この木は河岸の道から丸見え。近くに暗渠からの排出口がある。夏草が胸のあたりまで繁茂している向こうに桑大樹Aがある。

夏草を搔き分けてゆく泳ぐがに

 

夏草に置きし踏み台ふはふはと

金属製の高さ60センチの踏み台が重みを失ったように落ち着かない。おまけに土も凸凹。野外は庭園のように平たくない。踏み台の上で体をひねったり枝を引っ張ったり。

 

桑の実を摘む踏み台に爪立ちて

 

 大樹A

 

 

時候の挨拶をすべくヨミトモF子に桑の実の写真を送った。すると彼女から「養蚕の遺産の世話になっていますね」と素早い返信が来た。ああ、彼女は誤解している。地方の人は小生を含め、桑は低木だと思い込んでいる。

小生は18歳のとき伊那から東京へ来た。ビルや人、車両が多い都会の混雑ぶりに驚いたがそれにも増して、直径が30㎝、樹高が7mもある桑の木が散在することに仰天したものである。養蚕に精を出していた父母は葉が取りやすいように桑の木を2m以上にならぬように管理した。よって桑の木は自生しないと思っていた。多摩川へ来て桑の木は好きなだけ太りかつ伸びることをはじめて知った。人が植えるのではなく鳥によって種が運ばれ実生で増えることを実感した。伊那の栽培された桑の木と多摩川のそれが同じ種類かどうか知らぬが桑の実はほぼ同じ。郷愁を覚える。ヨミトモF子にそれを教えると彼女もびっくりしていた。

 

 柵をよじ登るのは河川巡回員

 

桑苺胸汚すほどなだれたる

ヨミトモF子は多摩川の桑の木が楠ほどの大きさであることがわかったであろうか。木の下に入ると中はひろびろしていて大樹Aの木陰の直径は10mある。枝は幾筋も垂れ下がる。そのさまは枝垂れ桜のようである。一本の枝に桑の実が鈴なりになっている。密集しているのでひと粒ずつ取らず、しごくこともする。

 

 

 木下闇の直径およそ15mの巨木B

 

 

大樹Aから巨木Bに移って摘む。大樹Aは野天だが巨木Bは森の中。胡桃や柿やほかの木とともに森を作っている。鬱葱としている。

 

赤く黒く桑の実光る木暗がり

枝の裏表から桑の実を摘む。裏側の方がたくさんある。雌伏している感じである。踏み台に立って枝と枝の間に顔を出したりする。剪定作業にも似る。

 

人の手の気配に零れ桑苺

零れゆく桑の実無数桑の実摘む

木によって桑の実の風情はかなり異なる。最初の大樹を長いこと諦めていた。年を取って実に水分が少なく硬いと思っていたが誤解であった。来る時が遅かったのである。5月16日だとここの桑の実はみずみずしい。けれど、熟していない薄赤がぼろぼろ落ちるのはやるせない。やはり木が老齢化して堪えられないのか。豊かさと虚しさを同時に感じるとき。

 

木に満ちて地にも散らかり桑苺

2本の大樹で3リットルの桑の実を摘んだ。1時間半、踏み台に立って摘むことのみ考えた時間。首と脚の凝りと張りを感じつつ摘むことに集中。句作に集中するとき頭はフル回転させる。それとはまったく異なる時間。ほかのことは考えずに取ることのみに集中する時間は格別。雑事が霧消する。取り終えて地を踏むとかなり消耗していることに気づく。

 

 

 

ブログファンにも写メールで挨拶する。乗りがいいのでチアガールAとしておこう。すぐさま返信がきた。「また多摩川ですか。いつまでも少年ですね。すばらしいです!」。馬鹿なことばかりするという意味か。茶化されている気はしない。74歳になってどうでもいい桑の実に狂奔するなど酔狂であることは間違いない。いま、いちばん、おもしろいことである。Aに触発され少年の気分になった。

 

少女仰ぐ桑の実を摘む少年を

むかし少年はガールフレンドが欲しかった。チアガールAのような。「少年の見遣るは少女鳥雲に 草田男」は絶品。この句が小生の前に立ちはだかる。

 

桑苺少年少女恥ぢらへり

桑の実に汚れし唇を笑ひ合ふ

清らかな妄想が浮かんで楽しい。

 

乾いてはならぬ女も桑の実も

女が乾く。老化することであるが、桑の実採りを何年もして感じたことは卵子の老化である。桑の実は熟すのはこれから5月いっぱいまで。6月になると木に付いていても熟すことなくぼろぼろ地に落ちてしまう。

江戸時代、女の結婚適齢期は18歳であった。16歳の嫁入りもあった。子どもは20歳前後で生んだ。これは卵子から見て生殖の本質にかなっていた。卵子が若くいきいきしていて元気な子が生まれる。ところが現代は女が男同様に社会へ進出して競うようになった。現代の女は高齢化出産という問題に直面している。出産と社会における活躍の両方をこなすのは過酷である。人間の文化に生殖という自然が立ちはだかる。

これから卵子の冷凍保存が本格化するのではないか。そうしないと女の人生は過酷すぎるように思う。

 

 

桑の実に夕日少年老い易く

少年老いたり桑の実に唇汚し

俳句も自分の箍を外してやるのがいいだろう。考えるより感じることだろう。草を見て感じ、風の中を歩くのがいい。

 

 

 クサフジ

 

旅人に茅花流しと太虚あり

多摩川の茅花が美しい季節になる。これが風になびくさまは無常である。

 

踏青や景色を隠す大男

おいおい君はどこから来たのか。俺の前を歩くなよ。景色が楽しめなくなる。先日、祭警備の警察官の肥満を句にしたが世の中に肥満がはびこっている。太ろうと痩せようと知ったことではないが、せめて俺の前を歩かないで欲しい。

彼は小生の快適な一日に闖入してきた、ああ。

 

 

 

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トリセツトリセツと唱えつつ

2025-05-11 03:39:25 | 身辺雑記

                       

 

昨夜、妻がプロ野球を見ている小生の部屋へ来た。夜伽などあり得ない。長く時間を取りそうな顔つきにテレビを消した。

11か月同居してきた下の一家(息子の遺族)が晴れて7日後、新居へ移る。その関連の話とみた。小生が多摩川を視察しているとき、孫のヒロ(中1女子)と行動したらしい。

「ヒロはバレーボールが好きなの……」と妻の話は始まった。忙しい母に代わって妻が移る八王子の中学校でそれが部活にあるところを探した。けれどバスケットボールを採用している学校は多いけれどバレーボールを部活にしている学校は少なく八王子には2校しかない。ふむふむ、それで……

該当する学校の一つは工事中、もう一つは先方が転校生の受け入れに消極的である。「それで夫に何をしろというのだ」と喉まで上がりかけた言葉を抑え、「トリセツトリセツ」と内心で唱える。この呪文は、黒川伊保子著『女女問題のトリセツ』から学んだ。この本で黒川女史は、女は話に<共感>を求め<結論>を求めない。一方男は、話に<結論>を求め<共感>を求めない、と看破している。卓見である。夫に話しかけるのはまだ愛情があるあかし、我慢、我慢とこらえる。

妻は共感して欲しいのだ。けれど何に? トリセツトリセツと唱え「それでどうした」と結論を急かすのをこらえる。

「ヒロちゃんはいい娘でね、お母さんに心配かけたくないといって涙流すの」。ふむふむ、それで……じれったくて「バレーボールクラブを民間で探したら」と提案すると、「そんな余分なお金あるわけないでしょ」と、けんもほろろ。おまけに「そんなこと聞いていないの!」と来た。まさに黒川先生のおっしゃる通り。俺はどうすればいいのか。ともかく1秒でも早くこの話を終えて帰ってもらうにはどうしたらいいのか。

ふむふむと相槌を打つ格好をする。ヒロはやや苦手のバスケットボールをやる気になった。それでボールだのシューズだのをきのうヒロと一緒に買ったの。ふむふむ、それで……3万円使った。「おお、よかったね」と同意するとやっと妻の顔はほころんだ。これで一件落着かとホッとしたら、私がこれだけ動いたのに嫁は何にも私に言わないのよ、とまだまだ終わらない。最後は嫁に対する不満という古典的なところへ来た。やれやれ。

これにも共感しなくちゃいけないなんて、幇間(ほうかん/太鼓持)という稼業ににわかに敬意を表すのであった。彼らは黒川先生の『女女問題のトリセツ』を完璧に理解して実践できる輩である。ゆえに商売になっている。

結局、妻の話したいことの核心、テーマはわからなかった。なかった。つまり、話しはじめてから終るまでのすべてが重要なのであり、そこに摑む手がかり、取っ手のようなものを探す男を寄せ付けないのであった。取り付く島もなく男は海を漂う身の上、ああ……。

野坂昭如作の「黒の舟歌」の歌詞を思い出した。それは以下のものである。

【1番】

男と女のあいだには
深くて暗い 河がある
誰も渡れぬ 河なれど
エンヤコラ今夜も 舟を出す
Row and Row
Row and Row
振り返るな Row-Row

 

「男と女のあいだには 深くて暗い 河がある」

もう1年で妻と50年共に生きてきたことになる。けれど容易に渡れぬ川の幅と深を感じてならない。たぶん、妻も同様の思いなのだろう。

この歌詞の凄さを改めて思う。この歌詞の深みは1番のみでなく5番に繰り返されることである。

【5番】

おまえとおれとの あいだには
深くて暗い 河がある
それでもやっぱり 逢いたくて
エンヤコラ今夜も 舟を出す
Row and Row
Row and Row
振り返るな Row-Row

 

「それでもやっぱり 逢いたくて」

リフレインさせてテーマを濃厚にした手腕。男と女は理解しがたいのに求め合う、いや理解しがたいからくっつきたがるという深淵に迫るのである。さすがは野坂さん。

未来永劫、「トリセツトリセツ」と唱えてゆく運命なのである、夫婦というものは。小生か妻か死ぬまで。

 

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多摩川の藪に捕まる

2025-05-10 12:35:54 | 身辺雑記

紫の花、名前を忘れたが5月の多摩川の名花。後ろが多摩の横山

 

今日は子守りなし。明日は子守りがある。結の好きな桑の実の生育状況が気にかかる。雨ゆえ自転車を避け、電車とバスで行こう。電車で行き競艇場行きバスに乗り替える予定だが府中本町駅に8時15分に着くと、バスも誘導員もいない。バスは9時からという表示。しかたなく駅からひたすら南へ歩く。3000歩を覚悟したが2000歩で多摩川へ着く。

ここから「多摩の横山」が見える。対岸の多摩市に横たわる低山、というか長い丘のようなところである。

春蝉や多摩の横山ふかからず 篠田悌二郎

螢火に多摩の横山眉引ける 川端茅舎

などの作例がある。よくこんな変哲のない地形を詠んだものである。

 

 

 

ここいらで一番大きい桑の木に近づく。

桑の実のしだれて重し雨しとど

桑の実はよく付いている。赤みがあるものもあるが食べられるのは一週間後。5月17日か18日、結を連れて来て採取開始である。

なめくぢや木暗ぼたぼた雨落とす

木陰の直径が8mもある巨木である。

 

 

 

 

 

レンズが雨に濡れた。カラシナと思われる。

 

桑の大樹1本観察後、工事現場を見に行く。対岸・多摩市の河岸はコンクリートで整備されつつある。そのために河川敷の草木を一掃する意図がわからぬが、まあ、護岸はやっているようだ。引き返すとき森が近く見えたのがいけなかった。

森へ誘われて入ったら藪にからめとられた。進むしかない藪の深みにはまった。工事現場の金網に近づいたのが失敗。そこにたぶん、カラシナの大群落。背丈を越す草ににっちもさっちも行かぬ。カラシナの鞘の中の実は食えないか気になるがいまは脱出せねば。アマゾン川のジャングルを踏破している猛者はいるだろうが、多摩川の藪に捕まっている酔狂者は俺くらいか、と自嘲。

ああ、長靴の中も水びたし。けれど。雨がしろがねに光る草はみごと。

夏草のしろがねの照り夜明けたり

キャンプの早朝を想像していた。

 

 

藪を脱出して武蔵野線の高架下に来ると上から水が落ちている。鉄道の建造物は水を落とすので子どもがいれば、はしゃぐ。

踏青やでこぼこ道の水たまり

したたりに嬉々と撥ねるや水たまり

水たまり見れば入る子夏盛ん

結がいたら必ず泥水まみれになっていただろう。たしかに水たまりはおもしろい場所である。

 

 

 

五月なりビニール傘に付きし草

ぎしぎしの花緑なるめでたさよ

薔薇に青はないというが、緑の花もあまり見ない。ぎしぎしなどまさに雑草だが緑の花をつけるのは良い。ほめてやりたい。

是政駅のベンチに座ったら腹のあたりがくびれて、空腹。こんな雨の日に歩かないでおとなしくしていれば食費が嵩まないのに、とやや悔やむ。とにかく弁当を食べたい。ぼた餅を食いたい。

 

是政駅

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祭日は子どもをみる日

2025-05-04 06:04:02 | 身辺雑記

 

最近、祭日が多い。5月1日がメーデーは知っているが3日は何の日であったか。3日から6日まで数字が赤い祭日である。4日連続子守りかとたじろいだら妻が3日と6日でいいという。父母に余裕ができたらしい。ホッとしてきのう、結と優希をみた。

 

おれ庭師になろうかな

結と優希の個性の差ははっきりしている。先日プレイステーションのときと同様、結は眼前のことに興味を示す。きのうは妻の使っていた剪定鋏を手にした。切りたく切りたくて、うちの植木を切ったが妻の後でそう切るところがない。

ふと隣、М邸を見るとおおっ、ラッキー! М邸の塀に隣のО邸の蔓植物が覆いかぶさってきている。行楽に出かけたらしく騒いでもよさそう。格好の獲物。これを結に始末させよう。Мさんも喜ぶだろう。結は水を得た魚のごとし。ジョキジョキ切ること切ること。散乱した葉っぱを爺が這い蹲って拾う。アメリカ映画『シザーハンズ』を思い出した。主人公のハサミロボットの切りまくるシーンを。もし結が女の子だったら、浮気した夫のネクタイを妻が切り刻む映画を思い出していたかもしれない。切るというのは鬱屈を解き放つことである。

 

 

 

俺レーサーになろうかな

一方、優希は前回同様、かけっこが好き。自転車に興じた。こいつは根っから体育系である。自転車は優希のマカオの爺婆がわざわざ飛行機に乗せて持ってきたもの。はじめはこれ乗っていたが足が十全に届かないので別の楽しみを考えた。すなわち自転車を押して走るのである。ある道具の想定されていない使い方を考案する。すばらしい。「ひこばえ句会」の面々も子どもと遊んで思考を柔軟にせよ、と思う。М邸にクルマがない。その空間を優希も使って走り回る。

切るものがなくなった結は弟を追うように走る。兄が追いかけられて弟はさらに走る。弟にとって兄、兄にとって弟は得難い刺激である。2人が奇声を上げたがどこからも苦情が来ない。よい土地柄である。

公園へ行かずにうちの前の道路で遊べたことは幸いであった。10時から16時までの6時間保育であった。

 

 

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