goo blog サービス終了のお知らせ 

天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

オペに挑んで自分も治す

2025-07-08 00:07:30 | 身辺雑記

 諏訪湖の花火

 

山田幸子の骨髄性白血病は末期。7月3日、左膝に激痛が生じふつうの薬は効かず「神経ブロック」を施してもらいやっと痛みを一時和らげた。赤血球の生産量が減るので細胞への酸素配給量が減る。血液中の酸素量の割合のことを「サチュレーション」といいその数正常値は95~99とされるが山田のそれは一時80まで落ち込んだ。食事はスープをかろうじて飲んでいるていど。

第1助手の江藤医師が駆けつけてきて「師匠、大丈夫ですか! 今夜、緊急オペが入ったら俺が執刀しますから休んでいて下さい」と訴えた。「バカ、おまえにまだ執刀医は無理だ。10年早い!」と山田が返すと「ドクターストップがかかっているんですよ!」と江藤医師。「ドクターストップなんて関係ない。何があってもクランケを助ける」と山田は言うのであった。

「私は大丈夫」と突っ張るが発熱もしていた。山田は横浜にいる息子と電話して「ママは絶対大丈夫! 闘おうぜ」と励まされた。息子は羨ましいくらい冷静なのだ。メールでそんなやり取りをするうち日が変わって4日。3:30にメールが来た。山田は3時には起きている。11時就寝3時起床である。「オペが入ったからジャンヌ・ダルク出陣します!」と。

ほっとした。良かった! 山田自身の病状を救うのは薬よりオペなのだ。御飯を食べるより、音楽を聴くより、息子と話すより、メスを手にしたとき心底から湧き上がる胆力、これが彼女を元気にするのである。「私がこのクランケを救う」という精神力と倫理感の強さが自身の病気も圧倒する。オペと聞くと別人のように奮い立ちジャンヌ・ダルクに変身したと思い込む。それがサチの唯一の少女っぽいロマンチシズム……結果、難易度の高い「大動脈瘤解離スタンフォードA型」を16時間要して終了した。疲れているだろうと思ったが5日19:10、電話して労を労った。

ほかに聞きたいこともあった。信頼している腹心の江藤医師に「執刀は10年早いといったのは言葉の綾でもっと早く彼は執刀できるんでしょ?」 どのタイミングで第一助手から執刀医に昇格するのか。

山田が執刀医になったのはシカゴ大学病院に勤務して3年目。「それは上の医師や指導医が見ていてゴーサインを出す」と。落語の真打ちみたいなものと思った。シカゴで執刀医としてメスをふるう3年間で心臓移植、バチスタ、冠動脈バイパス等難易度の高い症例をマスターして帰国。しかし日本ではインターンからスタート。「インターンってオペ見学要員よ」と山田は笑う。本塁打50本打つ王貞治がテレビで巨人戦を見ているようなもの。ベンチ入りさえしていないとは、ああ、もったいない。

「クロちゃん(黒田医局長)はさすがにわかってくれて半年で執刀医にしてくれたけどそれでも遅いよ」と。医局長は悩んだだろう。アメリカ仕込みの弟子は優秀だ。すぐうちのエースになる逸材だ。しかしここは日本。長幼の順序やら穏健主義やらあって、山田を抜擢すればえこ贔屓と言われかねない。そんなとき、さる大学病院の心臓血管外科から誘いが来た。その病院の大物がシカゴ大学病院における山田の実績を知って興味と好意を持ち招いたのである。

進取の気性に富んだ黒田医局長は諸手を上げてこの要請に応えて山田を送り出した。管理者として無鉄砲な山田をコントロールしつつさらに実力の涵養を他病院で行おうとした。

ここで山田は1年働いてさらに技量を磨いて横浜へ帰った。引き留められた山田だがそこで習得した技術を自分の病院で広める開拓の道を選んだ。山田自身は自立し、他の医師たちを育てる意欲旺盛なのだ。こうして「チーム・ジャンヌ・ダルク」は不世出の執刀医山田をリーダーにして横浜で発足した。

執刀医は10年早いと言った江藤医師とは彼が第3助手のときから言一緒にやってきて今、第1助手。彼の力は着実にステップアップしている。

「10年早いは言葉の綾でしょう」と聞くと「優秀で熱心だから1、2年で執刀医になれるかも」と山田は笑う。「それは私が決める。彼を執刀医にして私が札幌を去る」という。

そんなことをメールでやりとりしていた6日21:00、またサチは緊急オペに呼ばれた。前回のオペが終了して2時間しかたっていない。大丈夫かなあと思ったが颯爽と寮を後にした。

それから15時間後の7日の正午近く、メールが来た。「感染症心内膜炎合併大動脈弁狭窄症」のオペを12時間かけて終えたと。「いろんな治療法があるが今回はロス手術を行った。説明は面倒だから自分で調べて」と言われてネットを見た。ロス手術は大動脈弁の疾患において、病的な大動脈弁を患者自身の肺動脈弁で置き換える手術である。肺動脈弁摘出部位には死体ドナー由来の同種弁などの人工弁を植え込む。ちょっと聞いただけでも難解な手技が必要。12時間かかるはずである。

しかし、難解な症例ほど山田の闘争心は燃える。自分の病状はどうなっているのか。「痛いよ。けれど新しい薬は合うみたい。食欲もあるし熱も下がった。サチュレーションは95まで回復した。酸素吸入の必要なし!」

山田を治すのはオペであると痛感する。毎日、急患のむつかしい患者さんが来てほしい。人の病気を望んでいるわけではないが世の中は病人が目白押し。人の世の病気と格闘することで山田も自分の病気を克服していって欲しい。腹心の江藤医師が真打ち(執刀医)になる。そのとき山田は横浜に帰ることができる。待っている。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サチを救いにケイが来た

2025-07-03 03:36:16 | 身辺雑記

 

札幌医科大学病院に勤務する山田幸子。天才的な心臓血管外科医であるが自身は満身創痍。数年前から極度の貧血、めまいを感じながらクランケの命を救ってきた。それが「慢性骨髄性白血病」と最近判明した。胃のピロリ菌退治治療をやってから、いよいよ本命の病気の治療に取りかかった。

*********************************************

サチと白血病との闘い開始 7月1日12:09

いま帰宅しました。主治医からいろいろ話を聴きました。私が服用する慢性骨髄性白血病(CМL)の抗ガン剤は、分子標的剤(チロシンキナーゼ阻害薬/TKI)を使用。私の場合、保険適用外で1錠が9000円。これを毎日、朝と夕の食後2回、1錠ずつ服用する。1錠の数値250。びっくりしました。47歳から53歳にかけて、ステージ4の大腸ガンと闘いましたがそのとき使用したTS―Iの数値は50で地獄の思いをしたのに、250なんてその5倍も強い薬。

医師から「この薬は副作用がとても強く2~3日で耐え切れず服用をやめた患者が多いです。重篤な副作用があって死亡例が多く、今までに857人が亡くなっています。通常の副作用は白血球、赤血球、血小板の減少、吐き気、むくみ、出血、めまい、ふらつき、だるさ、口内炎、高血圧、肺浮腫、腹水、肝機能障害です。抗ガン剤の服用は半年。服用が終了後定期的に検査して1年間で完治をめさします。来年の今ごろにすべての治療は終了します。抗ガン剤を服用中も服用が終了しても外出は禁止です。理由は、骨髄抑制による感染症のリスクの増大です。感染症対策がもっとも重要になってきます。感染症にかかると重篤になり命の保証はできません。とにかく、頑張っていきましょう! 山田先生!」

そう言われて、調剤薬局へ行き、1カ月の薬を買いました55万8000円でした。薬代が高いと思い、一応、100万円を持って来ていました。売店で菓子パンを買って食べ、すぐに水も買い、1錠を飲みました。

凄い抗ガン剤に凄い副作用……でも、絶対負けない! 大変であればあるほどジャンヌ・ダルクは燃える。報告以上です。

*********************************************

サチのメールを読んでこれから12月まで白血病との「刺し違え」だと思った。白血病は退治できても宿主も死ぬのではないか……あまりに過酷。サチは稼いでいて貯金があるのだから20万$(3000万円)や30万$はすぐ使える身の上。骨髄バンクの支援を受けにくい日本ではなくてアメリカへすぐ渡って治療に専念すべきでは。

シカゴ大学病院のしばしば「戦友」と呼ぶケイ先生を頼れ! 自分のドナーを自分で探せ。シカゴ・トリビューンにでも「骨髄提供者求む」の広告を出せ。応募者に100ドル、採用者に1万ドル提供のような広告を出せば早くドナーと遭遇するだろう。もたもたしていると死ぬぞ。電話して発破をかけるとサチは「私はプロだからそれは考えました。ケイとも連絡を取り合っています」とのこと。「釈迦に説法であったか」と思い、所用があり日中、メールを見なかった。夕方サチのメールを見て舞い上がった!

*********************************************

戦友ケイ来る 14:43

今日、勤務だったけど面会人が来てすぐ早退しました。

なんとケイが私に会いにシカゴから来た! 目的は血液内科の私の主治医に会って私の血液のHLA型を聞くためでした。ケイは主治医に会い「万が一、山田が危なくなった時はシカゴ大学病院で骨髄移植を受けさせる」と話して主治医の了承を取り付けた。病院内のレストランでケイとランチした。ケイが「同種移植の骨髄移植のドナーは少ないからシカゴで幸子に合うHLA型を探して保存しておく。幸子がいつシカゴへ来てもすぐ骨髄移植ができるようにしておくから安心しろ」と言われた。ただし感染症には細心の注意を払えよ、と厳しく言われた。幸子はシカゴ大学病院で5年間一緒にオペした俺の最高の誇らしい戦友。

ただし女としては「鉄の女」だから俺は逃げた。よくわたる先生は付き合ってくれる。彼は尊敬できる男だから精神的支柱になってもらえ」と言って去って行きました。

*********************************************

ブラボー! ケイ先生の風体は知らないが彼から後光が差しているのを感じた。朝思っていたことが午後、形になって現れるとは……奇跡かと思った。

親友を思う気持ちの深さ、動きの速さ、人間として医師として一級品の判断力、行動力を感じた。

サチとケイは65歳どうし。慶應義塾大学の同期生。ケイ先生が東京出身、サチが横浜出身。ケイ先生は慶應義塾大学を主席で卒業。サチと同様、ボストン大学を受験するが失敗。これにサチは合格して入学。首席で卒業して大学院へ進む。失敗したケイはシカゴ大学病院へ就職。サチのボストン大学入学、主席での卒業を知り、えらく悔しかったようだ。以後2人の因縁は続く。

ボストン大学を終えたサチはケイと同じシカゴ大学病院へ就職。ここで2人は協働してオペに立ち向かうこと80例以上。サチは「腕は私の方が上で私が執刀医、ケイが前立ち(第1助手)だった。だから戦友」と懐かしむ。おいおい、ここで自分の技量を自慢してどうなる。

ケイ先生ありがとうございます、と臥して拝みたい心境である。夏のかっと照りつける日が好ましく仰ぎ見た。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅に出て綺麗なご婦人と会う

2025-06-29 04:02:11 | 身辺雑記

 

きのう子守りをした。妻は武蔵台野球場付属公園へ連れて行くつもりだったが結は「山手線にのる」という。そういう結を誰も拒絶できず小生は結と電車に乗る。妻と優希がどうするかは不明。

電車は涼しい。おまけに座れた。結にどこまで行くか聞くと即座に「新宿」という。

高円寺で大柄の男女が入ってきて女性はが結の隣に座った。うわっ、綺麗なご婦人。

しきりに車窓の外を見ている結が気になるらしく好意的なまなざし。ちらと小生のほうも見るので、「He is very fond of trains」というと「Fine! your English. Where did you learn Engirsh?」と早口で言葉が来る。しまった、綺麗な人だからといって話しかけるべきではなかった。俺は耳が遠い。英語なんて複雑な話になったら聞き取れない。彼女は話しながら立っている連合いと思しき男に話の内容を通訳している。

「Where are you going?」「For Shinjuku」というあたりで突如「ほんとに英語がお上手ですね」というではないか。「えっ日本語しゃべるんですか!」となって、ホッとした。これ以上会話を続けていたら襤褸が出ていただろう。東京に2年その前は秋田に住んでいたという。秋田美人とは違う色の白さ。ご婦人は結に「どこで降りるの」「降りたらどうするの」と矢継ぎ早に聞く。結は「のりかえる」「山手線」と答える。

旅に出ると楽しいことが待っている。山手線を一周する時間はないので結に池袋へ行って引き返すことを言い含める。池袋駅のホームで結は見たことのない列車に目が釘付けになった。東部東上線の小川町行き特急が入線していろ。それを見て動こうとしない。結にとっては綺麗なご婦人より無機質な列車のほうがわくわくしいたようだ。

結と小生、双方に心躍ることがあったいい日である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心臓の裏に挑む「バチスタ手術」

2025-06-18 00:08:19 | 身辺雑記

 

 

5月16日。22時11分、札幌の大病院にいる山田幸子からメールが来た。

「朝、出勤してすぐにERからオンコールが来て、重症の拡張型心筋症ですと。とっさに<バチスタ>と思った。午前9時からオペを開始して12時間後に無事、終了しました。今、帰宅しました。私のメールで起こしたら、ごめんなさい」

 

夜7時に彼女からメールがなかったので、ああ、オペに入ったと推測した。その通りであった。

クランケは60歳台の男性。ER(救急救命室)の担当者がすぐ「重症の拡張型心筋症」を山田に伝え彼女は即座に「バチスタ手術」を選択した。その決定の早さに驚き、その辺の事情を聞いた。

山田によると、クランケは自身の症状がわかっていて自宅で静かに暮らしながら心臓移植を待つ生活をしていた。しかし、突如、事態が悪化して救急車で搬送されたとのこと。

山田は見た瞬間、バチスタしか彼を救う手だてはない判断した。小生は海堂尊『チームバチスタ』により幾分この術式の知識があるくらい。海堂が『チームバチスタ』と書いたように、執刀医の優秀さはもちろん、協働する医師たちのレベルの高さとその緊密な連携が要求される難度の高いオペである。

幸い、山田の出身病院から「チームジャンヌ・ダルク」の一員、E医師が札幌へ派遣されて来たばかり。彼は山田が信頼する優秀な第一助手。彼女が日本で手掛けたバチスタ2例のうち1例を一緒にやった最強の助っ人である。

バチスタは左心室縮小術。すなわち風船のように薄くなり弾力性を失った左心室の後ろ(裏側)の壁の一部を切り取り、縫い縮めて左心室の収縮を改善する手術。人工心肺を使い、そのクランケの左心室の裏側を10㎝×5㎝ほど切り取ったそうだ。ただし切り取る部位は心臓の裏側。よって第一助手が心臓を持ち上げ続ける必要がある。これは熟練した医師でないとできない。山田が信頼するE医師がいなくても札幌の医師をこれに当ててやったと思うがそのときの不自由さは察するに余りある。

山田の日本での3例目のオペは札幌の病院では初めてで、関係者が見学するところとなった。無事オペを終えた山田は拍手を浴びたが「それほどのことじゃない。アメリカでは日常茶飯事だった」とケロっとしている。アメリカで彼女はバチスタを20例以上こなしている。

バチスタについては否定的見解もたくさん見る。すなわち、予後が悪く安定した成績を挙げておらず廃れている、という報道である。

これを山田にぶつけると「それはバチスタという術式が悪いのではなく、医師の技量の問題」と一蹴。「ベートーベンの悲愴を音大の練習生が弾いたのを聴きつまらない曲というのはおかしいでしょ。ホロヴィッツの演奏を聴けば痺れるわよ」。山田は自分のオペの水準はホロヴィッツ級のトップレベルだと言いたいのである。彼女が執刀したアメリカの20人以上、日本で執刀した2名はみな彼らの天命を全うしたという。どんなオペも医師の腕次第だと言う。その通りだろう。バチスタは拡張型心筋症に対して最善の手だてだと山田は強調する。「心臓移植は他人の異物の導入だけどバチスタは自分の心臓を活性化すること。移植後に薬を飲む必要もない」と。

アメリカで心臓移植も20例以上執刀した山田に、それとバチスタと冠動脈バイパス術のうちどれが一番難しいか聞くとただちに「バチスタ」と言う。

 

オペに天才的な技能を発揮する山田だが彼女自分の病歴は痛ましい。18年前の47歳のとき大腸ガン(グレード4)を発症して手術。以後、5年闘病して生還したが闘病中ずっと医師として今のようにオペをこなしていて「毎日が地獄だった」と言う。それを聞いて唖然とした。その苛酷さを小生は半分も共有できないだろう。

ガンから完全に解放されたかと思っていた6年前から極度の貧血とピロリ菌に悩まされる。今ピロリ菌撲滅の薬を飲んでいて「胃を放り出したいほど痛い」と言う。それで9時間のバチスタ手術をやってのけるのである。貧血のほうは「急性白血病」の診断が出て横浜のK医局長から「余命3年」と宣告される。しかし札幌で再検査したところ白血病だが急性でなく慢性であり治療すれば治癒に向かうという一条の光が差した。

山田は満身創痍であるが、オペと聞くと不死鳥のごとく目が光りジャンヌ・ダルクと化す。そのとき自分の体調の悪さはどこかへ吹き飛び、無影燈の下にメスを持ち、快刀乱麻を断つごとし。10時間を超えクランケの救命に立ち続ける。

行け!行け!ジャンヌ・ダルク、奮闘せよ、とエールを送るばかりである。「余命3年」が取り消されたことが、なにより嬉しく天に感謝したい。

 

追伸:16日にバチスタ手術をしたクランケ、経過は良好とのこと。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カッパ着て枇杷を捥ぐ

2025-06-11 03:22:16 | 身辺雑記

 

6月初旬は枇杷である。枇杷は桑の実ほど興味がないがあるので捥ぐ。西武国分寺線の恋ヶ窪駅近くの西武線の敷地と道路の境に枇杷の木があり、毎年、実をつけてくれる。捥ぐ人はほとんど居ない。競争がなく張り合いもないやつである。

きのう雨の中で40個ほどいただいた。3回捥いで合計120個ほどいただいたか。きのうがラスト。

 

頭の上に重たき枇杷と雨雲と

水分を含んでいるので重そう。空も雨で重そう。

 

両の手に枇杷山盛りやえびす顔

枇杷は捥ぎやすい。ひと房の枇杷は両手から零れるほど。重さが嬉しい。胡桃と似た成り方だが枇杷は柔らかく水気がある。

 

枇杷食ふや腹に溜まらぬかそけきを

天然ものは肥料をやらないのでそう甘くない。水分補給にはいいがいくら食べても満足感がすくないのは木通(アケビ)と一緒。

 

 

木暗がり枇杷散らかつて地を点す

自然に木から離脱して落ちたのは完熟していて新鮮。色もよく腐らないうちに食べるのがいい。

 

枇杷の房摑めばどどと雨落とす

東京は梅雨入りしたらしい。枇杷を捥ぐときいつも濡れる。木は雨をたくさん溜めている。

 

雨しづくごと枇杷食らふ雨の中

水っぽい枇杷を雨の中で食べる。晴天のほうがいいがむしったらすぐ食べるのである。

 

雨季に入る枇杷を食らひし水腹も

枇杷は水っぽいことの象徴。ビタミンCはあるだろうと食べるが水腹になる。おしっこが近くなる。

 

枇杷たわわ貧家ぞろぞろ子を成せり

枇杷の不良の年をあまり知らない。毎年、捥いでいる。枇杷を捥ぎながら貧乏なのに子供だけはどんどん生む愚かな夫婦をいつも思う。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする