goo blog サービス終了のお知らせ 

天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

鰻重や松竹梅の松映えて

2025-07-20 03:58:19 | 身辺雑記




きのうは「土用丑の日」。何十年ぶりかでこの日に鰻を食べた。おととい友人から「明日は鰻の日よ」とメールが来てその日を知った。この日に鰻を食う習いがあるのは知っていたがそれに追従したことはほぼなかった。
だいたい鰻は高い。いつもОKストアのカツ重弁当か親子丼弁当を食べる年金生活者が手の出せるアイテムではない。妻が生協からたまに鰻を取り寄せるが微々たる量。対岸の祭と思っていたが世の中は選挙戦という祭モードであり、たまには鰻の豪華さで女房を喜ばせようかという気になった。
調べると西国分寺駅の近くに「ひらやま」という鰻専門店がある。行ってみたがわからず電話で聞いてやっとわかった。電話してテイクアウトを頼む。「松竹梅のどれにしますか」と問われ、一瞬松と梅とどっちが上だったかわからず松と言ってからああ、あれは最上だった、竹に変更しようと思った面倒。潔くお金を使うことにした。3時半に鰻重を取りに行くと匂いですぐに分かった。

  鰻焼くにほひ満ちたり横町に

妻が吸い物、お惣菜を作って、久しぶりに和気藹々の時間。妻に何年ぶりかでお礼を言われた。
今年の夏の土用は7月19日〜8月6日までの19日間。「丑の日」は7月19日、そして7月31日と丑の日は2回。7月31日はまたカツ重弁当か親子丼弁当になるだろうな。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

負ける横綱とつまらない句集

2025-07-17 03:18:19 | 身辺雑記

〇阿炎(押し出し)豊昇龍●


きのうは困った日であった。
横綱・豊昇龍が3敗目を喫した。そして知らない人からわからない内容の句集が来た。
まず豊昇龍について。立ち合いからハラハラして見ていた。相手は阿炎、立ち合い、変化もあれば一気にのど輪・突き押しで走ることもある曲者。きのうは一気に突いて出てあっという間に横綱を押し出した。これに何故か物言いがついた。負けたはずの横綱に行事が軍配を上げていたからである。行司は阿炎の勇み足を見たがそれより先に横綱の左足が土俵の外の砂についていた。差し違いで横綱が負けた。1勝3敗、また休場の話題が出てきている。
はっきり言って豊昇龍は横綱の器ではなかった。12勝での連続優勝で横綱に上げたのが失敗、もうひと場所見るべきであった。13勝以上での連続優勝という内規にしないとまぐれで横綱になる可能性が出来してしまう。横綱に推挙してくれれば嬉しいから「不撓不屈の精神で全うします」みたいなことをみんな言って横綱になる。けれど負けると後がなくなる。大関はいまや5敗しても10勝すれば褒められるようなやわな時代だが、横綱だと休むしかない。連続して休めば永久に休むこと、引退しか道がなくなる。
豊昇龍に不運の小兵力士・栃ノ海を見ている。栃ノ海は身長177センチ、体重108キロ、小兵の代表で横綱を張った。14勝13勝の連続優勝で1964年3月場所、横綱に就いた。5月場所、13勝で優勝したが後不調で1966年11月場所、引退に追い込まれた。彼が苦労したのは体重の軽さであり横綱になったことで相撲寿命を縮めた。
横綱は後がないゆえそれに推挙するまわりの人間は細心の配慮をすべきである。それに叶わない力士がまぐれで就いてしまったら周囲はもちろんだが本人が苦しむ。豊昇龍は心・技・体の心に問題がある。不必要に相手を睨む虚栄心が気になる。相撲そのものに集中できないのか。心の持ち方を見つけないと持たない。これでは栃ノ海よりも早い引退となってしまい、可愛そうである。





細川洋子句集『海馬』である。はて「鷹」にこんな名前の人がいたか。序文がない。帯文に能村研三の名前があって、ああ「沖」の人かと思った。「沖」に一人、小生の住所を知っているAがいた。Aから聞いて小生に送ってきたのだと推察した。
主宰・能村研三は、
  埋火や津軽じよつぱりふつふつと
を取りあげて何か書いているが、よくわからない句である。津軽生まれの闘志みたいなことを言いたいのか。曖昧である。自選の中から3句引く。
  天の川ひとに海馬といふところ
  にんげんに喫水線や籐寝椅子
  牡丹の迷宮咲きと思ひけり

天の川という大きな宇宙に対して海馬という小さな宇宙を配している。ここにある種の情趣があるだろうが、「にんげんに喫水線」はわからない。この見立てが成功するためには喫水線がこうだとまで言わないと無理だろう。「迷宮咲き」なる造語は自分勝手過ぎてついていけない。
自費出版で句集を500部刷ったとする。「沖」では同人含め100冊もあれば足りる。よその有志に配ったとしても100冊あれば足りる。残りが自室を埋めている光景が目に浮かぶ。だからその1冊が小生のところへやって来た。西瓜なら喜んでいただくのだが句集はね……そうとう面白くないと読む気にならない。ああ、西瓜を食べてしまった、今日買わなくちゃ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

草と土で遊ぶ兄弟

2025-07-13 04:04:19 | 身辺雑記



きのうは子守りをした。小生が結を、妻が優希をそれぞれ自転車に乗せて2キロ北のプレイステーションへ行く。屋内、屋外に子どもの喜ぶものがあって時間を費やすことができる。西武線の電車の行き来が建物の二階からよく見える。
西武国分寺線の電車はずっと黄色一色であったが最近、違う色味のものが走るようになった。結はすぐそれに気づいて喜ぶ。



バケツはどれも凸凹。綺麗なものはひとつもない。親近感のある光景。


子どもは遊ぶことにかけては天才。自分にとって面白いことを見つけ出す能力に舌を巻く。優希は三輪車が好き。それには箱車が縄で括りつけられている。それを小山の上へ押し上げては下る。これをやり始めたら繰り返すこと、繰り返すこと。押し上げる労力はたいへんだと思うが飽きない。





フランスの文豪カミュの『シーシュポスの神話』を思い出す。
シーシュポスは神々の神であるゼウスから罰を受ける。それは山に大きな岩を押し上げること。ゴツゴツとした斜面を岩を背負って運びやっと頂上に辿り着くと、岩はそれ自体の重さで山の下まで転げ落ちてしまう。シューシポスは再び、それを押し上げ運ばなければならない。神の呪いを受けて、無限に続くこの無益の努力を繰り返すのが、彼の受けた罰なのだ。永劫の罰である。この罰を永遠に果たすことがシューシポスの運命。
優希を見ていてカミュの考えた命題がよみがえった。馬鹿なことを繰り返して飽きない人間を思う。シーシュポスも優希もこの際、一緒。この普遍性が文学でありカミュの凄さである。




プレイステーションは草と土の色あいがいい。それは70年前の故郷の色合いであり2025年の首都ではあまり見ない光景である。
蟬声に黙々と穴掘る子かな
結は自分の世界に耽溺して飽きない。保護者はかなり手が抜けるから助かるところである。



草を足で擦るぶらんこ。草と土が絵になる場所。



作業台には万力があって物を固定できる。金槌、釘、鋸など木工道具がそろっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子はすぐにぐにやぐにやするよ氷水

2025-07-12 03:33:10 | 身辺雑記




きのう結を「ハビー立川教室」へ連れて行った。当教室のHPを開くと、「発達が気になるお子さまをサポート(発達支援・療育)する児童発達支援・放課後等デイサービスハビー」とある。
結は若干の発達障害を認定されてここへ一週間に一度通っている。通常木曜日午後の45分であったが今週は木曜日と金曜日。きのうはスペシャルコースであることがわかった。まず5人の子を3人の先生が見る。それも1時間半という長さ。結は来年の今ごろ小学校へ上がっているはず。小学校へ行く準備のためのトレーニングの意図が読み取れた。
保護者は教室の外の控室でモニターを見ながらヘッドホンで様子を聴く。モニターは見にくいが音声はよく聞こえる。
最初、5人が席について先生を見てグーチョキパーなどを出すプレーだが1人席に就かず放浪するのがいる。彼に先生が一人付くが席に就くこと強制はできすほぼお手あげ状態。
結はと見るとよそ見して先生から注意をたまわっている。

子はすぐにぐにやぐにやするよ氷水

というフレーズが浮かぶ。季語が氷水でいいかどうか知らない。
小学校という堅固な体制の中へ入ってゆくのは大変である。小生も社会的対応は優れておらず入学のとき体育館で一人だけ泣いた恥ずかしい記憶がある。入学したものの社会性欠如につき母が嘆いた事例はいっぱいある。いまでも社会性は問題だがまあ生きてきた。
結とハビー立川教室へは何度か来た。はじめ先生の指導をまねして家でやろうとした。が、それよくないとすぐ判断。ハビーや保育園でやらないことをやるのが爺のよさであろうと思い直した。
夏なら川へ入るのを囃してやる、桑の実があるところへ連れて行く、電車を見たいなら新宿へ付き合う。これでいい。人が生きる原動力となるのは快感体験なのだ。それを幼少のころから積み重ねた楽しさを自分のベースにして生きられる。料理において下ごしらえの重要さと一緒である。
結が社会から完全に脱落するのは困るが、社会の縁に引っかかっていればいい。楽しめる自分をつくることがいちばん大事。自分が自分を信じられれば、いじめ、悪評などと闘う力を持つことができる。
結の父は結を普通学級に入れようと固執せず特殊学級のほうがいいのではと考えている。それを小生も評価する。普通学級へ行かなきゃ劣る、情けないといった発想はしなくてよい。そもそも普通とはなんぞや。みんなから遅れるとはなんぞや。山頭火や放哉は社会からの落伍者ではなかったか。まわりに迷惑をかけて好き勝手に生きた。それでいい。
おもしろくないこと、興味のないことに長い時間縛りつけられるなんて拷問だぜ。世の中の縛りにはあるていど従わなきゃならないがどっぷり浸かることはない。
1時間半の修練を終えた結は脱兎のごとく立川の街を駆けた。点滅している青信号を走った。結の解放感を必死で追いかけて途中で信号が赤。「じじ、間に合ったね」とけろっとしている。「バカ、危ないぞ!」と怒る気にならず、笑い合った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今いちばん涼しい道

2025-07-09 04:32:26 | 身辺雑記

 

最高気温35℃が続く日々。朝の散歩は無機質な集合住宅(トミンハイム)が嫌になって都立武蔵国分寺公園となった。ここは国分寺市でいちばん涼しい場所だろう。黒鐘公園も自然林だがそこは日が差し込む箇所が多い。武蔵国分寺公園でも北側(円形緑地)は日光が強い。多喜窪街道の南、国分寺崖線(こくぶんじがいせん)のへりの樹木の中がもっとも涼しい。朝ならたぶん25~27℃くらいだろう。

 

森深く土を踏みゆく涼しさよ

黒土は見るだに涼しく足が吸い付く感じが心地よい。

 

 

           

                     

 

7時から歩きはじめて今日はサチの検診日だと気づく。激励の電話をすると案外元気な声、ホッとする。足を止めると汗が吹きだすので歩きながら話すが息が弾んで話しにくい。

そうだ、歯笛を聞かせよう。口笛も吹けるが下の前歯の裏に舌を当てて振動させて音が出せる。特技とまでいえる代物ではないが人を驚かせるアイテム。曲を吹けるまで音程を守れないがなんとかその曲の雰囲気は出せる。病人は意味のないことで喜ばせるにかぎる。歯笛を吹いていると頭上に鳥が鳴く。「鳥の声も聞こえた」とサチ。

芭蕉の緑の大きい葉を写メールで送る、透きとおるような緑の葉っぱ。サチは外出厳禁にて小生がいろいろ見せてやる。何でもいい。

 

水音のさやかな朝や百合の花

 

 

お鷹の道・真姿の池湧水群(おたかのみち・ますがたのいけゆうすいぐん)は国分寺崖線の下である。段丘の高さはおよそ公団住宅4階分。ほどよい上り下り登り下り。これを4回はする。

水の音、水の光。石に張り付く苔。座るための平たい石。野菜売り場。清涼感ある物がいっぱい。犬が水の中に入っていたりする。

 

階段の上が武蔵国分寺公園

 

段丘の下の道は樹木の覆いがないのでめったに歩かないがきのうは曇天にて歩いた。楼門があって石の上に猫が涼んでいる。楼門は2階造りの門で、下層に屋根を設けず上層に高欄の付いた縁をめぐらす。この建物も見るからに涼しい。

 

ここを通って広い野原に出るがそこは行かない。金堂と講堂の礎石のある国分寺跡はここから150m。

樹木の覆いがないので夏は行かない。猫のように涼しいところを好む。猫は石やコンクリートの感触を知っている。

 

 

 

国分寺薬師堂。ここはめったに行かないが、建物も絨毯のような苔も清涼感がある。一帯が涼しい。

このへんが国分寺市の観光名所。よく人が来る。

 

「竹煮草園」と呼びたい。茎が白く気持ち悪いと思っていた竹煮草のイメージを刷新してくれるたたずまい。

竹煮草の花がかくも明るくはしゃいでいるように感じる。ここを歩く人はめったにいない。

 

左:紫陽花、右:竹煮草。意外な二物の取合せ。俳句の作り方がこんな場面にもある。

草木の中を歩くのは快適。

きのうは7:00から7:50まで歩いて5000歩、夕方には10000歩に達した。22階相当の上り下りもしている。真夏、こんなに歩かなくてもいい。午前中、シャツ4枚替えた。むかし、

汗のシャツ脱がせてくれる女なり

と若い妻を持ち上げたことがあったが今は汗の夫を遠くから見て、よくやるわね、という視線。洗濯をしてくれるからまあいいか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする