実は読んだことがなかったツルゲーネフの有名な短編。で、お恥ずかしいことに、なんとなく思い描いていた内容とまるで懸け離れたものだったことに、軽いショックを覚えました。こんな勘違いがあるんだなあ。
「ムムー」はたぶん日本では映画の方が有名なのでしょうけれど、そちらは未見。
原作の方は、邦訳がなかなか見つからず(というか探してなかったんだけども)、これまで読む機会に恵まれなかったのですが、たしか去年、古書店で「ムムー」の収録された本を100円で購入できたので、ようやく読むことができた次第です。
聾啞者の大男ゲラーシムの物語。地主屋敷で見張り番のようなものとして働いていたゲラーシムは、お仕えする女主人の気紛れに翻弄され、ついには愛犬のムムーを自らの手で溺死させるに至る。これは、『猟人日記』と同様に、農奴制を痛烈に批判ないし揶揄した小説であると考えられます。女主人の我儘によって、彼女に仕える者たちはいつも怯え、恐怖し、場合によっては不条理で不本意な人生を歩まされます。その代表格としてゲラーシムがここでは描かれており、懸想する相手には逃げられ、愛犬を殺さねばならなくなります。作家は女主人を表だって批判したりはしませんけれども、しかし彼女が雇い人たちに及ぼす負の影響を詳らかにしてみせることで、その圧政を浮き彫りにしています。
このような分析を押し進めてゆくと、当然それは1850年代当時の時代背景(農奴制)に突き当たることになります。ツルゲーネフが農奴解放に果たした役割をこの小説に認めることもあるいは可能かもしれませんし、少なくともその意向を認めることはできるように思います。いずれにしろ、「農奴解放とツルゲーネフ」というテーマの内部に「ムムー」を定置させることになるのでしょう。しかしながら、個人的には、そういうところよりもむしろ、ゲラーシムが聾啞者であることに関心を惹かれました。更に言えば、且つ極めて正直者であるところに。
口がきけず耳も聞こえないということの他に、ゲラーシムは少々頭も足りない男だ、みたいに描かれているのですが、それと同時に心根は真っ直ぐな正直者であるらしい。一方では、物凄い怪力の愚鈍な男。他方では純真な男。この二つの性質の共存は、文学作品では比較的しばしば見られるように思います。もっと言うならば、文学では白痴であることと無垢であることの共存がテーマになることがよくあるように思います。このテーマは、子どもと無垢という別のテーマに変奏されることもありうるでしょうし、子どもと残酷さという正反対のテーマに接木されることもありうるでしょう。ベストセラーになった『アルジャーノンに花束を』は、知能を持つことの苦悩と白痴であることの天真爛漫さ、それに対する周囲の反応を克明に描いた作品です。
愚かであることと無垢であることとは、このように両立するものとして提示されるのですが、しかし賢明であることと無垢であることとは、いっかな結合しません。これはなぜなのか。西洋では、聖書の伝統があるから、知恵の実を食べてしまった人間は病苦を背負わなければならないという観念が支配しているのかもしれません。
ロシアでは、ユロージヴイ(瘋癲行者)という伝統が中世にあり、苦役者が襤褸をまとって白痴のふりをするのですが、しかし彼らは実は時の政権を批判しているのです。ここでは、白痴と賢明とが結びついています。
ゲラーシムには、一見して賢明さはないように感じられますが、しかしひょっとするとユロージヴイの役回りをさせられているのかもしれないな、と思いました。愚かな真似をしてしまう彼ですが、しかしその行為は彼を恣にする権力を逆照射しており、彼の行動に胸を痛める読者がいるとすれば、その悲しみは怒りへと変わり、矛先は女主人に向かうことになるのです。「権力を風刺する機能」を有したユロージヴイとしてのゲラーシムは、まさにその一点において「賢明さの機能」を果たしているのであり、こうして彼は、賢明-白痴-無垢の奇跡的三位一体を体現するに至っているのです。
それにしても、ゲラーシムをユロージヴイに見立てることは、結局のところこの小説を農奴解放というテーマの枠内に置くことになるんだなあ。う~む。ぼくはもっと、別のことを感じながら読んだのに、いざ小説について考えようとすると、読書中の感想を裏切る結果になってしまう。これは何か、不誠実なことのように感じるのですが、どうなのでしょうか・・・
「ムムー」はたぶん日本では映画の方が有名なのでしょうけれど、そちらは未見。
原作の方は、邦訳がなかなか見つからず(というか探してなかったんだけども)、これまで読む機会に恵まれなかったのですが、たしか去年、古書店で「ムムー」の収録された本を100円で購入できたので、ようやく読むことができた次第です。
聾啞者の大男ゲラーシムの物語。地主屋敷で見張り番のようなものとして働いていたゲラーシムは、お仕えする女主人の気紛れに翻弄され、ついには愛犬のムムーを自らの手で溺死させるに至る。これは、『猟人日記』と同様に、農奴制を痛烈に批判ないし揶揄した小説であると考えられます。女主人の我儘によって、彼女に仕える者たちはいつも怯え、恐怖し、場合によっては不条理で不本意な人生を歩まされます。その代表格としてゲラーシムがここでは描かれており、懸想する相手には逃げられ、愛犬を殺さねばならなくなります。作家は女主人を表だって批判したりはしませんけれども、しかし彼女が雇い人たちに及ぼす負の影響を詳らかにしてみせることで、その圧政を浮き彫りにしています。
このような分析を押し進めてゆくと、当然それは1850年代当時の時代背景(農奴制)に突き当たることになります。ツルゲーネフが農奴解放に果たした役割をこの小説に認めることもあるいは可能かもしれませんし、少なくともその意向を認めることはできるように思います。いずれにしろ、「農奴解放とツルゲーネフ」というテーマの内部に「ムムー」を定置させることになるのでしょう。しかしながら、個人的には、そういうところよりもむしろ、ゲラーシムが聾啞者であることに関心を惹かれました。更に言えば、且つ極めて正直者であるところに。
口がきけず耳も聞こえないということの他に、ゲラーシムは少々頭も足りない男だ、みたいに描かれているのですが、それと同時に心根は真っ直ぐな正直者であるらしい。一方では、物凄い怪力の愚鈍な男。他方では純真な男。この二つの性質の共存は、文学作品では比較的しばしば見られるように思います。もっと言うならば、文学では白痴であることと無垢であることの共存がテーマになることがよくあるように思います。このテーマは、子どもと無垢という別のテーマに変奏されることもありうるでしょうし、子どもと残酷さという正反対のテーマに接木されることもありうるでしょう。ベストセラーになった『アルジャーノンに花束を』は、知能を持つことの苦悩と白痴であることの天真爛漫さ、それに対する周囲の反応を克明に描いた作品です。
愚かであることと無垢であることとは、このように両立するものとして提示されるのですが、しかし賢明であることと無垢であることとは、いっかな結合しません。これはなぜなのか。西洋では、聖書の伝統があるから、知恵の実を食べてしまった人間は病苦を背負わなければならないという観念が支配しているのかもしれません。
ロシアでは、ユロージヴイ(瘋癲行者)という伝統が中世にあり、苦役者が襤褸をまとって白痴のふりをするのですが、しかし彼らは実は時の政権を批判しているのです。ここでは、白痴と賢明とが結びついています。
ゲラーシムには、一見して賢明さはないように感じられますが、しかしひょっとするとユロージヴイの役回りをさせられているのかもしれないな、と思いました。愚かな真似をしてしまう彼ですが、しかしその行為は彼を恣にする権力を逆照射しており、彼の行動に胸を痛める読者がいるとすれば、その悲しみは怒りへと変わり、矛先は女主人に向かうことになるのです。「権力を風刺する機能」を有したユロージヴイとしてのゲラーシムは、まさにその一点において「賢明さの機能」を果たしているのであり、こうして彼は、賢明-白痴-無垢の奇跡的三位一体を体現するに至っているのです。
それにしても、ゲラーシムをユロージヴイに見立てることは、結局のところこの小説を農奴解放というテーマの枠内に置くことになるんだなあ。う~む。ぼくはもっと、別のことを感じながら読んだのに、いざ小説について考えようとすると、読書中の感想を裏切る結果になってしまう。これは何か、不誠実なことのように感じるのですが、どうなのでしょうか・・・