Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

無事でした

2011-03-12 02:45:05 | Weblog
さっき、ようやく帰宅できました。
ぼくの部屋はめちゃめちゃになってますが、パソコンとぼく自身は無事です。

兄が仙台にいるので心配です。

皆さまの無事をお祈りいたします。

『星追い』劇場予告編

2011-03-10 22:23:12 | アニメーション
ついに最新予告編が発表されました。前回の「特報」に比べて、ストーリーラインが見えてきた感じです。・・・かなりジブリっぽいテイストなので、大丈夫か、と少々不安な気持ちもあるし、いやだからこそとんでもない傑作になりうるのではないか、という期待もあるし、とにかくわくわくしてます。ちなみに雰囲気がラピュタとゲド戦記を足した感じっぽいんですけど、そこに新海流の切なさが入るのか。

予告編は、yahooで見られます。↓
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id338303/

映像の解像度がかなり粗いのですが、じきに高解像度の映像が用意されるそうです。

3月8日のamazarashiの衝撃と言い、今回の予告編と言い、最近のぼくは色々と体験してしまっているなあ。パソコンを通して。

絶対視聴

2011-03-09 00:25:15 | 音楽
無題


ぼくはPVから入りました。
「光、再考」
「夏を待っていました」
「クリスマス」
「アノミー」

とりわけ後半の3つのPVだかMVだかは傑作。「夏を待っていました」はメディア芸術祭で優秀賞、「クリスマス」はなんとこの度アヌシーで上映されることが決まりました。

ですが、amazarashiの歌はもっといいです。尾崎豊の再来と言う人もいるかもしれません。でも、誰それの再来だとか、歌詞が何それを引用しているとか、もはやどうでもいい。これは魂の、命の咆哮だ。命を削りながら歌う人の声を、ぼくは初めて聴いた。

この「無題」はamazarashiにしては優しい曲で、温かい歌詞です。より過激なのは、「ワンルーム叙事詩」をはじめとしてたくさんあります。そのいずれもが強烈に聴く者の心を揺さぶり、いやメッタ刺しにして、その上でむんずと掴んで離さない。ああしかし何と言えばいいのか。

ぼくは今日amazarashiの歌を5時間聴いていました。こんなバンドがあったのか。

どうか、amazarashiの歌を聴いてください。お願いします。いつもこのブログを読んで下さる方、その時間を、せめて今日と明日は、amazarashiを聴くことに使って下さい。お願いします。「クリスマス」や「アノミー」で映像の凄さから入ってもいいです。この「無題」から入ってもいいです。「ワンルーム叙事詩」からでも、「奇跡」からでもいいです。とにかく聴いてください。そして震えてください。あなたという存在に共鳴する歌声を知ってください。

あなたの魂に寄り添い、あなたの魂を貫き、あなたの魂を抱き締める歌。くそっ、うまく言えない。ぼくは爆発し木っ端微塵になって木で首をくくり夢をくくりそれでもこの歌を聴いていたい。

新海誠的、ロシア的。

2011-03-08 14:21:56 | アニメーション
Я люблю тебя [1080p]


『Я люблю тебя(I Love You)』という作品の存在はたしか聞いたことがありましたが、つい先ほど初めて観ました。

一言で言えば、新海誠。明らかな模倣です。しかしそれを隠そうとせず、『秒速』のパンフレットらしきものが部屋に置かれていることからも、いわゆる「リスペクト」した作品であると分かります。何げない日常の恋の物語という作品の在り方も、風景描写も、男女のモノローグの使い方も、どれを取っても新海誠。確かに違いはありますけれども(そこには重要な相違も含まれるものの)、しかし模倣しているのは確実でしょう。ロシアにおける新海誠、世界における新海誠。ファン必見の動画です。

現状追認

2011-03-07 23:50:33 | お仕事・勉強など
塾のチラシがしょっちゅう家のポストに入ります。そのうちのある塾は、チラシ上で(首都圏の)入試情勢を巡るその塾の見解を連載していて、ぼくは気が付けば読むようにしています。そしてその度に憤激しています。

先週のチラシには、こんなことが書かれていました。
                   ●
「進学は生徒諸君の未来をかなりの部分で規定します。MARCH(明治、青山、立教、中央、法政)以上の大学への進学がなければ、もはや有力大企業への就職が難しいということは、諸統計によっても示されています。そのMARCHでも、有力大企業就職率は10%内外であり、国公立大学の台頭と企業採用の少数精鋭化によって存在意義を脅かされています。/就職がすべてではありません。しかし仕事のやりがいと生活の安定を考えたほぼすべての新卒諸君が最終的には大企業への就職を希望し、そのほとんどはかなえられていないという現実があります。「君たちには無限の未来がある」などという内容空疎な大演説がいまだに横行し、生徒諸君をミスリードしていますが、現実は未来の可能性は意識的な努力なしにはどんどん狭まっているというべきです。」
                   ●

この塾が何を言いたいかというと、だからこそいい大学に入り、そのためにはいい高校・中学に入学すべきである、ということです。ただし「いい大学・高校・中学」の定義は近年変わりつつあり、とりわけ中学・高校では都立の台頭が著しい。私学凋落はもはや明らかであり、公立中高一貫校こそが今目指すべき学校である、ということです。更に言えば、従来の私学重視の入試対策から公立重視へとシフトした、この先見の明がある我が塾に入りなさい、ということです。

なぜ中学を受験するのか。いい高校に入るため。なぜいい高校を受験するのか。いい大学に入るため。なぜいい大学を受験するのか。いい会社に入るため。・・・という、これまで散々批判されてきたロジックが、ここで恥ずかしげもなく展開されていることにぼくはちょっとした驚きを覚えます。ちなみになぜいい会社に入るのか、という問いに対しては、「仕事のやりがいと生活の安定」という答えが与えられています。ぼくは、いや「ぼくら」は、こういう言説に対して常に反発を感じてきたし、この気概をこれからも持ち続けたいと思う。「ぼくら」が一番嫌いだったのはこういうロジックでしたが、まだ中学生だったぼくらは、それに為す術なく、ただ「勉強しない」という形でしかそれに抗議できませんでした。だから今、こうした言説、抑圧的言説に対していかにして抗議が可能か、ということを考えたい。

なるほど入試情勢の変化は確かなのでしょう。私立から公立へ、という流れが首都圏ではより大きなものになりつつあります。この塾は、その流れに乗じて飛躍しようと期すものがあるのかもしれません。けれども、それは先見の明といった美辞で語られるべき態度ではなく、現状追認に過ぎないのではないでしょうか。かつてのロジックはそのままに、ただ受験する対象が変化しただけです。この対象の変化、入試情勢の移ろいを追認し、それに乗っかり、加えて使い古されたロジックを駆使して受験熱を煽っているだけに見えます。

また、新聞などのメディアには、一部大企業にのみエントリーして全滅する学生に対して、なぜ中小企業を志さないのか、といった論調がときどき見られますが、その背景にはこういう塾の存在が実は大きい。もちろん塾だけではなく、大企業でなければ生きていけないかのような言説がまかり通っている社会に淵源があるのですが、報道では学生の視野の狭さということが問題になる。しかしこの視野狭窄の原因は一部の塾をはじめとした社会であって、学生に罪をなすりつけるのはどう考えてもおかしい。もっとも、大企業の方が社員が優遇されているのは確かなので、その点はもっと是正されてしかるべきであるとはいえ、しかし、少なくとも「仕事のやりがい」なるものは大企業の専売特許ではないでしょう。大手の塾が大企業至上主義を掲げ、そのための受験/受検を励行している現実をこそ、大手新聞などの良識があるとされるメディアはもっと報じてしかるべきでしょう。これからの日本では大企業でなければ生活していけない、といった巷に流布している言説が本当なのか、といった一見馬鹿げた問題を検証するためにも、その問題の所在、その問題系の規模を正しく認識する必要があるのにもかかわらず、なぜか「学生の視野」に問題は矮小化され、一方で大企業至上主義はますます増長しています。これはもはや就職活動期間の問題ですらないでしょう。

この大企業至上主義がどれほど今の日本に有効なのか、という議論を先送りにして、ただ古臭いその主義主張を追認している塾があるということ、このことにどうしても怒りを覚えてしまう。ここはただ現状を追認しているだけではないか。しかも、その現状を正しく認識しよう、もしも間違っているならば是正しよう、という気概は一切感じられません。ありのままの現実に適応することに汲々として、あるべき現実を見失っているように思えてなりません。それは塾の役目ではない、と言えばその通りかもしれませんが、しかしそういう塾の姿勢が負の構造の一部をなしているのであり、謂われもない学生へのバッシングを生むのです。せめてそのことには自覚的であってほしい。

・・・・・・・・・・・
上記の文章は、かつて中学生だった「ぼくら」による、まさにその「ぼくら」に宛てた、空想の手紙です。

癒し動画

2011-03-06 02:13:19 | アニメーション
やんやんマチコ 第一話「ボーボーやん?」


本当は元気になる動画をアップしようとしましたが、
なんとなく癒し動画にしました。
それにしても第三話はいつなんだろう・・・密かに待っているんだけども。

個人的にはウサビッチの方が好きなんですけど、これもいいやん。

デイヴィッド・ベズモーズギス

2011-03-04 23:10:33 | 文学
3月11日、「新海誠スペシャルナイト」があるそうです!
チケットは明日3月5日に池袋シネマサンシャイン限定で発売。ここ限定かよ。ネット販売はないらしいのですが、わざわざ池袋に行って、それで売り切れということもありうるし、しかも明日だし、どうしようかな・・・。う~む、是非スペシャルナイトには行きたいのですが、迷う。サイン会もあるそうだし、秒速の上映もあるし、うぅ。この時期は花粉症がひどくて映画を見ているどころではないことがよくあるので、それも判断を鈍らせる理由になっているのです。くそう。

さて、ベズモーズギス『ナターシャ』を読みました。ロシア系ユダヤ系カナダ人の連作短篇集。連作といえば秒速ですが、それはとりあえずおいといて、ベズモーズギスのこのデビュー作は、発売当初からぜひぜひ読んでみたかったのです。6年経ち、やっと読めました。7篇収められていますが、いずれも大変読みやすく、またおもしろい。チェーホフの再来、と呼ばれていて、なるほど短編の名手であるかもしれない。抑制の効いた淡々とした簡潔な描写はとりわけチェーホフを喚起するところがありますが、ただし、全体的な印象から言うと、チェーホフではない。

チェーホフと一概に言っても、チェホンテとしての、散文作家としての、戯曲作家としてのチェーホフは自ずから異なってくるでしょうし、果たして「チェーホフ的」と一般に言われるものが何なのか、というのは実はちょっと難しい問題かもしれません。チェーホフ的と言われる作家たち、例えばこのベズモーズギスとカーヴァーを比べてみると、似ているのは簡潔な表現で短編を書いていることくらいです。読後感はかなり違います。やはりチェーホフの再来と言われたヴァムピーロフはなるほどチェーホフらしいところがありましたが、恐らくそこには、ユーモアと人生を受け入れる諦念とがあったからのような気がします。

ベズモーズギスにそれがないのか、と言えば、会話の端々にそこはかとないユーモアは確かに滲んでいるし、人生のやるせなさが窺える短編もあります。ですが、そのユーモアは「ロシアらしくない」。アメリカの作家のようにもっと洗練されていて、同時に少し下卑ています。少年の悲哀をベズモーズギスは描いていますが、それはチェーホフ的な残酷さ、冷酷さ、胸に突き刺さるような惨憺たる苦悩とは遠いように思います。やはり洗練されているんですね。

これがデビュー作とは思えないほど切り詰められた言葉で表現しているのは見事ですね。催涙的な効果を狙うことなく、ただ簡潔で的を射た言葉を連ねてゆく。ああそうか、大仰でないところ、つつましく見えるところはチェーホフらしいかも。もっとも、チェーホフにそんなにこだわる必要はないのかもしれませんが。

ドラゴンテール

2011-03-02 23:03:51 | Weblog
このあいだ水上に行ったときに、わりと難易度の高いゲームをやっていたのでは、みたいなことを言われて、別にそういうわけでもないだろう、とは思っているのですが、しかしそれでも、あれは難しかったな、というゲームが1つあります。ゲームボーイの『ドラゴンテール』。

ぼくが小学生の頃に初めて買ったゲームソフトですね、これ、たしか。パッケージのドラゴンのイラストがわりとかっこよかったので、小学校3年生くらいだったぼくは、何の考えもなしにこれを親に買ってもたらったのでした(ちなみに兄はこのとき『ドラキュラ伝説』を選んだのではなかったかな)。

さて、今ネットで『ドラゴンテール』について検索してみたのですが、やはりかなり難しいソフトだったらしい。全部で51面まであり、10面ごとにボスが控えています。もちろん51面はラスボスのドラゴン。もっとも、このゲームで難しいのはボス攻略ではなく、それ以外のステージなのです。

くい(杭)を投げて敵を倒したり、ブロックを壊したりしながらゴールの扉を目指す、いわゆるパズルゲームの一種ですが、9面まではまあまあ簡単で、たいして考えなくてもクリアできます。けれども11面からはステージの構造も複雑になり、難易度がアップします。21面,31面,41面と、ボスを倒すたびに難易度は飛躍的に上昇し、40面台はちょっと無茶苦茶な難しさだったと記憶しています。

使える技は、基本的にはくいを投げることと、空中で一度だけジャンプできる(根性飛び)ことの二つくらいです。ブロックにくいを刺して、それに一回跳び乗ればひびが入り、二回目で壊れるという仕組み。中には金属製の壊れないブロックがあったり、初めからひびの入っているブロックがあったりします。ブロックに刺したくいを二回踏んづけなければ壊れない、というところがミソで、例えば距離の離れたブロックからブロックへとジャンプしたい場合、あらかじめくいを遠くのブロックに刺すことで、距離を縮めて、それからジャンプしてくいの上に乗っかります。こうしてそのくいからブロックに飛び移ればよいわけです。このように、攻略方法を考案しながら進めいくゲームです。

おもしろいのは、くいを投げる位置等によって、ブロックへの刺さり方が異なること。遠くから投げれば浅く刺さり、至近距離から投げれば深く突き刺さったりします(そうでない場合もある)。また、くいは放物線を描いて落ちてゆくので、どこから投げればブロックのどの辺りに刺さるかを正確に予測していなければなりません。ブロックの下の方に刺さるか、上の方に刺さるかは大違いであって、適当な位置にくいを刺さなければクリアできないことがあります。

ステージそのものの難易度は40面台では超がつくほど高いのですが、クリアするためには、壊してはいけないブロック、まず最初に壊さなければいけないブロックなどがあり、かなり思考力が試されます。このへんは本当に難しいので、ドアのアイテムを使って強制的にクリアすることが可能です。これを使えば、ゴールまで行かなくても、瞬時にクリアできるのです。逆に言えば、そういうアイテムがなければクリアが困難なステージが幾つもあるということです(このアイテムがなければクリア不可能という噂も一部であるほど)。

ぼくはこのゲームを買った当初、ドアのアイテムを使わずにはクリアできなくて、まあそれでもいいと思っていたのですが、たしか小学校の高学年になった頃でしょうか、一念発起して、このアイテムを使わずにクリアすることにして、そして成功しました。やり方を覚えれば、あとはただそれをこなすだけなのですが、とはいえ、40面台は難しいですよ。

ちなみにこのゲームには裏技があって、アイテム入手の際に、下からジャンプしてアイテムの隅を掠るようにすれば、普通は当然1個しか増えないアイテムが9個になります。この技を用いれば、難しいステージでも難なく(強制的に)クリアできてしまいます。初心者にお勧めの技です。

『ドラゴンテール』は難しいですが、個人的にはおもしかったし、ネットで調べる限りではわりと評判いいみたいですね。玄人向きって評もありますけど、ぼくは最初にプレイしたのがこのゲームだったので、大丈夫です、たぶん。

平野啓一郎『決壊』

2011-03-02 00:34:18 | 文学
正直なところ、いまだに書こうかどうか二の足を踏んでいます。『決壊』の感想を書くことができるのか、書いてもよいのか、という疑念が頭を悩ませます。・・・でもこんなふうにしながら、ぼちぼち、自分なりに感想を書いてゆきたいと思います。

まず言っておきますが、例えばドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の感想を記すときにそうされるように、ネタバレについては考慮しません。


何から書き始めればよいものか。

「死んでもいいけど、こんな時に飛び込まんでもなァ。」

この作品の輪郭は円をもって閉じられ、最後の一行によって読者は再び最初のこの台詞に帰ってきます。電車への投身自殺(自殺かどうかは暗にぼかされているとはいえ)によって幕が開き、それによって幕が閉じる、というこの構造はトルストイ『アンナ・カレーニナ』の緻密な結構を否応なく想起させますが、しかし『決壊』と血縁関係にあるのはやはりむしろドストエフスキーでしょう。沢野崇とイワン・カラマーゾフとは誰が読んでも恐らくは二重写しになって見える形象です。イワンの苦悩は崇の苦悩とどの程度一致するのか、という問いは専門家(あるいは双方に詳しいファン)の見解を待たなければなりませんが、誰の目にも明らかだとぼくの言っているのは、両者の立場、殺人事件への関与の仕方です。使嗾(しそう=唆すこと)する者としてのイワンが殺人者と自らを同一視するように、崇もまた犯人と自らを同一視し、またある意味で世間から同一視されます。このアイデンティティの錯視とも言うべき状況は、「私」という存在が様々な存在の束であり、ありていに言えば情報の束である、という崇や犯人である「悪魔」の言説とも重なってきます。アイデンティティの崩落。「私」の複数性。「私」という存在が一個の確固たる自我ではなく、様々な「自己」のテクスチャーである、という言説は現代では半ば自明のものとして一般に流布し、消費されている(あるいは消費されつくしている)と思われますが、その理屈をこのような形で先鋭化して小説にして見せたことは、驚きです。

このような形。「悪魔」は多くの他者の遺留品を現場に残し、殺害があたかも「複数」の人間によってなされた犯行であるかのように偽装します。彼が語るように、真犯人とは「殺意」であって、人間ではありません。もはや犯人/罪人は存在せず、ただ最後に行使する者がいればそれで犯行は完成します。「悪魔」はただそのような「選ばれた人間」に影響を与え(すなわち使嗾し)、殺人を蔓延させればよいのです。人間の悪意が、決定的な行使をする人間の手を借りて(手を借りているだけ!)、犯行が成就する。「悪魔」はただそれを唆しているだけであり、実は自爆した男もまた「悪魔」の手先となり実行犯となっているに過ぎず、首謀者は、「悪魔」は、まさに人間の悪意そのものなのでしょう。その意味で、この複数の悪意は『決壊』においてネットの悪意に代表されており、あるいはワイドショーの、コメンテーターの、「正義の担い手」たるべき警察の、世間の悪意もまた人間の悪意を代表するもの、具体的なリアクションは悪意の具現化とみなしてもよいでしょう。

一人の人間がもう一人の人間に殺意を抱き、実行に移す、という古典的な犯行はまさしく「古典的」であり、現代ではそうではなく、複数の人間の悪意がたまたま選ばれた(遺伝と環境によって!)人間の手によって、たまたま選ばれた無辜の人間を殺害するという、ある種通り魔的な、単純な二項関係ではない、関係性の網目の中での殺人へと変貌しています。「私」という人間が無数の「私」の束であるように、殺人者もまた無数の潜在的な殺人者の思念の束であるというわけです。

それにしても、希望の感じられない容赦のない物語です。円環構造を持つ作品の構成から言っても、崇の投身自殺は恐らく「死んでもいいけど、こんな時に飛び込まんでもなァ。」というリアクションしか引き出さない犠牲であり、こうした無意識の悪意こそが「悪魔」の唆しによって殺人へと飛躍することになるのです。悪意の連鎖は止まない、ということを円環構造は物語っているのであり、その意味でこの作品は書かれている内容そのもの以上に絶望的であって、読者をしてそれこそ自殺させようとするほど恐ろしく悄然とさせます。

沢野家は、何も起こらない状況においてもほとんど内破しかかっていましたが、事件によって完全に決壊します。このとき、我々は内破寸前の沢野家の本来そうあるべき行方に希望を持つべきなのでしょうか。ひょっとすると、何もなくても、この家族は決壊していたかもしれない。それとも、どうにか持ちこたえていたのでしょうか。悪意というものはシステム・エラーというよりはシステムにそもそも備わっている、それがなくてはシステムが存在しえないような部分と言えるかもしれませんが、もしもそうだとすれば、沢野家は遅かれ早かれ決壊していたと言えるでしょう。しかしそれでは、あまりに希望がなさすぎる!


はじめ、『決壊』は19世紀的な全体小説を志向しているのかな、と思いました。ところどころで展開される、多くの読者にとっては難解と思われるだろう会話の応酬(というよりは崇の意見の開陳が主ですが)は、ドストエフスキーの模倣とも思われました。しかしながら、これは作者の衒学趣味というよりは、すぐ後で述べるような「別のこと」を表現するための一手段に過ぎないのかもしれません。また難解と言っても、ある程度学問の修練を積んでいる者からすれば、むしろ非常に興味深い箇所であって(もちろん難解でないという意味ではありませんが)、これをドストエフスキーの模倣で片づけるのはもったいないでしょう。さて「別のこと」というのは、崇の複数性を鮮明にする、ということです。ドストエフスキーはポリフォニー小説の書き手と言われていますが、これは一個の作者の声を作中人物に語らせるのではなく、彼ら登場人物たちが、それぞれ独立しているように喋り、小説にポリフォニックな場を形成しているということです。いわば、複数的な他者性を確立していると言えます。それに対して、平野啓一郎は、複数的な自己性を確立させようとしているように見えます。「私」という自己は複数の「私」の束であり、崇は人によってその言葉を巧みに、そして恐らくは無意識に使い分けます。まるで複数の人格が内在しているかのように。このことを知らしめるには、下世話な愛の囁きから高踏的な理論まで、幅広い対話の場が用意されねばならなかったのであり、それは必然の手続きだったのです。


・・・大体のところ、ぼくは以上のような感想を漠然と抱いたのですが、まだ書いていないこと、というか書ききれないことがあります。とりわけ「希望」については言を費やしてみたいところですが、今のぼくには難しそうです。もうだいぶ長くなりましたし、ここらで今日はおしまいにします。