Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

スタジオジブリ物語

2011-03-22 23:03:39 | テレビ
きのうテレビでやっていたので見ました。
前半は、いわばジブリ前史で、後半はやはり宮崎駿が中心。

前半が興味深かったですね。まだほとんど無名の頃の宮崎駿のテレビ出演映像は初めて見ました。あと、パクさんというのはアンパンをパクパク食べていたからそう呼ばれるようになった、というのは初めて知りました。かなり前から理由が気になっていたのですが、これでやっと謎が解けました。しかし小学生のあだ名みたいだな。

50年くらいを一気に2時間に短縮したので、かなりすっ飛ばした感があって、もっと詳しく知りたいのに、と思わざるを得ませんでしたが、でもこれは仕方ないのかなあ。とりわけジブリ時代のすっ飛ばし方はすごかったですね。高畑・宮崎両監督以外の作品は内容に触れることさえしませんでしたし。後期は「千尋」で紹介終わってるし。「千尋」は「水と記憶」の映画である、みたいな紹介の仕方は、まあ叶精二さんが制作に関わっているから出てきたものなのでしょうが、これはぼくの持論と一致するのでちょっと公民権が得られたようでうれしいのであった。もっとも、それだけに収斂される映画ではないんですけどね。で、宮崎駿と水、というテーマがありうることを番組は示していましたが、これもぼくにとっては前々から興味深いテーマなので、ちょっとうれしいのであった。もっとも、このテーマは既にかなり論じられているのかな。

そうそう、『雪の女王』における目の描き方が、その後の日本のアニメにおけるそれに決定的な影響を及ぼした、という指摘は非常に興味深かったです。なるほど、そうなのか。誰か検証してください。もう検証済み?

ついでなのでナウシカについて。
ナウシカって、いま思えば原発の物語として解釈できるからすごいですよね(核兵器をめぐる物語だという指摘は最初からあったと思いますが、原発の物語に限定することもできる)。文明の利器を用いて自然を克服しようとする者、自然と共生しようとする者、という対立ないし融和は、原発というワードを中心に回っているような気さえします。その意味で、(特に漫画版で)クシャナが非常に魅力的に描かれているのは、やはりすごい。文明の利器/核を利用しようとする人間が、あまりに人間的であることを暴きだし、彼女を善悪の彼岸に置いている。

だからぼくは、「もののけ」でエボシが死ななかったことにやはり感心しています。鈴木敏夫は、エボシを殺したらどうですか、と提案したらしいですが、しかし宮崎駿は結局エボシを生かした。エボシというのはクシャナ的な、最も人間的な人間。彼女を殺してはいけなかった。ぼくらの過去を、今のぼくら自身を否定することになるから。ぼくらが悪だったと断罪することになるから。でも、誰にもそんな資格はない。人間が清濁併せ持つ存在だということを宮崎駿はナウシカやもののけで描いたのだから、もし最後にエボシを死なせていたら、ものすごく薄っぺらな映画になっていたと思います。

それにしても、鈴木敏夫はけっこう映画に口を出すみたいで、宮崎駿や高畑勲はそれに対して、「何をっ」とその指摘を乗り越えてゆくのですが、力のない監督は、唯々諾々と従ってしまっているような傾向があるようなないような。ないですか?

前半で近藤喜文さんがあんなにクロースアップされていたのに、肝心の彼の監督作品には触れずじまいだったのはかなり残念でした。それにしてもきのうの蒼井優は妙にかわいかったな、とそれが印象に残った。