Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ダンス・ダンス・ダンス

2009-05-11 00:26:37 | 文学
昨日も言いましたが、村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』を読み終えました。長編を読んだのはけっこう久しぶりの気がします。これから英語の本を読まないといけないので、その前に一つ日本語の小説で景気をつけとくか、というような心積りでした。ちがうかな?英語の本を読んでいると日本語の小説を読む暇がなくなってしまうので、今の内に読んどくか、という心算だったかもしれません。うん、こっちの方が正しそうだ。

そんなことはおいといて、この小説の感想。
しかし、はたと困る。何を書けばいいんだろう。あらすじを書く気にはなぜかなれません。ただ、『羊をめぐる冒険』の続編的位置付けであるということは言っておきます。したがって「いるかホテル」や「羊男」が出てきます。

春樹の小説というのは、ぼくにとっては内容がどうこうというよりは、その文体が興味深いです。とにかく読ませる。簡潔で、クールで、比喩が多くて、中毒性がある。昨日のぼくの記事(春樹の文体模倣を試みた)とは大違いです。ぼくの文章はなんだか飽きてきてしまうけれど、彼の文章はおもしろいんですよね。おもしろいんです。改行の効果っていうのもあるような気がします。ぼくもこれから適宜改行していこうかな。少なくても読みやすさは増しますからね。

『ダンス・ダンス・ダンス』はどことなくカフカ的(模倣した箇所がある)で、『ロリータ』的でもありますね。13歳の少女とのドライブは、どうしてもハンバート・ハンバートとロリータとの道行を想起させます。警官にあだ名をつけるところは『坊ちゃん』的でもありました。このように『ダンス・ダンス・ダンス』は他の文学作品を連想させそれらを結びつける小説でもありますが、このあいだここで紹介したロシアの批評家だったら、インターテクスチュアルと言うかもしれません。しかも、これらの作品との関係についてそう言うのではなく、宮崎アニメとの関連で。

この小説には、キキとメイという人物が登場しますが、これって『魔女の宅急便』と『となりのトトロ』の主要キャラの名前です。かのロシアの批評家は、複数の作品に共通する名前から想像を働かせて、それらの作品を結びつけていましたが、そういう誘惑にかられそうになります。さすがに『ダンス・ダンス・ダンス』と宮崎アニメとの間に共通しているのは名前だけのような気がしますが、これらの作品の発表年がかなり近いんですよね。小説は88年、トトロも88年、魔女宅は89年です(原作はもちろんそれ以前ですが)。もっとも、こういったことはかなり珍奇な想像ではありますが、読者のそれまでの教養(というか知識)から、頭の中で網の目のように複数の作品が繋がってしまうのは事実です。それらの間には客観的な証拠を持つ影響関係がないからそれらを重ね合わせて見るのは間違いだと言われても、でも実際問題として連想してしまうのですから、これは仕方ありません。
インターテクスチュアリティは、そういう読者の自由を認めてあげよう、ということに結局は落ち着くのだと思います。

本当に小説の中味には踏み込んでいませんね…。
これは、喪失感を描いた作品だ、と言えると思いますが、少女ユキが「僕」との触れ合いを通して少し変わってゆく作品だ、ともみなせそうです。その少女の変化こそが、喪失感に繋がるのですが。つまり、「変わる前の少女」というのは失われてしまったし、そして大人になれば、「少し大人になった少女」さえ失われてしまうのですから。次々と大事な何かを失ってゆく中で、しかし「僕」が一つのものを手に入れるまでを描いた小説、と言えばまとめになりそうかな。

新聞に驚く

2009-05-10 01:34:45 | Weblog
実は村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読み終えたんだけど、今日はそのレビューではなくて、朝日新聞の内容について書こうと思う。せっかくだから春樹的な調子で。できるかな。

5月9日(土)の朝刊を読んで、ぼくは唖然とした。でもその前に、夕刊を読んで唖然とした話から書こうと思う。
そこでは公立中学で塾の指導を受けられることの是非が問われていて、賛成派と反対派の両方から読者の意見を募っていた。反対派の意見に驚くべきものがあった。
彼の主張を一言でいえば、貧乏な家庭の人間は高度な教育を受ける資格がない、ということだ。彼の理屈はこうだ。塾で行われているより高度な授業を受けるには、金を払う必要がある。だから、金を払えない貧しい家庭の子どもはそのような教育を受けるべきではない。不公平になるからだ。
なるほど。確かに筋が通っている。高度資本主義社会というやつだ。そこでは金が全てだ。4000円しかないのなら2万円もするフランス料理のフルコースは食べられないし、100円しかないのなら少年ジャンプは買えない。文無しだったら塾には通えない。
高度資本主義社会だ。
だからたぶん、この東京都に住む「40代男性」の意見は、高度資本主義社会の原則に忠実なんだと思う。これが変だと思うぼくの方が歪んでいるのかもしれない。誰だって生まれてくる時代は選べない。彼はこの社会に適用できているし、ぼくはできていない。それだけだ。

朝刊のことを話そうと思う。そこではダフ屋の是非が論じられていた。ぼくはこれまでダフ屋は迷惑な存在だと思っていたんだけれど、どうやら学者の世界ではそうとも決まっていないらしい。ある東大の先生の意見によれば、ダフ屋は悪くないのだそうだ。例えば金はないが暇のある人がいるとする。彼は2日間渋谷で行列を作ってチケットを買う。また暇はないが金のある人がいるとする。彼は行列の構成員にはなれないけれど、時間の取れる僅かなときにパソコンでダフ屋から高額のチケットを買う。つまり、暇のない人もチケットを入手できる制度をダフ屋はもたらしているということになる。でもそうすると金がなければチケットは買えなくなるじゃないか、という疑問にその教授はこう答える。金と余暇、それは各人の優先順位の問題なのだ、と。金のほうが優先順位の上の人は、寸暇を惜しんで金儲けをするから、金がある。だから高額のチケットを買える。一方時間のほうが大切な人は高額のチケットは買えないが、2日間並ぶ時間はある。
優先順位の問題だ。
何事も自分で選んでいるんだ、とその先生は言う。仕事が欲しくても雇ってもらえなくて、仕方なく暇を持て余している人がいるということを、この先生はたぶん知らないんだと思う。あるいは、ワーキングプアという言葉をその先生はクッキーの一種かなんぞのように考えているんだろう。やれやれ。
この先生は別のことも言う。お金のない人がチケットを買えなくなるからダフ行為を規制するというのは間違いだ。そういう問題は、最低所得保障の枠内で見直すべきなのだ、と。すばらしい意見だ。1億や2億もくれるのだったら、確かに一枚5000円のチケットが10万円もしたって気にならないだろう。20万円だって構わない。本当にすばらしい考え方だ。この先生の頭の中を見てみたいくらいだ。

ところで金と暇の関係は、もう現代では通用しない。それは、本当に2日間も店の前に並んでやっとチケットを手に入れていた時代の話だ。今は違う。発売時刻の10分前にパソコンの電源を入れて、必要なときにマウスをクリックすればチケットは手に入る。相対的に言って時間はかからない。金だけがかかる。だから、この先生の理屈は通らない。実際、ジブリ美術館の例が出ていたけれど、あれも暇と金の関係を覆している。ジブリ美術館のチケットはローソンで買えるから、一つのお店にずっと並んでいなくたっていい。新宿でも日吉でも買える。発券日の朝にローソンに行く。機械を操作する。それで終わりだ。どうしても時間が取れない人は、家族や友人に頼めばいい。まさか2日間も渋谷で野宿してくれとは言えないだろうけれど、10分間ローソンにいてくれ、と言うのにそんなに強い信頼関係は必要ない。だから、それが1万円で転売されてしまうと、単純に金のない人だけが不利益を被ることになる。買いたいときには買い占められ、お金も出せないからだ。小学生にだって分かる話だ。

ダフ屋に反対の先生の話も載っていた。一橋の先生は、それは興行主にとって気に食わない行為だ、と言っていた。慶應の先生は、ダフ屋の利ざやが大きくなり過ぎると社会の反感を買う、と言っていた。どうもずれている。彼らがずれているのかぼくがずれているのか分からないけれど、まるで首を斜めにして見る世界みたいだ。少なくてもそれはぼくの普通の感覚じゃない。

チケットを買いたい人がいる。でもダフ屋が全部買い占めて買えない。あとで数倍もの値段でそれが売られている。これが正常と言えるだろうか。それともこれが高度資本主義社会なんだろうか。やれやれ。世の中はちょっとばかり複雑になったようだ。

トップランナー 光のアニメ

2009-05-09 02:19:39 | アニメーション
5月9日の0時10分、すなわち5月8日の深夜に放送されたNHKの「トップランナー」に出演したのはトーチカ(TOCHKA)。テレビ欄に、世界も注目、新感覚の光のアニメ、とかなんとか書かれていたので、誰かな、あの人のことかな、と想像を巡らせて観たのですが、彼らのことか。あの「PiKA PiKA」(ピカピカ)の作者(男女二人組みの作家)です。

懐中電灯の残像を利用してアニメーションにするという、一風変わった方法で作成していて、メディア芸術祭で優秀賞をもらったし、またオタワなど海外でも評価されているし、日本のテレビでも少し取り上げられたこともあるので、一般的な認知度はそれなりに高いと思われます。しかも、ぼくは知らなかったのですが、動画投稿サイトで彼らの作品を模した独自の「ピカピカ」が制作されて投稿されているようです。これには彼らのアニメーションの奇抜さと簡易さが大いに貢献していて、本当に懐中電灯とデジカメさえあれば誰でも作れる作品みたいです。ぼくは実を言えばトーチカのファンではないのですが、素人の作った応用編的な作品を観てみると、なかなかおもしろいなと思わされます。もちろんこれは逆転的な考え方ですが、オリジナルの作品よりもコピーの作品のほうを気に入ってしまうというのは、何もこれに限ったことではないし、ぼくが初めてでもないでしょう。

今日の放送でも触れられていましたが、たぶんこのピカピカという作品の意義の一つは、誰でも容易に作れるという、芸術の大衆化という点にあるでしょう。それは芸術作品が複製されて展示的価値が高まり、誰でもそれを見られる自由化が進んだ、という意味での大衆化ではなくて、制作する側の大衆化です。パソコンが流通して誰でも自分の作品を発表できることになったこととパラレルな関係にあるでしょう。ぼくはこれまでピカピカのそういう側面を見逃していましたが、今日の放送を見て、そのことに気付かされました。

でも本当は、放送を見るまではセル風のアニメーションが紹介されるのかと期待していたんですけどね。

追記(2009年5月10日)
芸術作品が複製されて誰でもそれを見られるようになる、という事態をベンヤミン的だと書きましたが(ちなみに最初は間違えてベルクソンと書いてしまった!)、彼は「読者は、つねに執筆者になりうるのである」と書いていて、むしろピカピカ的な事態を予告していたようです。訂正しておきます。

異化の話とアニメの話

2009-05-07 00:44:54 | 文学
今日は昼間からかなり具合が悪くて、夜は個人的なことでかりかりしていたので、もう寝てしまおうかと思っていました。ただ、色々なサイトを見るうちに先程から少し気持ちも落ち着いてきたし、ブログを書くと集中力が高まって精神衛生上よいので、少しだけ文章を書いておこうと思います。

まず、タイトルの「異化」ということですが、これはロシア・フォルマリストであるシクロフスキーの用語で、後に文芸用語として一般化しました。どういうことかというと、見慣れた物事を違ったふうに表現することです。メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』を例に取ると、「まもなく、穏やかな光がそっと天にさしわたり、自分に喜びの感覚をあたえてくれた。跳び起きて、見ると光り輝くかたちが木々のあいだを昇ってくる」という文章が異化です。何を異化しているかといえば、「月」です。まだ物を知らない怪物が新鮮な目で月を見たので、こういう表現になっているんですね。異化というのは、こういうふうにその名前を用いずにありのままの様子を述べるときに使われたりします。または、宇宙人が人間を初めて見た、というシーンがあれば、それは自然と異化になるでしょう。シクロフスキーによれば、文学の一番大切な要素というのは、この異化なんですね。日常的な言葉を壊し、それまで見たこともないような言葉のつながりを打ち出してゆくことが重要だとみなされたわけです。

さて、がらりと話題は変わり、先日の朝日新聞の記事のこと。日本のアニメの製造数が減少し、ソフトの売上も落ちている、とのこと。ただね、今までが過剰だったんです。10年以上前に、製造数が100本を越え、その時点で既に飽和状態だと言われていたのに、一昨年かなんかに300本を突破したそうです。去年は288本だったっけな?減ったと言っても、異常に多いですよ。で、記事の結論というのが、これからは量より質だ、ということです。そんなの当たり前じゃないか!今まで粗製濫造が指摘されてきていて、似たようなのばっかしとか、技術的に安易であったりとか、散々言われてきたじゃないですか。やっと減少に転じて、これで普通に戻ってゆくのです。ソフトの数が減るから人員を減らすような動きが出てくるかもしれない、という関係者の話を伝えていましたが、今こそアニメーターの労働環境を改善すべきできですよ。生活を保障してあげないと。もうやっていけないという話を本当によく聞きますからね。腕のあるアニメーターがじっくり時間をかけて作った作品を観たいものです。

インターテクスチュアリティのレベル

2009-05-06 02:06:29 | 文学
ロシア語の論文をようやく読み終えました。たったの10ページしかないのに、5日くらいかかりました。おいおい、こんなんじゃ埒があかないぞ。

ロシア・アヴァンギャルドの作家でヴヴェジェンスキーというのがいまして、彼の「イワーノフ家のクリスマス」(と訳されていますが、「イワノーフ」だと論文では指摘されています)におけるインターテクスチュアリティ、すなわち他の作品との相互関係みたいなものを論じた論文です。具体的には、チェーホフとの関わりを主に扱っています。

この論文は出だしがかなり変わっていて、ちょっとしたおふざけではないかとすら思ってしまうほどです。チェーホフ「ワーニャ伯父さん」に登場するソーニャは、幕が降りた後に片思いの相手であるアーストロフと結婚したと言うんですね。しかも、結婚してソーニャ・アーストロワになった彼女は、ヴヴェジェンスキー「クリスマス」に「亡命」して、ソーニャ・アストローワになってしまったと話を進めるんですね。「クリスマス」に登場する子どもたちの苗字は皆最後が「―オフ(オワ)」で終わるので(カッコ内は女性形)、ソーニャもアストローワ(アストロオワ)ですから語尾(?)が一緒のところに目をつけたんですね。さらにおもしろいことに、ソーニャの結婚相手アーストロフは自然を愛する堅物で、退屈な人間だから、ソーニャもやっぱり退屈してしまう、それで、彼女はその不満とストレスから色情狂になってしまうと言うわけです。だからこそ、彼女は「クリスマス」の中でその素行の悪さを理由に殺されてしまうのです。

ここまで読んで、この論文、大丈夫かなあと不安になりました。こんな勝手な想像というか連想だけで筆を進めてしまって、この先どうなるんだろう?ただ、この先は少しずつ真面目になってゆくようでした。やっぱり「クリスマス」の登場人物とチェーホフ劇の登場人物とを重ね合わせながら論述してゆくのですが、それなりに根拠のある想像で、両者の関係性というものが見えてきます。ここで重要なのは、インターテクスチュアリティの詩学というものが別に他の作品からの影響ということを問題にしていないということ。実際にヴヴェジェンスキーがチェーホフからインスピレーションを受けて、それでその登場人物を拝借したとか、そういうことは追究しないのです。読者の想像力によって両者の関係性が見えてくるという、その方が大事だからです。影響を巡る客観的な根拠はありません。

それから話題は不条理性になり、「クリスマス」における不条理っていうのは、チェーホフ劇の中に潜在していた不条理を炙り出したものだ、という結論になります。

チェーホフ以外にも、例えばイプセンとかを例に出すのですが、著者の最終的な意見として、様々な作品の関係の戯れは、時間の進み方の双方向性というものを表現している、ということになります。つまり過去から未来へと進むのみならず、未来から過去へも時間は進んでいると言うんですね。これっていうのはインターテクスチュアリティには付き物の概念で、まあブルームとかがそう主張しているのですが。ただ、ここで出すのはちょっと唐突のような気がしました。要は他の作品との連続性の内にある、ということを言いたいだけなんですから。さて、最後にこの論文の末尾の文句を引用しておきましょう。「これで終わりにしよう」

英・伊・豪アニメーション傑作選

2009-05-04 01:20:07 | アニメーション
イメージフォーラム・フェスティバル2009のプログラム、「妄想の饗宴:英・伊・豪アニメーション傑作選」を観てきました。
映画の感想の前に、まず会場の感想を。
新宿のパークタワーというところで開催されたのですが、ここがすごいんです。巨大なビルディングで、壮麗。一体どういう建物なのか知りませんが、こんな立派なビルがあったとは知りませんでした。何十階もあって、それぞれの階に行くための専用のエレベータがあるんです。宮殿みたい。あるいは一つの街がすっぽり中に入っているというか。しかし、肝心の鑑賞場所は映画館ではなく、大きなスクリーンのあるホールに簡易椅子を並べただけのものでした。新国立美術館のホールに似ていますね。座り心地は我慢しますが、階段状の造りではないので、前の人の頭が邪魔なんですよね。このプログラムにはそんなに人が来ないと思っていたのに、けっこう入場者がいたので少し狭苦しかったです。アート系アニメーションのファンってこんなにいたんだ…

さて、作品の感想。
ジェーン・チードル「クォーター」
壁に水をぶっかけて、その形状をアニメートしたらしいのですが(土居さんという研究者の方のブログで知りました)、その模様が怪物のように見えたり見えなかったりで、なんだかよく分からない作品でした。蝶や鳥のように見えたりもしましたが、鮮明な映像ではないのではっきりと確信をもてないんですよね。ところで上映中はアブラゼミみたいなけたたましい鳴き声が聞こえていて(途中で静まったりもしますが)、かなりうるさかったです。ボリューム上げすぎなんじゃないの、と思ったりもしましたが、どうやらあれが標準の設定のようです。アニメーションを観ていると、ときどき不快な音が聞こえてきたりしますが、今回のもそれに似ています。

エミリ・リチャードソン「コブラ・ミスト」
これってアニメーションなんですか?風景の早回しにしか見えませんでした。それともピクシレーションだったっけな?荒野や廃墟の様子をカメラをぐるぐる回しながら映した作品。ぼくには「?」でした。

バーナビー・バーフォード「きずもの」
陶磁器の人形アニメ。最初の2作品がいまいちで不安だったのですが、ようやくアニメらしいアニメが登場して一安心。青年が令嬢(?)に恋をする話。二人は恋をしますが、恋敵(ひょっとして夫?)から逃れる際に彼女は床に落下して、木端微塵に砕け散ります。ところが他の人形たちに修理されて、「きずもの」となって青年のもとに帰ってきます。それでハッピーエンド。う~む、「きずもの」となったことで、青年が以前の美しさを失ってしまった彼女に対する思いを変えてしまうとか、ストーリーにもう一山ほしかったです。「きずもの」でも愛する青年の愛は本物だ、それこそ美しいのだ、とか言う人はいるでしょうけど、ぜんっぜん伝わらないですね、そういうことは。もうひとひねりほしい作品です。

ステファン・アーウィン「ブラック・ドッグス・プログレス」
本プログラム中、一番気に入ったアニメーション。初めは画面の中央辺りに小さく絵が映されて、その隣にまたその延長となる絵が映され、それからまた…と次々に小さなノートみたいな紙に描かれた絵が映し出され、いつしか画面全体に断片からなる大きな一場面が形成されます。各々のノートの絵はもぞもぞと動いて一定のパターンを繰り返し、その隣の絵へと進行を譲ります。(こんな説明でこの作品を観ていない人は理解できるのか?)ノートはパラパラマンガみたいにぴらぴらと捲れて、アニメーションの原点を思い出させてくれます。画面にぼんやりと明るい楕円が投影され、その動きに目を合わせてゆくと、黒い犬(ブラック・ドッグ)の生活の様子が次第に分かってきます。こういう、画面全体で一つのアニメーションを成しているというのは、数年前にメディア芸術祭で大賞を取った「浮楼」と似ていますね。あれもカットやクローズアップは決してせず、一つの画面の中で展開される人生の周期を描いた作品ですが、本作も基本は同じです。最後はインクの染みが滲んだように黒ずんできて、ノートがぱらぱらとはためき、迫力がありました。

セバスチャン・バークナー「ブラーベルト」
一見すると単なる抽象アニメーションかな、と思いましたが、様々に変容する形が色々な具象を想起させ、なかなかに興味深い。ちょっとエロティシズムを見出してしまったのですが、あれは何の形だったんだ?

クリストフ・ステガー「ジェフリーと恐竜」
脳に障害のある男性が恐竜の絵と物語を書いている、というその様子をドキュメンタリーで。アニメーション作品ではないですが、ときどきジェフリーの描いた恐竜を動かします。え、これで終わり?って感じで、内容的にはおもしろいのですが、なんとなく物足りなかったです。

タル・ロスナー「ウィズアウト・ユー」
街の中にあるストライプを拡大して抽象的な図形を作ってしまったアニメーション。縦じま横じま斜めじま、縞ならなんでもござれです。つまらなくはないけれど、特別おもしろくもありませんでした。

BLU「MUTO」
2008年の話題作。今日初めて観ましたが、一言でいえば、「キモイ」。ブエノスアイレスの壁面を舞台にアニメーションを展開。街の猥雑さとアニメーションのグロテスクさがうまくマッチしているように思いました。手だらけの生物が歩き回ったり、人間の体から次々と人間が這い出てきたり、おおきく描かれた顔がゴキブリのような虫で覆われたり、そんなのが続きます。気持ち悪い作品ですが、それなりに笑えて、個人的には本プログラム中二番目に気に入りました。

デニス・トゥピコフ「チェンソー」
一番気になったのは、題名は「チェンソー」なのに、字幕は「チェーンソー」となっていたこと。なぜ?それはひとまず措くとして、この話はフランク・シナトラ夫妻のことを知っていないとよく分からない作品なんじゃないかと思いました。ぼくは今日観るのが二度目で、字幕付きでは最初だったのですが、ようやく内容が飲み込めました。初見のときは、中盤がさっぱり分からなかったので。フランク・シナトラの妻エヴァが闘牛士の男と恋に落ちる、という事実を知らないと、この映画の基本構造そのものが理解できないと思います。もちろん映画でもそのことには触れられていますが、字幕がないとさっぱりですからね。色々な象徴やほのめかしが随所に盛り込まれた作品で、味わい深いと言えますが、どうもぼくにはちょっと…ぼくの手ではこんなにも巨大な意味という海の水を掬い切れないです。ユーモラスな雰囲気で始まるこのアニメーションは悲劇となって終わりますが、笑いのセンスはありますね。ところで、いくらなんでも家がチェーンソーで切り刻まれていくのを無視するってすごい神経だよね。何しててもさ。

会場に、「久里先生が…」と友達らしき人と会話している女性がいましたが、彼を「先生」と呼ぶってことは、もしやラピュタのアニメーション学校の生徒?勉強熱心ですね。

ふるさと探訪

2009-05-03 00:50:02 | Weblog
昼間、暇だったので昔住んでいたところへ久々に行ってきました。
目的は、当時通っていた塾があるかどうか確かめること。
その塾はいわゆる地元の塾で、Wアカデミーなんかとは規模が違いますが(といっても、ぼくの通っていた当時はWアカデミーは今ほど大規模ではなく、有名高校の合格者数も地元ではこの塾とどっこいどっこいでした。まあ全国の総数では水をあけられていたと思いますが)、そこそこの進学実績をあげていました。ところがぼくらが卒業し、21世紀になると、教室の数が減り、進学実績も落ちてきました。どうやら「あまりできない子」を中心に教える塾に変貌していったようなのです。ここ数年はさっぱり音沙汰がなくなっていたので、あの塾は今もあの場所で続いているのだろうか、と前々から気になっていたのです。

というわけで、行ってきました。ありました。あったのです。しかもなかなか繁盛しているようでした。土曜日だというのに塾の前には小学生のものらしい自転車が何台も停めてあり、看板も新しくなっているように見えました。感慨深いです。感慨深いと言えば、この辺りはかつて毎週訪れていた地域であり、まさしく地元です。今日、その側を流れている川に沿ってランニングする20歳くらいの若い女性とぼくは擦れ違ったのですが、ああ、君なのか、と一瞬錯覚しました。あの夜、あの場所で、塾帰りに仲間と一緒にいたぼくが、学校の同じクラスのコがランニングしているのに出会ったときのことをまざまざと思い出しました。君はぼくの名前を呼んでとても驚いていたね。…今日擦れ違った人は、しかし君ではありえない。君はぼくと同じ年齢なのだから。もうそんなに若くはないよね。あれは遠い日の話で、時の深淵が「今日」から隔てている。

変わるものと変わらないもの。街には携帯ショップができ、人は皆歳を重ねてゆく。一方で緑の公園は残り、小さな本屋もそのままだ。ぼくはあれからどれほど変わってしまったのだろう。そして君もあれから変わってしまったのでしょうね。お互い、もう擦れ違っても気付かないだろうか。変わりたくなんかないって思うけど、時間は残酷にぼくらを横切り、ある者には罰を与え、ある者には褒美を取らせる。君は時に祝福されているでしょうか?時の歩みを遅くする鎖に、足を取られてはいないでしょうか?ずるずる引きずられるその鎖は、多くの人間を絡め取り、がんじがらめにしてしまう。ぼくは十年近くもその鎖に縛られていましたが、ようやく最近その縛めが緩くなったようです。それは実は寂しくて悲しいことでもあるのですが。

古いことを思い出し、少し泣きたくなりました。ああしかし、塾が残っていてよかった。

あずまんが大王1

2009-05-02 00:13:36 | 漫画
あずまきよひこ『あずまんが大王1』を初めて読みました。
実は、恥ずかしながら、この漫画については題名と絵柄しか知らなかったので、こういうのだったのか~とちょっと驚きました。つまり、4コマってことを知らなかったのです。そしてゆる~い女子高生の学園生活を描いたものなんですね。らきすた系か。

思ったよりずっとおもしろかったです。数年前にジャンプの講読をやめてからというもの、ぼくは漫画というものからとんと遠ざかっていたのですが(今や年に数回読む程度)、やっぱり漫画っていいですよね。

ところで、こういう漫画を読んでいると、ぼくは少し悲しくなってきます。どうして自分はこういう高校生活を送れなかったんだろう、と。こんなのは幻想だよ、フィクションだよ、って気はしますが、ぼくは高校が大嫌いだったので、楽しそうな日常が羨ましいです。せめて、学校帰りに友達とマックとか寄って、だべっていたかったなあ。中学のときは学校が終わったら即行で友達の家に行って、ゲームとかして遊んでたんですけどねえ…部活のない日は。ああ、あの頃の日々が懐かしく眩しい。

ちなみに、少年少女の楽しげな学園ものって、描いてる作者は実はそういう体験をしてこなかった人だと踏んでいるのですが、どうなんでしょう。自分にはそういう思い出がないから、憧れの学園生活を描くのです。未練がなければわざわざ作品化しないですからね。そこにこだわりがあるから、そういうのを描くんであって。傾向として、そういうことがあるんじゃないかと思っています。

『あずまんが大王』、おもしろかったです。ちゃちゃちゃっと読めるところもまたいいですね。

『ニモ』

2009-05-01 00:24:34 | アニメーション
このあいだウィンザー・マッケイの漫画『眠りの国のリトル・ニモ』の話をしたので、今日はそのアニメーションの話。(『ファインディング・ニモ』じゃあないですよ)

日本やアメリカの合作アニメーションで、1989年の作品。日本が絡んでいるんですが、どうやらディズニーみたいな作品を作ろう、ということだったらしく、なんとなくアメリカ的。特にお供のリスが。主人公のお供にリスがいるって時点でディズニーを模した子供向けアニメって雰囲気がばんばん出ているのですが。

ところでこのアニメは、もともとは高畑勲(監督)と宮崎駿(場面設計)が関わっていたのですが、色々あったようで降板。そして近藤喜文さんに回ってきて、パイロットフィルムまで作るのですが、またしても降板。という、いわくつきのアニメなのです。で、音楽とかに有名な人をつぎ込んで、ものすごい大作を作ろうとプロデューサーは意気込んでいたようですが、できたものは、近藤さんのパイロットフィルムに及ばなかったという。

いや、よくできていますよ。作画の人ががんばっています。特に前半。パイロットフィルムをなぞったような展開に加え、スリリングな逃走劇もあって、けっこう楽しめます。しかし、シナリオとキャラクターがちょっと。あまりにも典型的過ぎる登場人物たちにがっかり。またいかにも子供向けでございというストーリーは、後半退屈します。ラスボスが60年代くらいの悪魔の造形ってのもちょっとちょっとという感じだし、わくわくするような要素がないんですよね。前半はそれなりによかったのですが。いいアニメだな、と思ったんです、最初は。子供向けの冒険活劇で、夢に溢れていて。でも次々と明らかになるストーリーと登場人物たちに対しては、もっとどうにかならなかったものかと残念です。ウィンザー・マッケイの原作の奇抜さ、斬新さはどこに行ってしまったのでしょう。

それにしてもこの脚本はないですよ。単純そのもので、うすっぺらなんですよね。悪い奴を倒して、お姫様とキスしてジ・エンド。う~ん。ナイトメアのあのどろどろした黒い物質などは不気味でよかったのに、完全にシナリオが足を引っ張ってますね。

登場人物をもっと洗練させ(いや洗練しすぎてしまっているのか?)、脚本を書き直したら、優れたアニメーションになりそうな予感がします。前半はよかったんですけどねえ。