実は村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読み終えたんだけど、今日はそのレビューではなくて、朝日新聞の内容について書こうと思う。せっかくだから春樹的な調子で。できるかな。
5月9日(土)の朝刊を読んで、ぼくは唖然とした。でもその前に、夕刊を読んで唖然とした話から書こうと思う。
そこでは公立中学で塾の指導を受けられることの是非が問われていて、賛成派と反対派の両方から読者の意見を募っていた。反対派の意見に驚くべきものがあった。
彼の主張を一言でいえば、貧乏な家庭の人間は高度な教育を受ける資格がない、ということだ。彼の理屈はこうだ。塾で行われているより高度な授業を受けるには、金を払う必要がある。だから、金を払えない貧しい家庭の子どもはそのような教育を受けるべきではない。不公平になるからだ。
なるほど。確かに筋が通っている。高度資本主義社会というやつだ。そこでは金が全てだ。4000円しかないのなら2万円もするフランス料理のフルコースは食べられないし、100円しかないのなら少年ジャンプは買えない。文無しだったら塾には通えない。
高度資本主義社会だ。
だからたぶん、この東京都に住む「40代男性」の意見は、高度資本主義社会の原則に忠実なんだと思う。これが変だと思うぼくの方が歪んでいるのかもしれない。誰だって生まれてくる時代は選べない。彼はこの社会に適用できているし、ぼくはできていない。それだけだ。
朝刊のことを話そうと思う。そこではダフ屋の是非が論じられていた。ぼくはこれまでダフ屋は迷惑な存在だと思っていたんだけれど、どうやら学者の世界ではそうとも決まっていないらしい。ある東大の先生の意見によれば、ダフ屋は悪くないのだそうだ。例えば金はないが暇のある人がいるとする。彼は2日間渋谷で行列を作ってチケットを買う。また暇はないが金のある人がいるとする。彼は行列の構成員にはなれないけれど、時間の取れる僅かなときにパソコンでダフ屋から高額のチケットを買う。つまり、暇のない人もチケットを入手できる制度をダフ屋はもたらしているということになる。でもそうすると金がなければチケットは買えなくなるじゃないか、という疑問にその教授はこう答える。金と余暇、それは各人の優先順位の問題なのだ、と。金のほうが優先順位の上の人は、寸暇を惜しんで金儲けをするから、金がある。だから高額のチケットを買える。一方時間のほうが大切な人は高額のチケットは買えないが、2日間並ぶ時間はある。
優先順位の問題だ。
何事も自分で選んでいるんだ、とその先生は言う。仕事が欲しくても雇ってもらえなくて、仕方なく暇を持て余している人がいるということを、この先生はたぶん知らないんだと思う。あるいは、ワーキングプアという言葉をその先生はクッキーの一種かなんぞのように考えているんだろう。やれやれ。
この先生は別のことも言う。お金のない人がチケットを買えなくなるからダフ行為を規制するというのは間違いだ。そういう問題は、最低所得保障の枠内で見直すべきなのだ、と。すばらしい意見だ。1億や2億もくれるのだったら、確かに一枚5000円のチケットが10万円もしたって気にならないだろう。20万円だって構わない。本当にすばらしい考え方だ。この先生の頭の中を見てみたいくらいだ。
ところで金と暇の関係は、もう現代では通用しない。それは、本当に2日間も店の前に並んでやっとチケットを手に入れていた時代の話だ。今は違う。発売時刻の10分前にパソコンの電源を入れて、必要なときにマウスをクリックすればチケットは手に入る。相対的に言って時間はかからない。金だけがかかる。だから、この先生の理屈は通らない。実際、ジブリ美術館の例が出ていたけれど、あれも暇と金の関係を覆している。ジブリ美術館のチケットはローソンで買えるから、一つのお店にずっと並んでいなくたっていい。新宿でも日吉でも買える。発券日の朝にローソンに行く。機械を操作する。それで終わりだ。どうしても時間が取れない人は、家族や友人に頼めばいい。まさか2日間も渋谷で野宿してくれとは言えないだろうけれど、10分間ローソンにいてくれ、と言うのにそんなに強い信頼関係は必要ない。だから、それが1万円で転売されてしまうと、単純に金のない人だけが不利益を被ることになる。買いたいときには買い占められ、お金も出せないからだ。小学生にだって分かる話だ。
ダフ屋に反対の先生の話も載っていた。一橋の先生は、それは興行主にとって気に食わない行為だ、と言っていた。慶應の先生は、ダフ屋の利ざやが大きくなり過ぎると社会の反感を買う、と言っていた。どうもずれている。彼らがずれているのかぼくがずれているのか分からないけれど、まるで首を斜めにして見る世界みたいだ。少なくてもそれはぼくの普通の感覚じゃない。
チケットを買いたい人がいる。でもダフ屋が全部買い占めて買えない。あとで数倍もの値段でそれが売られている。これが正常と言えるだろうか。それともこれが高度資本主義社会なんだろうか。やれやれ。世の中はちょっとばかり複雑になったようだ。
5月9日(土)の朝刊を読んで、ぼくは唖然とした。でもその前に、夕刊を読んで唖然とした話から書こうと思う。
そこでは公立中学で塾の指導を受けられることの是非が問われていて、賛成派と反対派の両方から読者の意見を募っていた。反対派の意見に驚くべきものがあった。
彼の主張を一言でいえば、貧乏な家庭の人間は高度な教育を受ける資格がない、ということだ。彼の理屈はこうだ。塾で行われているより高度な授業を受けるには、金を払う必要がある。だから、金を払えない貧しい家庭の子どもはそのような教育を受けるべきではない。不公平になるからだ。
なるほど。確かに筋が通っている。高度資本主義社会というやつだ。そこでは金が全てだ。4000円しかないのなら2万円もするフランス料理のフルコースは食べられないし、100円しかないのなら少年ジャンプは買えない。文無しだったら塾には通えない。
高度資本主義社会だ。
だからたぶん、この東京都に住む「40代男性」の意見は、高度資本主義社会の原則に忠実なんだと思う。これが変だと思うぼくの方が歪んでいるのかもしれない。誰だって生まれてくる時代は選べない。彼はこの社会に適用できているし、ぼくはできていない。それだけだ。
朝刊のことを話そうと思う。そこではダフ屋の是非が論じられていた。ぼくはこれまでダフ屋は迷惑な存在だと思っていたんだけれど、どうやら学者の世界ではそうとも決まっていないらしい。ある東大の先生の意見によれば、ダフ屋は悪くないのだそうだ。例えば金はないが暇のある人がいるとする。彼は2日間渋谷で行列を作ってチケットを買う。また暇はないが金のある人がいるとする。彼は行列の構成員にはなれないけれど、時間の取れる僅かなときにパソコンでダフ屋から高額のチケットを買う。つまり、暇のない人もチケットを入手できる制度をダフ屋はもたらしているということになる。でもそうすると金がなければチケットは買えなくなるじゃないか、という疑問にその教授はこう答える。金と余暇、それは各人の優先順位の問題なのだ、と。金のほうが優先順位の上の人は、寸暇を惜しんで金儲けをするから、金がある。だから高額のチケットを買える。一方時間のほうが大切な人は高額のチケットは買えないが、2日間並ぶ時間はある。
優先順位の問題だ。
何事も自分で選んでいるんだ、とその先生は言う。仕事が欲しくても雇ってもらえなくて、仕方なく暇を持て余している人がいるということを、この先生はたぶん知らないんだと思う。あるいは、ワーキングプアという言葉をその先生はクッキーの一種かなんぞのように考えているんだろう。やれやれ。
この先生は別のことも言う。お金のない人がチケットを買えなくなるからダフ行為を規制するというのは間違いだ。そういう問題は、最低所得保障の枠内で見直すべきなのだ、と。すばらしい意見だ。1億や2億もくれるのだったら、確かに一枚5000円のチケットが10万円もしたって気にならないだろう。20万円だって構わない。本当にすばらしい考え方だ。この先生の頭の中を見てみたいくらいだ。
ところで金と暇の関係は、もう現代では通用しない。それは、本当に2日間も店の前に並んでやっとチケットを手に入れていた時代の話だ。今は違う。発売時刻の10分前にパソコンの電源を入れて、必要なときにマウスをクリックすればチケットは手に入る。相対的に言って時間はかからない。金だけがかかる。だから、この先生の理屈は通らない。実際、ジブリ美術館の例が出ていたけれど、あれも暇と金の関係を覆している。ジブリ美術館のチケットはローソンで買えるから、一つのお店にずっと並んでいなくたっていい。新宿でも日吉でも買える。発券日の朝にローソンに行く。機械を操作する。それで終わりだ。どうしても時間が取れない人は、家族や友人に頼めばいい。まさか2日間も渋谷で野宿してくれとは言えないだろうけれど、10分間ローソンにいてくれ、と言うのにそんなに強い信頼関係は必要ない。だから、それが1万円で転売されてしまうと、単純に金のない人だけが不利益を被ることになる。買いたいときには買い占められ、お金も出せないからだ。小学生にだって分かる話だ。
ダフ屋に反対の先生の話も載っていた。一橋の先生は、それは興行主にとって気に食わない行為だ、と言っていた。慶應の先生は、ダフ屋の利ざやが大きくなり過ぎると社会の反感を買う、と言っていた。どうもずれている。彼らがずれているのかぼくがずれているのか分からないけれど、まるで首を斜めにして見る世界みたいだ。少なくてもそれはぼくの普通の感覚じゃない。
チケットを買いたい人がいる。でもダフ屋が全部買い占めて買えない。あとで数倍もの値段でそれが売られている。これが正常と言えるだろうか。それともこれが高度資本主義社会なんだろうか。やれやれ。世の中はちょっとばかり複雑になったようだ。