Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ベスト・オブ・ベケット3

2009-05-28 01:21:56 | 文学
『ベスト・オブ・ベケット3』を読みました。これでこのシリーズは全て読了したことになります。長かった…。3巻しかないのに。

収録作品は、
「しあわせな日々」
「芝居」
「言葉と音楽」
「ロッカバイ」
「オハイオ即興劇」
「カタストロフィ」

非常に先鋭的で難解と称されるベケットの戯曲は(このシリーズにあるのは戯曲のみ)、物語の起伏が豊かだったり読者の興味を惹こうとする試みが盛んになされていたり、といったことは皆無なわけで、一読しただけでは何が書かれていたのかさえよく分からない場合が多いです。しかし、この本には注がたくさん付されており、その助けを借りれば何となく意味がつかめるようになっています。

とはいえ1ページに5つも6つも注があるとき、その度に読書を中断させられるのはいささか苦痛で、読む意欲をなくすには十分なほどです。それがなければ意味が分からないですが、しかしそれがあることで気勢をそがれるので、なんともフラストレーションの溜まる本ではあります。

解説や注を読んでいると、戯曲の中に思いがけず非常に深い意味が込められていることに気付き、自分の読解力のなさを恨めしく思います。解説がなければ何を言っているのかよく分からない、というのは作品の問題なのか、それとも読者の問題なのか。

「言葉と音楽」の注で、暖炉の炎に懐かしい人の姿の到来を見る、というのは俗信として存在するということを知りました(フランスの俗信?)。なんか、『耳をすませば』を思い出しました。西老人が暖炉の前でうたた寝をしていて、ドイツ時代のかつての恋人のことを思い描く、というシーン。火が消えたとき、薪のガコンという音と共に彼は目覚め、そのとき雫が地球屋に入ってきます。夢の中で恋人が訪れてきたように。まさに暖炉の火が懐かしい人の到来を予言したと言えるでしょう。宮崎駿も近藤さんもこのような俗信は知らなかったと思いますが、彼(ら)の想像力が民衆のそれと結び付いた例ですね。『ハウル』の城がバーバ・ヤガーの小屋に似ていたように。

「芝居」は永遠反復の芝居。戯曲が終わり近くになってまた最初から繰り返されます。そしてまた振り出しの台詞に戻る。登場人物たちはどうやら「あの世」にいるようで、そこで現世での出来事をひたすら喋ります。しかし喋るだけで、救いは用意されていません。彼らは審問官の前で、生きていた頃の思い出を幾度も繰り返すだけです。

「ロッカバイ」も同様の台詞を何度も何度もリフレインさせながら、少しずつ舞台が進展してゆきます。揺り椅子の揺れという往還/反復運動も一つのイメージとして機能していると言えるでしょう。解説を読むと、この戯曲は生と死という相反するイメージをも同時に包含しており、生→死→生→…という循環構造、反復構造を持っています。反復を肯定的にも否定的にもどちらか一方に固定しようとせず、一つの大きな命のサイクルとして表現しているようです。その点で、ごく短いながらも壮大な規模の作品だと言えそうです。

ベケットの戯曲は人物の動きが極端に少なく(地面に埋まっていたり(「しあわせな日々」)つぼの中に入れられたりしている(「芝居」))、ときには登場人物の体と声とが分離させられていたりします(「ロッカバイ」)。身体性というものに注目の集まる昨今、こうした身体性の明らかな欠如は、時代に逆行しているかに見えますが、しかしかえって身体というものについて考えさせる契機にもなっているように思えます。

ただ、彼の設定した絶望的な状況(「勝負の終わり」に顕著な)や、語られるべきことは全て語られてしまった後のような(「語るべきことはもうなにも残っていない」in「オハイオ即興劇」)味気ないストーリーは、あまり好きにはなれません。解説や注などを読んで、少しだけ分かったような気になるのですが、でも意味はほとんど全てぼくの手から滑り落ちてしまっているのだと思います。いや、そもそも意味などあるのか、ということが問われているのかもしれません。禁欲的なまでに娯楽性を排したベケットの戯曲は、様々な可能性を含んではいるのでしょうが、専門的すぎる嫌いがあります。一般の読者にはよく分からないですから。色々なアイデアは詰まっているので、作家志望の人にはいいかもしれませんが。でも、なんていうか、つまらんと言って投げ出してしまえないような、そういう不思議な力を備えた作家ではありますね。