最近読んだ興味深い記事が幾つかあり、それらを引用しながら少しばかり私の仮説にお付き合いして頂きたい。私の仮説は、「『国家権力v.s.一般市民』の対立が『一般市民v.s.一般市民』の対立構造に変化する中で、言論空間での議論の論理構築技術が低下し、低レベルの粗く雑な議論が支配的になる」というものである。
まず最初に目に入った記事は下記のものである。
ゲンロン出版部 東浩紀「在特会デモ&カウンター『観光』記」
肩書をどう言えば良いか悩むが、現代思想家の東浩紀氏のブログに、在特会デモとそのカウンターとの間のデモ現場での対立・イザコザの「現場取材」した模様が記載されている。東氏は非常に丁寧に言葉を選び、それなりの公平性を期すためのフォローもしているが、カウンターの主催者などとこれ見よがしに映った写真などを掲載しているので、カウンター側の立場に立っているのは明らかである。最近は何かと叩かれる在特会だが、以前から主張している通り、在特会とカウンターの関係はロシアとウクライナの関係とでも言ったら良いだろうか、「毒ヘビと毒サソリの関係」に近いと思っている。つまり、どっちもどっちなのである。ウクライナ問題に関しては、世間一般ではアメリカや欧州寄りのメガネを通して見た報道が主流なので、ウクライナ側に正義があるように思う人が大勢を占めるが、何故、今この様なゴタゴタに陥ったのかの背景や、「力による現状変更は許さん」と言いながら、その直前に「力で捻じ曲げて現状変更(欧米より政権を樹立)した背景」を有耶無耶にして話されると「良く言うよ!!」と言いたくなる気持ちも分かる。一方が正義で一方が悪と言うのではなく、立ち位置を変えると評価が180度変わるという例である。大抵の場合、「両方とも駄目!」という結論である可能性が高い。この様な意味で、在特会問題を考えれば考えるほど「ロシアとウクライナに、ホント、似てるんじゃね?」と思うのだが、今日はそこを議論したいのではないので、話を先に進めることにする。
私が先ほどの記事を読んで「ナルホド!」と思わず膝を打ったのは、東氏の次のひとことである。
「いずれにせよ、ここで対立しているのは『権力』と『市民』ではありません。市民対市民の対立がここまで暴力的に顕在化するというのは、やはりそれなりに新しい局面で、真剣に対策を考える必要があるでしょう。」
そう、昔なら「国家権力」という強大な力がそこにあり、それに対抗するためには言論人は相手を打ち負かすだけの論理武装が求められた。時には裁判に訴え、時には足で稼いだ特ダネだとか、丁寧な戦略の構築を図ることが余儀なくされた。自衛隊や日米安保が憲法違反であると思えば、最終的には裁判で勝つための戦略を練らなければならないし、それでも最高裁が期待する様な判決を出してくれないのであれば、例えば日米間の密約をすっぱ抜くなど、八方、手を尽くしていたのだと思う。時としてその取材の違法性を指摘されて返り血を浴びたりする覚悟も必要だった。多くの市民を味方につけるには信頼が必要だから、雑で粗い議論を繰り返し信用を失うことを恐れた。
しかし、その様な時代が過ぎると、いつしか「国家権力」の威厳は地に落ちてくる。与野党を問わず、昔の田中角栄の様な強力な権力の持ち主はもはや存在しない。多分、東京佐川急便事件で旧田中派の流れをくむ竹下派の金丸信氏が会長職を辞したことに端を発する竹下派の抗争が激化して分裂し、自民党内の絶対的権力が弱まり結果的に宮沢政権が55年体制に終止符を打つことになる。これ以降、自民党と言えど与党の座を確保するためには、時として有権者に媚びた対応が求められた。田原総一郎氏などは、テレビ朝日のサンデー・プロジェクトなどを通し、(期せずして)3人の首相の首を取った・・・と言われているが、テレビの普及と民主主義が定着してくると、強力な個性の持ち主でない限り、権力者も有権者の顔色が気になるようになる。有無を言わさずトップダウンで何かを決めることなどできなくなって、市民の声を集約する形で政策を決定することになる。
勿論、そこには政府の持っていきたい方向性(方針)が事前に存在し、学者や有識者などの中の同様な意見の方々を巻き込んで一大勢力を築こうとするのだが、要はトップダウンではなく形式的には「民意」の繁栄の形を取らざるを得なくなった。原発再稼働などはその典型で、経済対策やエネルギー安全保障などの背景に加え、安全管理のための規制や監視能力を高め、手続き的な妥当性を十分に示さないと先に進めない。結果的に、反原発派と直接対峙するのは政府ではなく、原発再稼働容認派の民間人がそのカウンターとして位置付けられることになるのである。この辺は慰安婦問題も同じで、単なる1国会議員であれば好きなことを言えても、内閣の一員となると途端に好きなことは言えなくなる。あくまでも歴代内閣の方針に沿った発言が強要され、国家としての安定性のために個人的な意見は排除されることになる。結果として、国家権力ではなく民間レベルで意見が対立し、市民対市民での代理戦争が繰り広げられることになる。
これが良い傾向か悪い傾向かは分からないが、ヘイトスピーチの問題も全く同列で、東氏のご指摘はこの点を明確にまな板の上に乗せたところが新しい。ただ、私が注目したいのは対立の構造が新しい点ではなく、市民対市民の対立の場合には、(一部の個別論議を除けば)その勝者と敗者は「論理的な正当性」を基準とした争い(議論)によってではなく、「どちらが多数派を占めるか?」の争いによって決定されるケースが圧倒的であるという事実である。「論理的な正当性」を主張するのであれば、様々な議論を仲間内でも戦わせ、相手からの如何なる反論にも反駁できるだけの論理武装が求められるが、多数派争いの戦いであるならば、その様な論理武装など必要ない。あくまでも「イメージ戦略」が有効な手段であり、そのためであれば嘘でも100回言えば真実になってしまうという考え方がまかり通るのである。朝日新聞の吉田調書問題などにしても、あの様なゲリラ戦法などを取らなくても反原発を訴えることは可能であったはずだが、何故か反原発派の主役の座を射止めたと勘違いした元総理を援護するために、「イメージ戦略」先行の戦略を取ってしまった。小学生レベルの国語力を前提とする無謀な戦いを見る限り、もはや彼らは完全に丁寧で緻密な議論などを放棄していることがうかがえる。これがクオリティペーパーを自称する天下の大新聞なのだから目も当てられない。集団的自衛権も特定秘密保護法も同様で、盲目的で狂信的なネガティブキャンペーンが国民を洗脳するのに有効だと思い込んでいるのである。
話が逸れるが、報道機関ではないがBLOGOSに以下の記事があった。
BLOGOS 2014年9月25日「田中龍作:山谷えり子大臣ポロリ『在特会のHPを引用したまで』」
これは、著者の田中龍作氏が日本外国特派員協会で開かれた山谷えり子大臣の記者会見を取り上げ、事前に行われた週刊誌のインタビューでは「在特会の存在すら知らない」と答えていたのに、別のラジオ番組内では在特会のホームページに記載された内容を引用する形で自分の知り得た情報を回答していたことをあげ、「週刊誌のインタビューで在特会の存在すら知らないと答えていた山谷大臣だが、彼らのHPを自身の回答に引用したということは、在特会が何であるかを知っていたということだ。ウソがばれた瞬間だった。」と短絡的に切り捨てている。細かい文言と時系列を追わなければ分からないが、当初は知らなかった団体のことが自分に関連して話題になれば、当然ながらその情報を調べるのは当たり前である。あるタイミングでその知り得た情報をマスコミで回答するのも分かるし、それ以前には存在すら知らなかったというのもあり得る話である。しかし、「この嘘つき野郎!!」と短絡的に罵ることで、訳も分からず「嘘つきなんだ、この人・・・」と読者をミスリードすることを好んで行う様なやり方は、最近では朝日新聞的な報道機関で良く見る傾向である。これは単なる一例であるからこれが全てを物語ってはいないが、この様に議論の質が低下しているのは明らかな傾向だと私は感じている。
話を元に戻そう。今から思い返せば、この様な市民対市民の対立の構図は民主主義社会の成熟度を表すバロメータであるのだと思うのだが、形だけは民主主義の形式をとりながら、マスメディアが堕落したがために民主主義までも堕落しかけている感じである。その意味(民主主義が堕落したこと)では、我々よりも何十年か先を行っている感のある韓国だが、我々はその様な人の振りを見て我が身を省みなければならない。強大な国家権力の衰退はある意味では評価すべき結果ではあるが、その先に堕落があるのは何とも頂けない。
吉田調書や慰安婦問題などは単なる個別の事案でしかないが、大局な視点で見た時の民主主義の堕落は致命傷になりかねない。国際社会での慰安婦問題の解決のためには「多数派工作」は避けては通れない重要課題であるが、国内問題に関しては事情は全く異なるのである。
今一度、対立の構図の変化を顧みて、多数派工作ではない、丁寧な論理的な議論での論破を重要視するべきだと感じる。
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まず最初に目に入った記事は下記のものである。
ゲンロン出版部 東浩紀「在特会デモ&カウンター『観光』記」
肩書をどう言えば良いか悩むが、現代思想家の東浩紀氏のブログに、在特会デモとそのカウンターとの間のデモ現場での対立・イザコザの「現場取材」した模様が記載されている。東氏は非常に丁寧に言葉を選び、それなりの公平性を期すためのフォローもしているが、カウンターの主催者などとこれ見よがしに映った写真などを掲載しているので、カウンター側の立場に立っているのは明らかである。最近は何かと叩かれる在特会だが、以前から主張している通り、在特会とカウンターの関係はロシアとウクライナの関係とでも言ったら良いだろうか、「毒ヘビと毒サソリの関係」に近いと思っている。つまり、どっちもどっちなのである。ウクライナ問題に関しては、世間一般ではアメリカや欧州寄りのメガネを通して見た報道が主流なので、ウクライナ側に正義があるように思う人が大勢を占めるが、何故、今この様なゴタゴタに陥ったのかの背景や、「力による現状変更は許さん」と言いながら、その直前に「力で捻じ曲げて現状変更(欧米より政権を樹立)した背景」を有耶無耶にして話されると「良く言うよ!!」と言いたくなる気持ちも分かる。一方が正義で一方が悪と言うのではなく、立ち位置を変えると評価が180度変わるという例である。大抵の場合、「両方とも駄目!」という結論である可能性が高い。この様な意味で、在特会問題を考えれば考えるほど「ロシアとウクライナに、ホント、似てるんじゃね?」と思うのだが、今日はそこを議論したいのではないので、話を先に進めることにする。
私が先ほどの記事を読んで「ナルホド!」と思わず膝を打ったのは、東氏の次のひとことである。
「いずれにせよ、ここで対立しているのは『権力』と『市民』ではありません。市民対市民の対立がここまで暴力的に顕在化するというのは、やはりそれなりに新しい局面で、真剣に対策を考える必要があるでしょう。」
そう、昔なら「国家権力」という強大な力がそこにあり、それに対抗するためには言論人は相手を打ち負かすだけの論理武装が求められた。時には裁判に訴え、時には足で稼いだ特ダネだとか、丁寧な戦略の構築を図ることが余儀なくされた。自衛隊や日米安保が憲法違反であると思えば、最終的には裁判で勝つための戦略を練らなければならないし、それでも最高裁が期待する様な判決を出してくれないのであれば、例えば日米間の密約をすっぱ抜くなど、八方、手を尽くしていたのだと思う。時としてその取材の違法性を指摘されて返り血を浴びたりする覚悟も必要だった。多くの市民を味方につけるには信頼が必要だから、雑で粗い議論を繰り返し信用を失うことを恐れた。
しかし、その様な時代が過ぎると、いつしか「国家権力」の威厳は地に落ちてくる。与野党を問わず、昔の田中角栄の様な強力な権力の持ち主はもはや存在しない。多分、東京佐川急便事件で旧田中派の流れをくむ竹下派の金丸信氏が会長職を辞したことに端を発する竹下派の抗争が激化して分裂し、自民党内の絶対的権力が弱まり結果的に宮沢政権が55年体制に終止符を打つことになる。これ以降、自民党と言えど与党の座を確保するためには、時として有権者に媚びた対応が求められた。田原総一郎氏などは、テレビ朝日のサンデー・プロジェクトなどを通し、(期せずして)3人の首相の首を取った・・・と言われているが、テレビの普及と民主主義が定着してくると、強力な個性の持ち主でない限り、権力者も有権者の顔色が気になるようになる。有無を言わさずトップダウンで何かを決めることなどできなくなって、市民の声を集約する形で政策を決定することになる。
勿論、そこには政府の持っていきたい方向性(方針)が事前に存在し、学者や有識者などの中の同様な意見の方々を巻き込んで一大勢力を築こうとするのだが、要はトップダウンではなく形式的には「民意」の繁栄の形を取らざるを得なくなった。原発再稼働などはその典型で、経済対策やエネルギー安全保障などの背景に加え、安全管理のための規制や監視能力を高め、手続き的な妥当性を十分に示さないと先に進めない。結果的に、反原発派と直接対峙するのは政府ではなく、原発再稼働容認派の民間人がそのカウンターとして位置付けられることになるのである。この辺は慰安婦問題も同じで、単なる1国会議員であれば好きなことを言えても、内閣の一員となると途端に好きなことは言えなくなる。あくまでも歴代内閣の方針に沿った発言が強要され、国家としての安定性のために個人的な意見は排除されることになる。結果として、国家権力ではなく民間レベルで意見が対立し、市民対市民での代理戦争が繰り広げられることになる。
これが良い傾向か悪い傾向かは分からないが、ヘイトスピーチの問題も全く同列で、東氏のご指摘はこの点を明確にまな板の上に乗せたところが新しい。ただ、私が注目したいのは対立の構造が新しい点ではなく、市民対市民の対立の場合には、(一部の個別論議を除けば)その勝者と敗者は「論理的な正当性」を基準とした争い(議論)によってではなく、「どちらが多数派を占めるか?」の争いによって決定されるケースが圧倒的であるという事実である。「論理的な正当性」を主張するのであれば、様々な議論を仲間内でも戦わせ、相手からの如何なる反論にも反駁できるだけの論理武装が求められるが、多数派争いの戦いであるならば、その様な論理武装など必要ない。あくまでも「イメージ戦略」が有効な手段であり、そのためであれば嘘でも100回言えば真実になってしまうという考え方がまかり通るのである。朝日新聞の吉田調書問題などにしても、あの様なゲリラ戦法などを取らなくても反原発を訴えることは可能であったはずだが、何故か反原発派の主役の座を射止めたと勘違いした元総理を援護するために、「イメージ戦略」先行の戦略を取ってしまった。小学生レベルの国語力を前提とする無謀な戦いを見る限り、もはや彼らは完全に丁寧で緻密な議論などを放棄していることがうかがえる。これがクオリティペーパーを自称する天下の大新聞なのだから目も当てられない。集団的自衛権も特定秘密保護法も同様で、盲目的で狂信的なネガティブキャンペーンが国民を洗脳するのに有効だと思い込んでいるのである。
話が逸れるが、報道機関ではないがBLOGOSに以下の記事があった。
BLOGOS 2014年9月25日「田中龍作:山谷えり子大臣ポロリ『在特会のHPを引用したまで』」
これは、著者の田中龍作氏が日本外国特派員協会で開かれた山谷えり子大臣の記者会見を取り上げ、事前に行われた週刊誌のインタビューでは「在特会の存在すら知らない」と答えていたのに、別のラジオ番組内では在特会のホームページに記載された内容を引用する形で自分の知り得た情報を回答していたことをあげ、「週刊誌のインタビューで在特会の存在すら知らないと答えていた山谷大臣だが、彼らのHPを自身の回答に引用したということは、在特会が何であるかを知っていたということだ。ウソがばれた瞬間だった。」と短絡的に切り捨てている。細かい文言と時系列を追わなければ分からないが、当初は知らなかった団体のことが自分に関連して話題になれば、当然ながらその情報を調べるのは当たり前である。あるタイミングでその知り得た情報をマスコミで回答するのも分かるし、それ以前には存在すら知らなかったというのもあり得る話である。しかし、「この嘘つき野郎!!」と短絡的に罵ることで、訳も分からず「嘘つきなんだ、この人・・・」と読者をミスリードすることを好んで行う様なやり方は、最近では朝日新聞的な報道機関で良く見る傾向である。これは単なる一例であるからこれが全てを物語ってはいないが、この様に議論の質が低下しているのは明らかな傾向だと私は感じている。
話を元に戻そう。今から思い返せば、この様な市民対市民の対立の構図は民主主義社会の成熟度を表すバロメータであるのだと思うのだが、形だけは民主主義の形式をとりながら、マスメディアが堕落したがために民主主義までも堕落しかけている感じである。その意味(民主主義が堕落したこと)では、我々よりも何十年か先を行っている感のある韓国だが、我々はその様な人の振りを見て我が身を省みなければならない。強大な国家権力の衰退はある意味では評価すべき結果ではあるが、その先に堕落があるのは何とも頂けない。
吉田調書や慰安婦問題などは単なる個別の事案でしかないが、大局な視点で見た時の民主主義の堕落は致命傷になりかねない。国際社会での慰安婦問題の解決のためには「多数派工作」は避けては通れない重要課題であるが、国内問題に関しては事情は全く異なるのである。
今一度、対立の構図の変化を顧みて、多数派工作ではない、丁寧な論理的な議論での論破を重要視するべきだと感じる。
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