けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

川内原発の再稼働に対する火山学者の批判は妥当か?

2014-06-01 21:47:03 | 政治
確か金曜日の報道ステーションだったと思うが、鹿児島県の川内原発の審査が進み、再稼働の第1号の候補になっていることに火山学者が「待った!」をかけたニュースが流れていた。今日はこの話を切り口に、「駄目な議論」の典型例を示したいと思う。

地震王国とも言われる日本にはそこら中に活断層があり、原発安全審査の中ではかなり厳密にこの辺が審査対象になっている。原子炉の真下に活断層があるなどと言うのは法律で認められていないから当然そのような原発の再稼働は認められない。しかし、では全ての原発がダメかと言えばそうではなく、この鹿児島県の川内原発というのは日本の原発の中でも珍しい部類で、近くに活断層が走っていないということらしい。したがって、再稼働の口火を切る第1号に期待されているところであるが、反原発派の人々は「なし崩し」の再稼働を恐れるから、その安全性を抜きに何とかイチャモンを付けたいということで、色々と策を講じているらしい。その策略にはまったか否かは知らないが、この川内原発は例えば桜島から直線で50km程度離れた位置に存在するが、鹿児島の桜島の周りの鹿児島湾周辺は実は姶良カルデラと呼ばれていて、それ自体が噴火口になり得る大型の火山の様である。火山に関しては素人なので詳しいことは知らないが、そのカルデラの規模を考えても分かるようにその噴火の際のインパクトは富士山大噴火の数百倍にも上るらしく、50km程度の距離でも火砕流が到達する可能性があるのだという。火砕流をWikipediaで調べてみると、下記の様なものらしい。

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火砕流(かさいりゅう、pyroclastic flow、火山砕屑流)とは、火山現象で生じる熱い、気体と固体粒子からなる空気よりもやや重い密度流である。多くの場合、本質物を含む数百度以上の高温のものを指す。ただし水蒸気爆発で発生するような本質物を含まない高温でない密度流も火砕流と呼ばれることがある。最近では、温度や本質物の有無を定義から取り払い、火砕流と火砕サージなどを重力流の一種とみなして、火砕物密度流(pyroclastic density current)とすることも多い。
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どうも、原発本体はともかく、原発の外側の施設は火砕流が到達すれば致命的な被害を受け、結果的に原子炉を冷却不能に陥れる可能性が大いにあると言える。ただ、この際には鹿児島県内の住民はほぼ全滅に近い状況で、九州も壊滅的で、農業を中心に日本全体の産業にも致命的な影響を与えるであろう。その際、最悪のシナリオを想定すれば、原発においてチェルノブイリと同様の爆発が起きる可能性も否定できないだろうから九州、四国、中国地方にその被害が及ぶ可能性がある。こちらの方は、チェルノブイリの現状を見ればどの様なものか理解できる。地震学者が慎重な意見を述べるのは十分理解できる。

ただ、もう少しフェアに見て行けば、最後の大噴火からは2万6千年ほど程度らしいが、その前の噴火は何度かあるものの、それよりは格段に規模が小さいもので、2万6千年ほどの大噴火の周期は更に長い例えば10万年という周期の様である。確かに、あまり楽観できるデータでは無いように思えるが、しかし、これは一体どれほど深刻に受け止めるべきデータなのだろうか?
一例として、東日本大震災のことを考えれば、西暦869年の貞観地震(マグニチュード8.3)で発生した津波の規模に福島第一原発が耐えられないというデータが直前に発覚し、結果としてけれに対する対策を打つことなく予想通りの結果となってしまった。この貞観地震は千年前だが、それ以外にも地震は何度か起きていて、その都度、津波は問題となっている。地震や津波の被害はある程度予測可能で、その予測の範囲で対策を講ずるのと講じないのでは、その後の副次的被害の規模は大きく変わる。福島だけに限定すれば、多分、東日本大震災による被害(津波を含む)を1とすれば、福島第一原発の事故による被害は多分、百、千、ないしは1万を超えるかも知れない。だから、福島のケースでは十分な対策を講じなかったことの問題が非常に際立つケースである。その様な条件を提示されれば、何らかの対策を取るべきとの指示は十分できたはずだし、それを黙殺した人々の罪は重い。

しかし、10万年に1度の周期でしか発生しなく、一旦起きれば100万人規模の人が亡くなる様な自然大災害に伴う副次的な災害をどれだけ真面目に考えなければならないのだろうか?この様な問題を考える時には、何らかの基準になるレベルの物差しが必要る。その基準を、例えば、交通事故の影響を比較対象にして考えてみたい。

例えば、交通事故で無くなる被害者は年間5千人ぐらいだが、実際にはこれは事故後24時間以内に亡くなった人しかカウントしていない。正確な数字は知らないが、数日して亡くなる人を加えると倍の死者を出していると考えても大きくは外れない。死にはしないが、重大な障害が残る人や長い入院を余儀なくされる人は更に多数だが、ここではその様な被害者は無視して死者だけを考えてみる。この交通事故による被害者のレベルを、姶良カルデラの大噴火の影響と比較をしてみよう。大噴火の影響を受けるのは鹿児島県の枠を超えるだろうが、仮に分かり易いところで(都道府県が47なので)全国の1/50のエリアと仮定すると、毎年5000×2÷50=200人の死者に相当する。10万年に1回の頻度の事象と比較するにはこれを10万倍して評価する必要があるから、「自動車事故のリスク」は姶良カルデラの周辺では、10万年当たりで2000万人の死者を出すというリスクに相当する。原発の影響を含めずに噴火の純粋な被害で比較すると、姶良カルデラの大噴火による直接的な死者は多分、交通事故被害者のリスクの数分の1程度は小さい規模だろう。ここにチェルノブイリ的な原発の大爆発が加わっても、多分、被害の規模は2000万人には達しない。しかも、これだけの大噴火であればそれなりの予兆があると考えるのが自然だから、その予兆に合わせて何らかの対策を講じれば、チェルノブイリ的な大爆発ではなく、完全な冷却停止状態での建物の破壊等による福島第一原発的な放射性物質の放出という形に収まる可能性が高い。その際、放射性物質の放出の被害以上に姶良カルデラの大噴火の方が深刻で、ただでさえ危険で住めなくなってしまったエリアと、放射性物質の汚染が問題となるエリアが重なるという事態が現実の事態であろう。

火山学者は予兆を捉えることは十分ではないと主張するが、10万年に1度という物凄いエネルギーの蓄積を全く予測できないとは信じ難いので、これは「100%予兆を捉えることは不可能」と言っているにすぎなく、現実にはそれなりの何かが検出できないとうのはおかしい。殆ど即死と予想されるエリアは勿論、相当致命的な被害が予想される九州全域で避難するほどの大決断をすることが出来るほどの確度が求められる予知など不可能なのは分かるが、経済的なインパクトは限定的な原発を停止した方が良い程度の予知で良いのであれば、多分、90%ぐらいの精度で予測は出来るのではないかと思う。こうなると、リスクはまた1桁、小さくなったと考えて然るべきである。

話を戻せば、自動車事故に関して言えば、交通事故を無くすために自家用車を廃止し、公共交通機関を今の100倍ぐらい便利なものにし、バスや電車、地下鉄などを駆使して生活するようになれば、自動車事故の死者は百分の一、千分の一に抑えられるかも知れない。こう考えると、対策次第で如何様にでもなる交通災害を、このまま黙殺することで10万年で2000万人も死者が出る状態を放置することに、何ら危機意識を感じないという物差しが一方では存在することになる。その一方で、リスクはそれよりも大幅に小さいと予想される姶良カルデラの大噴火は見過ごすことが出来ない大きなリスクだと主張する人がいる。この感覚が私には理解できない。

大体、姶良カルデラの大噴火のリスクなどよりも、北朝鮮や中国から核ミサイルが原発に飛んでくるリスクの方が遥かに大きく現実的である。さらに言えば、原発を爆破しようするというテロの存在の方が、さらに何桁も大きなリスクのはずである。どうせ原発反対というのであれば姶良カルデラの大噴火の議論をするよりも、核関連施設へのテロ攻撃の方にエネルギーを割いた方がよっぽど説得力があると思うのだが、実際にはその様な方向では議論は進んでいない。如何にも短絡的な議論である。

では、何故このような議論になってしまうのであろうか?それは、現在、世の中には理屈抜きで「原発反対」という人と、盲目的に何とかなるさ的な楽観論で「再稼働賛成」という人がいる。特に、地震学者などは東日本大震災の教訓から、無視できないリスクに口を閉じていた過去の反省のもと、過剰に安全を求める傾向がある。多分、火山学者などは「次は、我々に白羽の矢が立った」と感じ、責任を果たそうと感じる人もいる。そんな中に、先ほどの理屈抜きに「原発反対」という人が紛れ込むと、「お前ら、本当に安全と断言できるのか?」「本当に責任を取れるのか?」などと、議論を「反原発」に誘導する方向に走ることが予想される。テレビ局が地震学者に問うたアンケートも、詳しい但し書きもなく「噴火を予知できるか?」と言われれば、多分、「出来ない」と答える人が多いだろうが、「大規模な避難を決断するための予知は不可能でも、原発を停止した方が良い程度の予知で良ければ出来るか?」と問えば、答えは大分変ってくるのだと思う。しかし、本当の丁寧な議論とは、理屈抜きで「原発反対」という人と、盲目的に何とかなるさ的な楽観論で「再稼働賛成」という人も両方を排して、理屈で合理的にリスクを評価し、定量化されたリスクが他のリスクに対して許容可能か否かの判断をし、その結果として「許容できるもの」と「許容できないもの」により分ける、そんな誰にでも納得感のある公平な議論であるはずである。しかし、今回のケースもその様な議論からはかけ離れている。定量的なリスクの比較ではなく、「絶対的なゼロではないリスクの指摘」に終始している。


いずれにしても最初に結論がありきで、「原発再稼働反対!」を導くための「怖い怖い詐欺」を続けていても、議論は平行線を辿るだけである。私の感覚では、番組内で映像が流れた原子力規制委員会の田中委員長の対応はニュートラルな立場の様に感じた。何でも「怖い怖い」と言えば良い訳ではない。しかし、洗脳キャンペーンとは恐ろしいもので、多分、盲目的に納得してしまった視聴者も多いのだろう。

相変わらず困ったものである。

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