先日、靖国神社への放火犯が韓国から中国に移送された。韓国でもソウルの日本大使館に火炎瓶を投げ入れ逮捕され、身柄を拘束されていたところで靖国神社への放火についても自供していたようで、本来の日韓引渡し条約に従えば中国への移送ではなく日本に引き渡されるべき事案である。しかし、これを中国からの圧力と国内の反日世論に屈し、法律を曲げた判断を裁判所が行ったのである。これが韓国政府の判断というのであればまだ分からなくもないが、法律を唯一の拠り所とする法治国家の要である裁判所の判断というのがポイントである。これは、一昨年の韓国最高裁での慰安婦問題に対する韓国政府の不作為を認定する判定とセットで理解すべき、極めて政治的な判断を法律に優先させた結果である。建前上は政治犯ということだが、安倍総理や菅官房長官が言うように、「政治犯」というものの韓国政府および韓国の司法界における定義を明確にするよう日本政府として公式に求めることが重要である。
さて、思い起こせば日本にも類似の政治的な判断と法律の間でのせめぎ合いとも言うべき事件が過去にあった。中学、高校の歴史でも学んだ大津事件である。今から100年以上前の明治24年の話であり、当時は大国であったロシア帝国の皇太子が滋賀県の大津で警備の警官に切りつけられ怪我を負ったという事件である。命には別状はなかったが、ロシア帝国が日本に報復することを恐れ、一般世論や政府の間にも犯人に対して死刑を求める声が多かった。しかし、法律に照らせば死刑に該当する事案ではなく、Wikipediaによれば「時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙は『法治国家として法は遵守されなければならない』とする立場から、『刑法に外国皇族に関する規定はない』として政府の圧力に反発した。」のである。ロシア帝国からは強硬な死刑求刑を求める動きがあったが、結局、法は法でありその規定に純粋に従えば一般人に対する謀殺未遂罪が該当するということで無期懲役止まりになった。
これは所謂「司法の独立」として日本が法治国家であることを示した歴史的な事件であるが、今回の韓国の判断を見る限り、かの国では法律に優先する何かがあることが明らかになった訳である。分かりやすく言えば、ウサマ・ビン・ラディンは政治犯かといえば答えは否であり、政治的な背景を伴う殺人者なのである。政治犯という言葉の定義は今回の韓国の例のように、時として姿を変える場合もあるようだが、世界的な常識の範疇で言うならば、思想・信条的に反政府的な者を革命や政権転覆というリスクを、(時の政権の立場からすれば)実現される前に予防的に排除することを目的として犯罪者と位置づけるものが政治犯であり、その思想・信条を背景としなければ本来は逮捕されずに済んだハズの特殊な犯罪者を本来は意味するはずである。ビン・ラディンは政治的な思想信条を抜きに、人を殺したのだから単なる殺人者であり、そしてテロリストである。思想信条を除けば本来は逮捕されるべき犯罪構成要件を満たしていないものを、ある国の政府がその者を犯罪者として処罰する危険性があるとき、その政府からの引渡し要求に対して拒否することは多分、世界中の多くの国で支持されるものであろう。しかし、韓国でのケースでは放火という極めて重い罪を犯していることが明らかであり、しかも日本では過去の実績から思想信条を理由に本来の罪を遥かに超える理不尽な量刑を言い渡すリスクが殆どないのは明らかである。であれば、韓国には「政治犯」とは何であるかを明らかにする義務があり、そしてその定義に照らして今回のケースがどうであったかを説明する責任もある。
これは、日本と韓国の小さな話題ではなく、国際的にこの問題をアピールし、世界中の3件分立が確立した先進国の国々にことの是非を問うべきである。そして、安倍政権は民主党政権とは異なり、理不尽な嫌がらせには断固として闘う姿勢を示すべきである。我々が求めることは、世界標準といえる世界の良心に照らし合わせ、全ての事案を事実をベースとして議論する土壌を醸成することである。歴史問題などはその最たるもので、戦争の勝者側に属する者の言い分で事実を捻じ曲げることの是非を問うものであり、日本に反省するべきところがあれば事実をもとにそれを明らかにすると共に、事実無根の言いがかりであれば証拠不十分であることも明らかにすべきである。
(中国に対しても同じであるが)日韓関係の改善を実現するためには、単に日本人であるからというバイアスを遥かに超えて客観的な視点から韓国側の大きな譲歩が前提条件になる。しかし、その様な譲歩は韓国政府にとっては「国賊」と突き上げられるリスクが大きすぎてとても決断できるものではない。だから、日本からの圧力という形ではなく、世界標準から大きく道を踏み外しているという世界各国からのプレッシャーにより世論を動かして行くしかない。そのためにも、ことを世界にアピールすることは非常に重要なのであり、竹島問題を国際司法裁判所に提訴することもそれらの一連の流れなのである。
ただ、この様に書きながら、個人的には日本にも法律に優先する何かを問われると答えられない汚点が存在する。それは憲法9条と自衛隊の存在の間の大きなギャップである。明文化するまでもない全ての国家に固有の権利である自衛権という概念でそのギャップを埋める努力をするのは分からないでもないが、少なくとも標準的な高校生が読んで理解できない様な行間を含む法律の条文が、国家の最上位の憲法の中に存在するということは、「法律に優先する何かが存在する国」と世界から見られても仕方がない。だから、「韓国と同じじゃないか!」と言われないためにも、この様な現状は改善しなければならない。憲法を維持するなら自衛隊の縮小・解散を、自衛隊を維持するなら憲法9条の改正を、そのどちらかを選択すべきというのはこれまた世界標準であろう。
最後の憲法問題は少々話を膨らませすぎたかも知れないが、今回の韓国の問題は(非常に許せない問題ではあるが)ある意味では日本の反転のきっかけになるかも知れない。物事を前向きに捉えて、安倍政権には前に駒を進めて欲しい。
←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます
さて、思い起こせば日本にも類似の政治的な判断と法律の間でのせめぎ合いとも言うべき事件が過去にあった。中学、高校の歴史でも学んだ大津事件である。今から100年以上前の明治24年の話であり、当時は大国であったロシア帝国の皇太子が滋賀県の大津で警備の警官に切りつけられ怪我を負ったという事件である。命には別状はなかったが、ロシア帝国が日本に報復することを恐れ、一般世論や政府の間にも犯人に対して死刑を求める声が多かった。しかし、法律に照らせば死刑に該当する事案ではなく、Wikipediaによれば「時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙は『法治国家として法は遵守されなければならない』とする立場から、『刑法に外国皇族に関する規定はない』として政府の圧力に反発した。」のである。ロシア帝国からは強硬な死刑求刑を求める動きがあったが、結局、法は法でありその規定に純粋に従えば一般人に対する謀殺未遂罪が該当するということで無期懲役止まりになった。
これは所謂「司法の独立」として日本が法治国家であることを示した歴史的な事件であるが、今回の韓国の判断を見る限り、かの国では法律に優先する何かがあることが明らかになった訳である。分かりやすく言えば、ウサマ・ビン・ラディンは政治犯かといえば答えは否であり、政治的な背景を伴う殺人者なのである。政治犯という言葉の定義は今回の韓国の例のように、時として姿を変える場合もあるようだが、世界的な常識の範疇で言うならば、思想・信条的に反政府的な者を革命や政権転覆というリスクを、(時の政権の立場からすれば)実現される前に予防的に排除することを目的として犯罪者と位置づけるものが政治犯であり、その思想・信条を背景としなければ本来は逮捕されずに済んだハズの特殊な犯罪者を本来は意味するはずである。ビン・ラディンは政治的な思想信条を抜きに、人を殺したのだから単なる殺人者であり、そしてテロリストである。思想信条を除けば本来は逮捕されるべき犯罪構成要件を満たしていないものを、ある国の政府がその者を犯罪者として処罰する危険性があるとき、その政府からの引渡し要求に対して拒否することは多分、世界中の多くの国で支持されるものであろう。しかし、韓国でのケースでは放火という極めて重い罪を犯していることが明らかであり、しかも日本では過去の実績から思想信条を理由に本来の罪を遥かに超える理不尽な量刑を言い渡すリスクが殆どないのは明らかである。であれば、韓国には「政治犯」とは何であるかを明らかにする義務があり、そしてその定義に照らして今回のケースがどうであったかを説明する責任もある。
これは、日本と韓国の小さな話題ではなく、国際的にこの問題をアピールし、世界中の3件分立が確立した先進国の国々にことの是非を問うべきである。そして、安倍政権は民主党政権とは異なり、理不尽な嫌がらせには断固として闘う姿勢を示すべきである。我々が求めることは、世界標準といえる世界の良心に照らし合わせ、全ての事案を事実をベースとして議論する土壌を醸成することである。歴史問題などはその最たるもので、戦争の勝者側に属する者の言い分で事実を捻じ曲げることの是非を問うものであり、日本に反省するべきところがあれば事実をもとにそれを明らかにすると共に、事実無根の言いがかりであれば証拠不十分であることも明らかにすべきである。
(中国に対しても同じであるが)日韓関係の改善を実現するためには、単に日本人であるからというバイアスを遥かに超えて客観的な視点から韓国側の大きな譲歩が前提条件になる。しかし、その様な譲歩は韓国政府にとっては「国賊」と突き上げられるリスクが大きすぎてとても決断できるものではない。だから、日本からの圧力という形ではなく、世界標準から大きく道を踏み外しているという世界各国からのプレッシャーにより世論を動かして行くしかない。そのためにも、ことを世界にアピールすることは非常に重要なのであり、竹島問題を国際司法裁判所に提訴することもそれらの一連の流れなのである。
ただ、この様に書きながら、個人的には日本にも法律に優先する何かを問われると答えられない汚点が存在する。それは憲法9条と自衛隊の存在の間の大きなギャップである。明文化するまでもない全ての国家に固有の権利である自衛権という概念でそのギャップを埋める努力をするのは分からないでもないが、少なくとも標準的な高校生が読んで理解できない様な行間を含む法律の条文が、国家の最上位の憲法の中に存在するということは、「法律に優先する何かが存在する国」と世界から見られても仕方がない。だから、「韓国と同じじゃないか!」と言われないためにも、この様な現状は改善しなければならない。憲法を維持するなら自衛隊の縮小・解散を、自衛隊を維持するなら憲法9条の改正を、そのどちらかを選択すべきというのはこれまた世界標準であろう。
最後の憲法問題は少々話を膨らませすぎたかも知れないが、今回の韓国の問題は(非常に許せない問題ではあるが)ある意味では日本の反転のきっかけになるかも知れない。物事を前向きに捉えて、安倍政権には前に駒を進めて欲しい。
←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます