けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

世間に蔓延する「デッドゾーン現象」

2016-03-12 13:16:40 | 政治
唐突で申し訳ないが、皆さんはデヴィッド・クローネンバーグ監督、クリストファー・ウォーケン主演の1983年の映画「デッドゾーン(原題:THE DEAD ZONE)」をご存じだろうか?以下の内容にはこの映画の「ネタバレ」記述があるので、それを気にする方はご注意をお願いしたい。

まず、映画の紹介は以下にある。

Yahoo!映画「デッドゾーン

簡単に振り返っておくと、主人公はある日、交通事故にあい昏睡状態の5年間を過ごすことになる。その後、奇跡的に目覚めるのだが、その特異な経験故に、何故か手に触れた人の未来を予知する能力を身に着けてしまう。その後のストーリーは、その特殊な能力により悲劇の運命に巻き込まれることになる。

その詳細は(ネタバレなので)後ほど紹介するが、今日のブログでは、3.11以降の日本では、この主人公の様な能力を身に着けてしまったと勘違いしてしまった人々が多く現れ、それが現在の様々な混乱を招いてしまったと私は感じている。

まず、その典型的な「事件」は以下の高浜原発3,4号機の運転差し止めの仮判決である。

日本経済新聞 2016年3月9日「関電高浜原発3・4号機の運転差し止め 大津地裁仮処分決定

これは、昨年にも高浜原発3, 4号機の再稼働差し止めの仮処分決定があったので、その延長線上の話なのだが、その際の福井地裁の樋口英明裁判長は、どうも思想的に偏った感がプンプンとしていたので「この裁判官、特殊なんだ・・・」と勝手に思い込んでいた。実際、その際の判決の要旨を読んでみれば、その異常さは理解できる。世の中には、この様な裁判官が一人ぐらいはいてもおかしくないだろう・・・と思って話を聞いていた。しかし、今回の判決に関しては、そこまでの思想的な偏りは感じられない一方で、結果的には同様の判断をしまうところから、その様な言葉では片づけられない何かを感じた。

例えば、今回の裁判の山本善彦裁判長は、昨年11月には再稼働前の高浜3,4号機をめぐる同様の仮処分申請を「再稼働は迫っておらず、差し止めの必要性はない」と却下していたそうなので、極端なイデオロギーを持った特殊な人という訳ではなさそうである。しかし、以下の判決文を読んでみると、やはり裁判官としての論理性を捨てざるを得ない何かを感じたのではないかと私なりに読み取った。

平成27年(ヨ)第6号 原発再稼働禁止仮処分申立事件

長ったらしいので、下記のサイトの方で要点が整理されている。
アゴラ 2016年3月10日「『ゼロリスク』を求める裁判官」池田信夫

こちらには要約が書かれているが、私個人が着目した点は少々異なる。上記の判決文を読むと、今回の裁判には7つの論点があることが分かり、その中の第1番に上げられたのは、「原子力規制委員会の判断をどの様に評価すべきか」というポイントである。ただし、判決文ではこの様な表記ではなく、16ページ目から始まる[争点1]「(主張立証責任の所在)に関する当事者双方の主張」として扱われ、すなわち「主張の立証責任は誰にあるか?」が議論されている。ここでは、原発関連の裁判に関しては「行政事件」と見なした場合と「民事事件」と見なした場合で判断は微妙であるが、「行政事件」であれば過去に最高裁判決(伊方原原発訴訟最高裁判決)があり、そこでは「原子力委員会若しくは原子炉安全委員会の専門技術的な調査審議及び判断」は尊重されるべきであり、これらの判断を基に行政庁が(行政としての)最終判断を下した際に、その判断に不合理な点があるか否かが争われるべきで、その際の立証責任は(証拠は被告側が殆ど持っているので)被告側にあるとした判決を行っている。つまり、行政側も特殊な専門知識を持ち合わせていないので、当時であれば原子力委員会等、現在であれば原子力規制委員会が技術的な精査を全て行い、その結果の発表を受けて行政が最終判断を判断を行うのであるが、その際の「原子力規制委員会の判断」を受けて「行政の判断」をするまでの間に不合理がある場合には差し止めも止む無しだが、判断は全てこの間の合理性で判断する・・・としている。

ちなみに、民事事件の場合には少々状況は異なり、原告側の主張としては、「行政の話ではないから原子力規制委員会の判断など関係なく、純粋に関西電力が原告側の『人格権』が侵害されていないことを立証すべし」となっている。被告側の主張は当然ながら異なっていて、民事事件であろうが「専門性がなければ判断できないのだから、日本の中でその専門性を持った組織として法的に定められた原子力規制委員会の判断は認められるべき」としている。

これに対して判決では、第41ページ以降で、(行政事件の最高裁判決に従い)「立証責任は被告側が担うべき」だが、多分、民事事件だから原子力規制委員会が下した判断には何ら拘束されず、原子力規制委員会に対して行ったのと同様の反証をこの裁判でも行うことを求めているようである。中では、「(当裁判所が)原子力規制委員会に代わって判断すべきであると考えるものでもない」と言及しており、裁判所が原子力規制委員会並みの判断能力を持ち合わせていないことを暗黙に認めているが、しかし、その他の論点で行っている判断はまさに判断において専門知識が求められる内容ばかりである。言い換えれば、「専門知識がなければ客観的に判断できない事案ではあるが、裁判所なりの主観的な判断で電力会社の主張を解釈し、その妥当性を判断します」と言っているようなものである。

勿論、私は関西電力が原発に向き合う姿勢が謙虚であるとは思っていないし、いい加減にごまかして済まそうとする体質についても糾弾せざるを得ないと考えている。私が原発に対して譲れないと考えている免震重要棟の存在も、高浜原発では免震構造を耐震構造に引き下げて許可が下りている様で、この辺は全て厳しく対処して頂きたいとも思っている。しかし、如何に関西電力の経営層がパッパラパーであっても、原子力規制委員会は取り寄せた客観的な事実から、その原発の安全性を論理的且つ客観的に議論し、定量的な安全性の評価の基で結論を下すという、スペシャリストとしての自負を彼ら(原子力規制委員会)が持っていることだけは私は認めている。多分、その評価は国際機関であるIAEAでも変わらないだろう。

被告側の主張も、まさに民事事件であっても、国内で唯一、その専門性を認定された機関が原子力規制委員会なのだから、その判断結果は尊重されて然るべき・・・と主張したが、裁判長は「それだけでは不十分」として退けた感がある。残りの争点に関しては、まさにその専門性が問われる論点が多いが、明らかに専門性の乏しい裁判官が判断を下してしまった。

池田信夫氏も指摘するように、裁判官がゼロリスクを求めるのは非論理的である。例えば、先の池田氏の記事では下記の様に指摘されている。

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(「『ゼロリスク』を求める裁判官」より抜粋)
このように「よくわからないからリスクはゼロではない」という論理は、何にでも使えそうだ。たとえば
・建物の安全性の挙証責任は建設会社にあり、リスクがゼロでない限り高層ビルは建設してはならない。
・東日本大震災の原因究明は今なお道半ばであり、建築基準法が正しいかどうか不安である。
今の耐震基準で十分かどうか、建設会社の資料ではよくわからない。
・したがって高層ビルのリスクはゼロではないので、建設してはならない。
こういう論理は、他にも使える。たとえば年間11万人死んでいるタバコのリスクは、原発よりはるかに大きいので、タバコも製造禁止だ。旅客機のリスクもゼロではないので、航空会社も運航禁止だ。
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この様に言ったとき、例えば航空機のリスクは航空機を利用する利益の享受者がリスクを負うことになる一方、原発はリスクを負うべき者と利益の享受者が別なのが問題なのだと指摘する人がいる。しかし、最も分かり易い例である「自動車のリスク」は分かり易い。世の中に車が溢れることになった結果、毎年、膨大な数の歩行者が交通事故に巻き込まれるのである。歩行者は自動車の利益を享受している人ではない。しかし、その利益を享受する運転者のトバッチリを受けて死ぬことになる。原発の問題と異なり、確実に、毎年膨大な数の死者を出している。仮に、「歩行者だって、自宅に車もあればバスにだって乗るのだから、自動車の利益を享受しているじゃないか!」と言われるかも知れないが、だったら「原発を含む電気という利益を享受していない人など、日本には一人もいない」という点で同じである。

この裁判官の論理が正しいなら、誰かが「人格権」を主張して「日本国内での自動車の使用の仮差し止め申請」を出したら何が起きるだろう?多分、「自動車の安全性、危険性を示す証拠の大部分は自動車業界が持っているので、自動車の安全性の立証責任は自動車業界側にある。その自動車業界が、例えばテンカンや心臓発作、ないしは泥酔者や麻薬常習者が適切な運転ができずに歩行者を轢き殺す危険性が存在しないことを自動車業界に証明する義務を課し、それが不十分なら自動車の使用仮差し止めも止む無し」という判決になるだろう。少なくとも泥酔者や麻薬常習者の自動車運転の危険性の除去は「譲れない」となるのは間違いない。しかし、何故か「自衛隊に対しては違憲性を問わないが、安保法案だけは違憲性は重要である」のと同様に、「自動車に対しては危険性を問わないが、原発に対しては危険性を無制限に問いまくる」という議論になっている。肝心なのはリスクの大きさと、そのリスクが顕在化する確率の積で、それを最小化するための「リスクの最小化」のための努力に注目を向けるべきである。だから自動車業界は発展し、人々は様々な恩恵を享受できたのである。

さて話を戻せば、私の感触としては、この裁判長は法律の論理構成に従えば、立証責任が原告ではなく被告にあるとの根拠を上述の「行政事件に関する最高裁判決」に求めているのだから、その最高裁判決で認めた原子力規制委員会の判断結果の尊重は当然のこととして認めていると思われる。しかし、それにも拘らず最後の最後で「やっぱ駄目!!!」とちゃぶ台をひっくり返してしまったのではないかと感じた。それは、3.11以降の日本人にありがちな、根拠のない使命感にあるのだと思う。

ここで話を戻して映画「デッドゾーン」の話題に戻らせて頂く。映画では、主人公が未来予知能力を持ってしまったがために、ある政治家が「将来、世界を核戦争に導くボタンを押してしまう」ことに気が付き、この政治家の暗殺を試みるのである。結局、ど素人が慣れない狙撃を試みても上手く行かず、暗殺には失敗するのだが、その政治家が身の安全を守るために取った行動がその政治家の政治生命を立つことになり、主人公の目的は達成される。彼は警官に撃たれて死んでしまうが、未来が当初の予知内容から変わったことを知った後、息を引き取ることになるのである。

この映画を見れば誰しも考えると思うのだが、「自分が主人公だったらどうする?」と考えるはずである。私もそうだが、ほぼ全ての人が「私も暗殺を試みただろう」と感じるはずだ。「それ(地球を滅亡させる)が確かなら、世界平和のために身を挺することは厭わない」との思いから、その様に感じるのである。しかし、ここにはひとつのトリックがある。それは、「それが確かなら・・・」という前提条件が映画の中では担保されているが、現実の世界ではその様なものが担保されることはないという点である。分かりやすく言えば、自分が特殊能力を持っていれば別だが、自分の友人が「俺は特殊能力を持っている。そんな俺が言うんだから確かな話だが、あの政治家を暗殺しないと人類が滅亡する!!」と言われて実行に移す人はそう居ない。それは、本当にそれが「人類のためになるのか?」が確かではないので、言われたままの決断を下すことなどできないのである。今回の裁判にしても、裁判官は本当にそれが「確か」なのかを下す判断能力が欠如しているにも関わらず、それでも何らかの使命感を感じて「人類のために、私が行動するしかない・・・」と感じてしまったのだろう。

しかし、その様な判断がどの様な未来を生むのか、本当は我々は体験しているのである。教祖、麻原彰晃こと松本智津夫が部下に対してサリンの散布を命じたり、坂本弁護士一家を殺害したりしたのは、常識で考えればありえない話なのに、「教祖が言うのだから、貴と正しいに違いない!」と変な勘違いをした信者が「世の中人の為・・・」と暴走したからである。この様な暴走を止めたければ、論理的な思考に基づき、ルールに則って判断を下すしかない。ルールを外れて、「俺が世界を救うんだ!」とかやりだしたら何が起こるか分からない。ISILの連中だってまさにそうである。彼らは「自分一人で世界を変える」とまでは自惚れていないが、「イスラム世界再興のために、私も立ち上がらねば!」ないしは「キリスト教又は西側諸国による世界支配を防ぐために、私も立ち上がらねば!」と考え、その他大勢の一人として勘違いして「世の中人の為・・・」と暴走しているのである。方向性は違うのだが、その根底の思考パターンは今回の裁判長も同様である。

しかし、「本当にそれで良いのか?」と私は問いたい。

オウムやISILの思考パターンから脱するためには、自分が世界を救うなどとうぬぼれたことを考えるのではなく、純粋に論理的な思考とルール(ないしは法律)に従った行動に徹するべきであり、特に裁判官にはそれが求められる。

しかし、何故か3.11以降の日本では、「自分こそが善悪の判断を下すことができ、その判断の基では『論理的な思考もルールも関係ない』」と思う人が増えてしまった。安保法制にしてもしかり。例えば、「安保法制は違憲だが、自衛隊が違憲か否かは全く議論する必要が無い」という考え方の人々がなんと多いことか。「ISILへの対抗のための人道支援も、ISILに狙われないように止めておこう」という発想が、どれほどISILへの援護になっているのか、何故わからないのか・・・。しかし、デッドゾーンの主人公の様な特殊な能力を持った人であれば、その客観的で論理的な正当性の説明は不要で、「ただ、感じるのみ」で自らの行動を正当化するのには十分なのである。

しかし、私はその様な世界にはなって欲しくない。ISILと同様に、それはもはや宗教の世界である。その様なものを認めていると、いつしか隣人が自らに彼らの宗教を強いるような事態に繋がっていく。そうなってからでは遅いのだ。多分、朝日新聞や毎日新聞なども、その様な勘違いで変な使命感に燃えている人が多いのだろう。

状況な中々深刻である。中東問題が宗教問題でもある以上、話し合いで解決する可能性は限りなく低い。勘違いした正義感も、その様な宗教的な色彩が強い。

我々にはただただ、「論理的な思考とルールの順守」をアピールするしか道はない。

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1 コメント

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たしかに! (so-ryan)
2017-02-17 15:03:06
「我が崇高な目的の達成のためには犯罪行為すら必要」という行動原理の方、増えてまますね。まさにデッドゾーン現象。彼らの思考パターンが良くわかりました。
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