けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

全柔連の助成金流用と観音寺の仏像問題

2013-03-15 23:18:53 | 政治
今日は他に色々書きたいことがあるのだが、あまりにも情けなくさっさと済ませたい話を先にしておく。一見関係のない全日本柔道連盟の不正な助成金流用と長崎県対馬市の観音寺の仏像の盗難事件である。

まず、全柔連の助成金に関しては、色々な問題が指摘されているので今更ここで言うまでもない。最初にはっきりさせて頂きたいのは、上納金という形で支給されたお金を巻き上げる制度と、個人口座を利用して使途の管理を行わずズブズブで使う如何にも不正使用の温床となる管理体制、このふたつは明らかにアウト!であり弁解の余地はない。村春樹会長の記者会見では、「問題がないとは言わないが・・・」という表現を用い、問題の深刻さを理解していないように聞こえる。本当ならば「大問題であり、処分を含めて厳正な対処を行う」と宣言すると共に、「しかし、付随的な問題については別途議論して行きたい」と発言すべきであった。斎藤仁全日本強化委員長についても、悪びれた様子もなくお金の使い方を会見で語っていた。気持ちは分かるが、やはり危機感のなさは致命的である。

さて、ここで話が少し変わるが、私は仕事の関係である技術の国際標準作りに関与したことがある。海外で行われる会合に参加しながら、日本(自社)側の目指す規格を採用させるために、海外の企業の関係者と食事をしながら議論を繰り返した。ひとしきりの議論が終わり食事の代金の清算をしようとすると、大抵の外国人は「経費で落とすから・・・」と支払いを引き取ろうとする。この様な場に不慣れな私は割り勘になれば良いと思うのだが、彼らからすれば会社から「正当な業務」と認められて食べる時間を惜しんで議論しているのだから、自分の財布を痛めるのではないので「任せておけ」という。この様な打ち合わせは朝昼晩と頻繁に行われるから、流石にたまには「今回は私が・・・」と言いたくなる。しかし、日本では交際費の扱いが厳格で、とてもではないが行き当たりばったりで臨機応変に行われるディスカッションに対し、その食費までを経費として社内で認めさせるのは大仕事である。というのも、税法上、交際費と認められるのにはそれなりのハードルがあるため、脱税とならないようにそれが不正なお金の支給でないことを「国税局職員に説明するための明確な根拠」を社内の経理関係者が求めるからである。勿論、営業部などで接待などが当たり前の部所であれば裁量権が大きいのだろうが、技術者などで交際費に縁がない人がこの様な場所に立たされると殆ど身動きが取れない。だから、「今回は私が・・・」と言うことは私の場合には自腹を切ることを意味する。しかし、たいした出張手当を貰っている訳でもなく、好きでもない良く分からん会合に参加させられて赤字で損を出して帰るというのは耐え難い。結局、「日本の事情は分かるから気にせんでいいよ」というお言葉に甘えることになる。割り勘であればどんなに気が楽なことか・・・。

この様な悩ましいことは、多分、柔道のナショナルチームともなれば色々なところであるのだろう。だから「それをコーチに自腹を切らせるのかよ!」と当然同情できる部分は大いにあり、世界的な常識に照らして適正な方向への何らかの修正が行われることが望まれる。しかし、ここまで問題が明らかで法律など照らし合わせるルールも存在する以上、ソクラテスの「悪法もまた法なり」の言葉の通り、人情的に同情できる部分があっても現時点では現時点のルールに則って明らかにルールを逸脱した人を処罰することを優先し、(色々人によって意見が分かれるであろう)その人(ないしは組織)がそうせざるを得なかった同情すべき問題にどの様に取り組んでいくべきかは、処罰とは切り離して議論を行うのが筋なのである。後半の議論がまとまらなければ、責任追及の処理すらペンディングするというのは筋が通らない。

この辺の考え方は、論理的な物の考え方ができれば数学と同様にユニークな解に辿り着けるはずである。論理的な物の考え方は法律ないしはルールの上で組み上げられ、法治国家である先進国にとってはその法律ないしはルールを尊重するのが常識中の常識なのである。

そこで、例の観音寺の仏像の盗難事件について考えてみよう。もし仮に、日本で仏像が盗難にあう前に韓国側から「その仏像は韓国で盗難にあったものだから返却を求める」と言い続け、それに対して日本側がそもそもの所有権がどちら側にあるべきかの議論を拒否し続けたと言うのであれば、両者が公平に議論できる環境を構築するために、韓国の裁判所が一時的に仏像の保管を申し出て、仏像が韓国にある状態で議論することはある程度は理解できなくもない。しかし、盗難の前には韓国側から返却の要請などの正式な手続きがなかったことからも、その仏像の所有権がどちらにあるのかを示す証拠をみつけることは常識的に困難である。一方で、この仏像が日本から盗難にあったのは韓国側も認めるところであり、文化財不法輸出入禁止条約を締結している以上は国内法よりも優先されるべき国際的な条約を尊重するならば、数学と同じく答えはユニークに求まるはずである。だから、盗難に対する現状回復(すなわち返却)が最初になされるべき議論であることは明らかである。「元々は韓国側の仏像が盗まれた」と主張するのであれば、その現状復帰という手続きと「韓国への引渡し要請」を切り離して議論すべきなのである。分離した後のもう一方の議論に勝ち目がないからといって、論理的な視点からは答えが明らかなもう一方の議論に待ったをかけるのは極めて乱暴な行為である。

変な例え話をさせてもらえば、中国のある工場が大量の有毒物質を川に垂れ流し、大量の死人が出たとする。被害者側は、川に流れる有毒物質を10種類ほどあげ、これらの有毒物質を工場が垂れ流したから家族が死んだと訴えたとする。この時、死因の主要な原因となる9種類の物質がその工場由来のものだと証明できる一方、残りのひとつが自然界にも微量に存在するために工場の責任割合を厳密に証明できなかったとする。しかし、死因の主要な原因が9種類の有害物質であることが証明できれば、まずは被害者遺族に死亡に対する補償を行うと共に、速やかなる環境保全を行う義務が生じるのは疑いもない。しかし、たったひとつの物質の影響を認定できないことを盾にして、死亡保障と原状回復に難色を示すのは明らかに道を外れている。

どうも世の中には物事を切り分けて議論し、明快な部分からひとつづつ解決して前に進むのが苦手なひとがいるらしい。TPP交渉参加の判断も、これまで切り分けるべき議論を切り分けずにひとまとめにして有耶無耶にしようとしていた人が多くいた。しかし、それでは前向きに前進することはできない。前向きに進むためには、論理的な議論で切り分けるべきことを切り分けて議論することを肝に銘じるべきである。

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