けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

集団的自衛権の突っ込んだ議論の整理

2014-04-29 23:26:54 | 政治
先日からずっと気になっていた点について、自分の頭の中で整理したことを書き残しておきたい。集団的自衛権に関するコメントである。過去にもブログではコメントしているが、その多くは憲法解釈を時の内閣が閣議決定して口火を切ることの是非を中心としており、その背景となる議論の是非についてはそれ程議論していなかった。今日はその後段について議論したい。

まず、昨日のBSフジのPRIME Newsに結の党の江田憲司代表と日本維新の会の松野頼久国会議員団幹事長が出演し、集団的自衛権に関する見解を示していた。以前から江田氏は、現在想定される危機的な状況の殆どは、個別的自衛権の拡張で乗り切れるとしており、この点については昨日も同様の発言をしていた。この背景はご存じの通り、第1次安倍政権時代に集団的自衛権に関する検討のための諮問機関「安保法制懇」を設置し、ここで有識者に典型的な4類型である(1)公海上の米艦防護、(2)米国向けの可能性のあるミサイルの迎撃、(3)PKOなどで他国軍が攻撃されたときの駆け付け警護、(4)海外での後方支援活動の拡大について、その是非の検討を指示していたのだが、特に(1)(2)などは個別的自衛権の拡大解釈で十分という意見である。(3)(4)は多少意見が分かれるところかも知れないが、喫緊の課題は(1)(2)であり、ここで意見が分かれると致命傷になりかねない。集団的自衛権に容認的な日本維新の会と消極的な結の党では、この点で決定的な違いがあり、とてもではないが合流とはならないだろうとのキャスターからの質問に、江田氏は(少なくとも4類型の(1)(2)において)結論としては米軍の防御、ミサイルの撃墜は可能という点で共通であり、これは自民党と公明党の両者の関係に近いから問題ないと回答していた。つまり、何故許されるのかの根拠は別々でも、議論の結果は同じだから問題などなく、その意見の隔たりは「自民党と公明党の関係(ないしは自民党内のタカ派とハト派の関係)」よりは「結の党と日本維新の会の関係」の方がましという主張であった。何となく納得させられそうになるが、しかしどうもスッキリしない。江田氏らしからぬ、論理の詰めの粗さを感じる部分である。

さて、ここで比較に上げられた公明党はどうだろう。確か先月だったと思うが、公明党の山口代表がBS朝日の激論クロスファイヤに出演した際にも、江田氏と類似の様なことを言っていたと思う。ただ、その時の重要な注意点として次のような点を指摘していた。それは、例えば(1)のアメリカの艦船への攻撃に関して言えば、仮に北朝鮮で有事があり、日本海に展開中の日本の自衛隊の艦船の近くにアメリカの艦船がおり、北朝鮮などからのアメリカの艦船に攻撃があったとする。この時のアメリカ艦船の防御、敵国への反撃のいずれにおいても、これが個別的自衛権であろうが集団的自衛権であろうが、反撃のための必要条件として、アメリカの艦船が「何故その場所にいるのか」の理由として、「日本の防衛のため」に日本海に展開していることが前提となることを指摘していた。この場合、アメリカ軍に対する攻撃は日本の防衛に対する攻撃だから、わざわざ集団的自衛権の論理を借りるまでもなく、憲法でも確実に保証されている個別的自衛権の範疇で、十分にアメリカ艦船の防御・反撃を行っても構わないことになる。しかし、これが韓国軍への援軍としてアメリカ軍が日本海に展開し、自衛隊も日本へのミサイル発射などの不測の事態に備えて周辺に展開していたとすれば、アメリカ軍への攻撃は全く日本に対する自衛権に対する挑戦には当たらない。集団的自衛権を主張する際には、あまりマスコミなどはこの辺の事情について全くケアしておらず、集団的自衛権とは「無条件にアメリカ軍が攻撃されたら自衛隊が反撃する」ことを意図する様なミスリードを狙ったかの様な論調が多い。

しかし、集団的自衛権を論じている人たちは多分、この様な重要な差分を当然のことのように前提としているはずである。広義の集団的自衛権ではなく、その集団的自衛権は常識的な狭義の集団的自衛権として、無節操にアメリカの戦争に日本が巻き込まれる状況を想定してないはずである。その線引きは比較的明確で、日本の防衛に資するために存在することが前提となる。ただ、これで誰もが納得するかと言えばそんなはずはなく、米軍の軍事行動の目的が100%日本の防衛目的であるというケースなど限定的であるのは間違いない。そのパーセンテージが幾つならOKで幾つだとNGなどと仮に決めても、そのパーセンテージを米軍が公開して行動するなどあり得ないから、結局はグレーゾーンとなるのが支配的であろう。だから、個別的自衛権の拡大で乗り切ろうという人は、この辺の論理武装が必要となる。逆に集団的自衛権を容認すれば、日本の防衛的な要素が0%でなければ必要に応じて軍事行動が可能になる。つまり、少々言い方を変えれば、「ネガティブリスト」と「ポジティブリスト」のどちらで行動を規定するかに近い。「これだけはやってはいけない」という制限をかけ、それ以外は基本的に許容可能だとする「ネガティブリスト」に対し、「ポジティブリスト」は「これだけしかやってはいけない」という内容を限定するものである。安全保障に関する世界標準は「ネガティブリスト」であり、「ポジティブリスト」を前提とする日本では腐るほどの特別措置法などの法令でポジティブ事項を規定することになる。しかし、どんぴしゃの事態を先回りして法整備するなど無理だから、緊急事態で十分な対応が取れる訳がない。その様な緊迫した状況に自衛隊員を追い込んでいる現実をもっと知らしめるべきである。

ただ、ここまでの議論は外堀からの議論であり、どうしても個別的自衛権の拡張ではなく集団的自衛権の容認が必要であること、そしてそれが許されて然るべきことを明確にしてもらわないと歯止めという意味では安心できない。その辺についての論理武装的なものを調べてみた。その結果、下記のサイトを見つけた。

【現代ビジネス・ニュースの深層】
高橋洋一2014年4月28日「韓国やフィリピンの憲法にも戦争放棄の規定がある!各国憲法との比較から『集団的自衛権』を考える

少し私なりの解釈が加わっているので、正確には上記のサイトを確認して頂きたいが概ね下記の様に理解した。ここではまず最初に、国連憲章を根拠とする集団的自衛権の背景を説明し、基本は国連安保理による必要措置による平和解決があるとしながらも、そこに至るまでの過程の緊急事態措置として個別的自衛権、集団的自衛権が認められるとし、ここでの考え方は個人における正当防衛を国家に拡張したものと説明している。正当防衛では別に「自分に危害が加えられる場合」に加えて「他人に対して危害が加えられる場合」でも、急迫不正の侵害であれば限度内で防衛をすることが許される。これと同様の解釈を集団的自衛権では容認するのであるが、個別的自衛権の場合には云わば「自分に危害が加えられる場合」に限定することを意味する。前出の江田氏は、「隣の米軍の艦船が攻撃されれば日本への攻撃だと同じだ」という主張をするが、これは正確には「日本が攻撃されたと『みなす』」ことで成立する話で、この「みなし」に攻撃した側が同意するとは限らない。正確には別に相手に同意してもらう必要はないが、その攻撃が「みなし」によりどの様な意味を持つかを事前に相手(世界)に宣言しておくことは意味を持つ。言ってみれば、集団的自衛権は「私は『みなし』派ですよ!」という宣言をするのに近いのだと思う。なお、高橋氏は残りのページで面白い情報を提供している。戦争放棄は日本国憲法の専売特許だと思っていたが、韓国やフィリピン、欧州にも同様な戦争放棄の憲法が存在し、その様な憲法と共存する形で各国は軍隊や集団的自衛権を容認しているのだという。「外国が良ければ、日本も良いのか!」というツッコミがあるので、この論点はあくまでおまけの議論だろう。

次に、下記のふたつのサイトもこの辺の理解に役立つ。

【現代ビジネス・ニュースの深層】
長谷川幸洋2014年4月11日「他国への攻撃を日本への攻撃と"みなし"て反撃するための根拠が『集団的自衛権』であるべき理由
長谷川幸洋2014年4月18日「『集団的自衛権』の議論が混乱する原因はいったいどこにあるのか

前者はまさの、その上の高橋氏のご指摘そのもの(記事としては長谷川氏の指摘の方が先であるが)であり、NATOの北大西洋条約の根底にある。また、後者では集団的自衛権に対する「権利は保持するが行使しない」という政府の立場が、非常にクリアーな論理の上に築かれたというよりも、手探りの中で捻り出されたものであることを紹介している。しかし、マスコミはこの点の吟味をすることなく「正しいもの」として決めつけており、長谷川氏はあまりの短絡的な行動に警鐘を鳴らしている。そして圧巻は、自民党の高村副総裁と公明党の山口代表との「砂川事件判決」に関する論争に、明確な回答を示した点である。高村副総裁は「砂川事件判決は集団的自衛権を否定していない」として、だから政府による憲法解釈の変更は司法判断と矛盾しないとの主張である。一方の山口代表は「判決は集団的自衛権を視野に入れていない」から、それを根拠に司法判断と矛盾しないというのはおかしいとの主張である。しかし、長谷川氏のご指摘では、判決文の中に下記の記述があるのだという。

「(日米)安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。」

ここでは明確に、「国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き・・・」とあり、日米安保の合憲性の判断において、国連憲章の集団的自衛権を考慮していることを明記している。さらに言えば、さらに下記の様に判決では明言されている。

「本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。」

つまり、最初の記述にあるように、国連憲章で認められる集団的自衛権の視点から日べ安保を「違憲」と見なさない様に、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り」との条件のもとで「条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断」は司法からの判断から独立であり、結局は主権を有する国民の承認を得た国会の政治判断を尊重するとしている。多分、これが全てなのだと思う。非常に胸にストンと落ちる解説である。
なお、最後に1点付け加えるならば、内閣ないしは国会による憲法解釈の変更の是非について、それが憲法の違憲判決とどの様な整合性があるのかという問題提起をさせて頂く。例えば、昨年のことであるが非嫡出子の法定相続分規定に関し最高裁判所大法廷は、「民法900条4号ただし書前段は、嫡出でない子の法定相続分を嫡出子の2分の1とする規定」を法の下の平等を定めた憲法14条1項に照らして違憲判決を下した。しかし、これと同様の違憲判断は平成7年の非嫡出子法定相続差別事件の判決で、「民法九〇〇条四号ただし書前段は、憲法一四条一項に違反しない。」としている。昨年の判決では、「民法900条4号ただし書前段の規定は,遅くとも平成13年7月当時において,憲法14条1項に違反していた。」としており、最高裁判所が急にある時、憲法判断を変えたことが明らかになっている。しかし、専門家ではないので間違っているかも知れないが、この判断の変更は憲法よりも上位の国際法や国際条約からの要請ではなく、あくまでも法学的な学術的な論議の進展の結果であると予想され、つまり、法律(憲法)は変わらないのに解釈が変わるのにはそれなりの妥当性が認められ、国権における司法の最高権限をもつ最高裁がそれにお墨付きを与えたのであれば、集団的自衛権の解釈が時代と共に変わることを否定する根拠を私は見出すことが出来ない。つまり、最高裁が日米安保を国民の判断に委ねたように、集団的自衛権の憲法解釈に関しても、その解釈が時代と共に変更し得ることを最高裁が国民(国会)の判断に委ねているのには、それなりの判例的な裏付けが充分にあるのだと思う。

かっての内閣法制局長官が偉そうなことを言っているのは良いが、それは最高裁の判断の勝手な思い込みによる断定でしかなく、あまり根拠がないと感じる所以である。

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