けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

「世の中を上手く回す」ための経験則は何処に・・・

2014-04-18 23:58:28 | 政治
基本的に不毛な議論なのだが、少々対照的な事件があったので敢えてコメントしてみたい。まず、話の入り口は下記の記事である。

産経新聞2014年4月18日「【ネットろんだん】担任の入学式欠席 問われた『教師は聖職者か労働者か』

ご存じの通り、今月の8日に埼玉県立高校の新高校1年の担任となる女性教諭が、長男の高校の入学式に出席するために自分が勤務する高校の入学式を欠席したという話題である。どうもネット上では、この女性教諭を擁護する声の方が若干優勢なのだが、概ね意見は拮抗しているらしい。ここでの論点は単純だ。記事のタイトルにもあるように、学校の教師というのは「聖職者」なのか、それとも「労働者」なのかということである。この「聖職者」という表現は少々強烈で、何事も自分のことを全て捨てて、教育のために身を捧げる「殉教者」的なイメージがあるのだが、ここで入学式を欠席した教師を責める人達も、別にそこまで極端な「聖職者」であることを求めている訳ではない。基本的に、今回の件でで怒っている側は分類上は「聖職者派」の人達であるが、それは「聖職者であるべき」とまで強く言っているのではなく、単に「教師として、ここまでは我慢すべき」というボーダーラインを引いたとき、それが「他の普通の労働者と全く同様の権利主張が許される訳ではないだろう!」という主張からくるものである。

で、私がここで言いたいことは、そのどちらが正しいとか、この問題に限定して論点を整理したいということではない。こんなくだらない対立は、単に両者の価値観の違いに起因する訳で、言ってみれば異なる宗教の人達の宗教対立と同様で、何処まで行っても交わることはない。議論するだけ不毛な感じの話題である。敢えて一言だけ言わせて頂ければ、日教組の教師連中は、教師もひとりの「労働者」でしかなく、当然のことながら労働者としての権利を思いっきり主張できて然るべきと考えているのであるが、世の中の「権利」を主張する人は自らに課せられる「義務」をないがしろにする傾向がある。私の経験則として、「権利」を主張する度合いと「義務」を全うする度合いは反比例関係にあり、人よりも「権利」を2倍主張する人は、自分に課せられる「義務」は他の人の半分だと思い込んでいるケースが多い。「義務を放棄すること」も「権利の一部」と考えれば当然の帰結かも知れない。まあ、世の中とはそんなものである。

ただ、これはまだ「教育の世界」だから通用する話である。多くの人の同情を教師は勝ち得ているが、その様な同情を勝ち得ていない人も世の中にはいる。例えば、韓国の旅客船沈没事故での沈没した船の乗務員である。

実は、結構早い段階で死亡が確認された被害者の中に、乗務員の若い女性が含まれている。この乗務員は、沈没し行く船から脱出を試みる乗客に、救命胴衣を配ることをしていて溺死したのである。自らは泳げないにも関わらず、自分が救命胴衣を身に着けることよりも乗客に救命胴衣を配ることを優先して亡くなってしまった。一方で、船長をはじめとする乗務員の多くは早期に脱出し、無事に救護されるに至った。乗客の安全な避難誘導は乗務員の責務であるが、(実際の彼らは我先にと脱出を試みた、その倫理観のなさは責められて然るべきだが)これ以上残ったら自らも死んでしまうというギリギリまで避難誘導にあたっていて、その後に脱出したとすれば、乗客の多くに死者が出たとしてそれは責められて然るべきなのだろうか?単なるひとりの労働者と考えれば、別に労働契約の中で「『命まで売ります』とは約束してない!」と言い張る権利は認められても良さそうだ。しかし、その「(生死を分ける)ギリギリの線」なるものが明確ではないから、今回の乗務員も自分なりには「ギリギリの線までは努力したつもり」であるかも知れない。しかし、そんなことを韓国のマスコミは許してくれそうな雰囲気にはない。当然ではあるが、日本のマスコミも同じであろう。

では、そのギャップは何処から来るものなのか?9.11のWTCビルの崩壊現場で犠牲になった多くの警察、消防関係者は、多分、このまま行ったら「自分は死んでしまうかも知れない」と確信しながらも、それでも覚悟を決めて救助活動に当たっていたのだろう。命を捨てるまでの義務などはないのだが、その義務が何であるかを強く意識し、その義務以上のものを果たそうとして彼らは犠牲になったのである。彼らには生き延びる権利はあったはずだが、その権利を行使しなかったのである。これはもはや理屈ではない。世の中が上手く回るためには、仮に権利を有していてもその権利を敢えて行使せず、求められる義務以上の義務を自ら進んで果たそうとする人がいるから、結果的に世の中は上手く回るのである。それは教師でも警官でも消防士でも医者でも政治家でも何でも同じである。そして、彼ら(彼女ら)のその献身的な努力に周りの者が感謝の気持ちを持つことで、さらに世の中は上手く回るのである。この、世の中を上手く回そうという心掛けがあれば、世界はそう変な方向には流れては行かない。そのためには、「権利」と「義務」というセットで不可分の問題に対し、利己的に敢えて分離して考えようとする人達に、「それは褒められたことではない」「権利と義務は分離不可分だ」と諭してやるのが第一歩なのだと思う。つまり、(何処かの国の憲法の問題に似ているのだが)「権利は有しているが、(相対立する義務の視点から)敢えて権利を行使しない」という考え方が存在することがもっと語られても良いはずである。(ちなみに、集団的自衛権という権利を行使してはいけないという人ほど、教師はもっと権利を主張すべきだと考える傾向があるのではないかとも予想している。)

しかし、今回の様な海難事故があると船舶の乗務員には当然のこととして「(仮に死ぬことになっても、今回亡くなった女性乗務員の様に)命がけで最後まで避難誘導して当たり前」であると求めるのに、教師などに対しては非常に寛大であるというところが短絡的で興味深い。私の感覚では、人の人生に大きな影響力を与えうる立場の人、例えば日常的には教師、医師、政治家、警官、消防士など、緊急事態であれば公共交通機関の乗務員やホテルやデパートの従業員などは、その人生に大きな影響力を与えうる事実を踏まえて、一般の労働者とは異なる義務の拡大解釈と権利の抑制的な主張が求められて然るべきだと思う。(海難事故の様な非常事態ではなく)平和の最中に想像力を働かせることが出来ず、「別にどっちだっていいんじゃない?」と投げやりな同情をするのは非常に無責任な感覚だと感じている。もし、それがなかったならば「世の中が上手く回らない」覚悟を持たなければいけないが、その様な覚悟も持ち合わせていないのであろうから・・・。

繰り返すが、これは裁判で争う様な「権利」の解釈の問題ではない。敢えて「世の中を上手く回す」ための経験則を語っているに過ぎない。何故なら、裁判では「世の中が上手く回らない」ことと「権利」は全く別物として扱われるのだから。もはや、そこには理屈などはない。あくまでも経験則なのである。

なお、これがあくまでも「世の中を上手く回す」ための経験則であると理解するならば、その経験則はもっと工夫されて然るべきである。例えば、女性教諭が小学1年生の母親であり、子供の入学式に出席したいとの希望があれば、その様な教諭は少なくとも小学校であろうが中学校であろうが高校であろうが、新入生(1年生)の担任でさえなく他の学年の担任(ないしは副担任や主担任ではないポジション)であれば、殆どの人は異論をはさまないと思う。問題は今回の様な高校1年生の母親が子供の入学式に出席するところまで考慮してやるべきかであるが、これは他の一般企業でも同じであろう。転勤などある程度は家庭への影響を覚悟の上で受け入れる人と、家庭のためにはあらゆる犠牲を許容できないという人がいても悪くはない。個人の判断は尊重されても良い。しかし、当然、昇進や給料にそれが反映されても誰も文句は言わない。世の中、その様なものである。教師に対しても、同様の判断があってもおかしくはない。その辺は、校長(教頭)が上手く調整し、世の中を上手く回せば良いだけである。今回のケースでは、その調整能力に問題があったのかも知れない。その場合には、責められるべきは入学式を欠席した女性教諭ではなく校長(教頭)側であろう。その辺の事情は漏れ伝わってこないので、現時点では一概に判断できない。情報が足りな過ぎるというところである。つまり、本来あるべき議論の姿は、「個人的な犠牲を許容するかしないかを選択する自由度を持たせることと、その選択の結果が人事評価などに反映される管理者の調整権のバランスのとり方」なのだと思うのだが、どうもそういう議論にはならないようだ。

なお最後に、折角なので韓国の旅客船沈没事故のニュースを見ていて「流石、韓国の本領発揮」と思わず見入ってしまった点があるのでコメントしておく。私が驚いたのは、沈没した船の船長をマスコミの集まる場所に放り込んで、このタイミングで既に「吊し上げ」をしているところである。政府などによる救助活動の対応の遅さは被害者家族にとって耐えがたいものがあるが、(情報公開要求などではなく、単なる鬱憤をぶつけるだけの)加害者側の「吊し上げ」は指し当たって現時点では被害者家族にとっては重要ではないはずだ。そんなことは、後から裁判で行えばよい。このようなあり様を見ていると、この人達(韓国のマスコミ)は単に「感情をぶつけて楽しみたい」、「欲求不満を発散したい」だけなのだろうと思った。マスコミがマッチポンプだというのは韓国の悲劇である。同様に、日本のマスコミもマッチポンプにならない様に自制をして頂きたい。

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