野中婉女宅址碑 に関する記事
高知市歴史散歩:女医・お婉(えん)さん土佐史研究家 広谷喜十郎
土佐藩家老の野中兼山は、晩年に追放され、寛文3(1663)年12月に急逝した。翌年、野中家は罪人扱いとなり、家禄・屋敷を没収されて、遺族は幡多郡宿毛の地に幽閉された。
兼山の娘婉女は、兄弟が次々に死亡して野中家の男子がすべて途絶えるまで、40年間も幽閉生活を続けねばならなかった。赦免後、婉女は土佐郡朝倉村に住み、医を業としながら、少しばかりの扶持(ふち)を受けて細々とした生活を続けていた。
婉女が女医として評判を呼んだとの話は「おえんさまの糸脈」がよく紹介されている。これは、患者の手首に糸を巻いて障子の穴に通し、その端を握って診断するという方法で、その診察によって調合した薬で病気がよく治ったので、世間の評判になったといわれている。
婉女が診察するのはほとんどが庶民で、役人などは拒絶していた。生活困窮者には無料で診察していた心優しい人でもあった。
高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、野中婉女宅址碑を訪ねました
さがす! 高知ファンクラブへ サイトマップ
高知市歴史散歩:女医・お婉(えん)さん土佐史研究家 広谷喜十郎
土佐藩家老の野中兼山は、晩年に追放され、寛文3(1663)年12月に急逝した。翌年、野中家は罪人扱いとなり、家禄・屋敷を没収されて、遺族は幡多郡宿毛の地に幽閉された。
兼山の娘婉女は、兄弟が次々に死亡して野中家の男子がすべて途絶えるまで、40年間も幽閉生活を続けねばならなかった。赦免後、婉女は土佐郡朝倉村に住み、医を業としながら、少しばかりの扶持(ふち)を受けて細々とした生活を続けていた。
婉女が女医として評判を呼んだとの話は「おえんさまの糸脈」がよく紹介されている。これは、患者の手首に糸を巻いて障子の穴に通し、その端を握って診断するという方法で、その診察によって調合した薬で病気がよく治ったので、世間の評判になったといわれている。
婉女が診察するのはほとんどが庶民で、役人などは拒絶していた。生活困窮者には無料で診察していた心優しい人でもあった。
高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、野中婉女宅址碑を訪ねました
さがす! 高知ファンクラブへ サイトマップ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます