井上 清 (いのうえ きよし、1913年12月19日 - 2001年11月23日)は日本の歴史学者。京都大学名誉教授。日本史専攻。明治維新や軍国主義、尖閣諸島、元号、問題に関する著作がある。
来歴
高知県出身。東京帝国大学文学部国史学科を出て、羽仁五郎の指導を受けた。戦時中は文部省の維新史や帝室学士院史の編集に嘱託として携わる。
戦後は在野で、歴史学研究会などで講座派マルクス主義の立場からの日本近代史研究の第一人者として活躍、『天皇制の歴史』で天皇制を批判した。戦後は貝塚茂樹の仲介で京都大学人文科学研究所に勤務。1954年に助教授、1961年に教授、1977年に退職。
解放運動と問題の研究に従事した。1954年には従来使われていた「特殊」「未解放」の語に代わって「被差別」の語を考案し、自らの論文の副題(『改造』1954年10月号掲載「83年目の解放令─被差別の物語」)に使用している[1]。問題研究所理事として運営にも関わる一方で、解放同盟全国大会の運動方針起草を手がけた事もあった。1960年代後半に発生した、解放同盟京都府連分裂に端を発する文化厚生会館事件に対しては、当初問題研究所理事の立場から朝田善之助ら解放同盟主流に対し批判的立場をとり、日本共産党が支援する三木一平らと行動をともにした。
中華人民共和国における文化大革命や全学共闘会議の活動を支持し、この立場から日本共産党を批判したため、1967年に日本共産党を除名された。1967年に羽田事件で死亡した京大の中核派活動家山崎博昭の追悼集会においては追悼文を読み上げている。1968年に大塚有章が創立した毛沢東思想学院の講師としても、精力的に活動した。
日本共産党を除名されたのち解放同盟との関係が改善し、1969年の矢田事件以降は、問題、尖閣諸島問題等で共産党の姿勢を厳しく批判した。
1997年中国社会科学院から名誉博士号を授与された。
名誉教授就任後はピースボートの活動に積極的に参加していた。孫娘もピースボートのボランティアとして活動していた。
晩年はしんぶん赤旗に掲載される共産党支持者リストに名を連ねていた。
2001年11月23日死去。
『井上清史論集』(岩波現代文庫 2003-04年)
「明治維新」ISBN 4006001118
「自由民権」ISBN 4006001134
「日本の軍国主義」ISBN 4006001134
「天皇の戦争責任」ISBN 9784006001148
来歴
高知県出身。東京帝国大学文学部国史学科を出て、羽仁五郎の指導を受けた。戦時中は文部省の維新史や帝室学士院史の編集に嘱託として携わる。
戦後は在野で、歴史学研究会などで講座派マルクス主義の立場からの日本近代史研究の第一人者として活躍、『天皇制の歴史』で天皇制を批判した。戦後は貝塚茂樹の仲介で京都大学人文科学研究所に勤務。1954年に助教授、1961年に教授、1977年に退職。
解放運動と問題の研究に従事した。1954年には従来使われていた「特殊」「未解放」の語に代わって「被差別」の語を考案し、自らの論文の副題(『改造』1954年10月号掲載「83年目の解放令─被差別の物語」)に使用している[1]。問題研究所理事として運営にも関わる一方で、解放同盟全国大会の運動方針起草を手がけた事もあった。1960年代後半に発生した、解放同盟京都府連分裂に端を発する文化厚生会館事件に対しては、当初問題研究所理事の立場から朝田善之助ら解放同盟主流に対し批判的立場をとり、日本共産党が支援する三木一平らと行動をともにした。
中華人民共和国における文化大革命や全学共闘会議の活動を支持し、この立場から日本共産党を批判したため、1967年に日本共産党を除名された。1967年に羽田事件で死亡した京大の中核派活動家山崎博昭の追悼集会においては追悼文を読み上げている。1968年に大塚有章が創立した毛沢東思想学院の講師としても、精力的に活動した。
日本共産党を除名されたのち解放同盟との関係が改善し、1969年の矢田事件以降は、問題、尖閣諸島問題等で共産党の姿勢を厳しく批判した。
1997年中国社会科学院から名誉博士号を授与された。
名誉教授就任後はピースボートの活動に積極的に参加していた。孫娘もピースボートのボランティアとして活動していた。
晩年はしんぶん赤旗に掲載される共産党支持者リストに名を連ねていた。
2001年11月23日死去。
『井上清史論集』(岩波現代文庫 2003-04年)
「明治維新」ISBN 4006001118
「自由民権」ISBN 4006001134
「日本の軍国主義」ISBN 4006001134
「天皇の戦争責任」ISBN 9784006001148