一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

降籏康男

2019年06月28日 | 社会
長野県松本深志高等学校、東京大学文学部フランス文学科卒業後、1957年東映入社[1][2]。1978年に東映を退社しフリーとなり、1999年、『鉄道員』で日本アカデミー賞監督賞・脚本賞を受賞。2002年に紫綬褒章、2008年には旭日小綬章を受章した[1]。80歳を過ぎてからもメガホンを執った監督として知られた。
『追憶』撮影終了後の2016年にパーキンソン病を発症し、療養生活に入る[1][2]。2019年5月20日9時44分、肺炎のため東京都内で死去[1][2][3][4]。84歳没。
人物
降旗とのコンビで「夜叉」「鉄道員」など数々の作品を作り上げた高倉健は、寡黙で撮影現場ではほとんど声を張り上げて指示を出さない降旗に対し、コンビを組むことの多いカメラマンの木村大作が大変なおしゃべりで現場を仕切るため、初めて呼ばれる役者は木村が監督だと勘違いすることもしばしばあると、自身のエッセイ「あなたに褒められたくて」でユーモラスに紹介していた。一見すると頼りないようにも思えるが、木村のような個性の強いカメラマンに撮影された作品でも、必ず降旗の個性の出た降旗作品に仕上がる。と語っている。
1978年には、東映の吉川進プロデューサーから「『スパイダーマン』の監督をやってみないか?」と声をかけられたことがあり、しばらく後になって「いつになったら俺に『スパイダーマン』を監督させてくれるんだ」と意外な返答をしたこともあったという[5]。
日本共産党の支持者としても知られていた。