一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

Adolf Otto Eichmann、1906年3月19日 - 1962年6月1日

2013年09月30日 | 世界史

アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann、1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐(SS-Obersturmbannführer)。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。 戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された。

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A・ネグリとM・ハート『Empire』

2013年09月30日 | 哲学

A・ネグリとM・ハートによる『Empire』の日本語版がようやく発売された。あまりの厚さに驚くかもしれないが、いざ読んでみると実に分かりやすいことにすぐ気づくだろう。

   本書は12年前の湾岸戦争の衝撃から生まれた。それに次ぐユーゴスラビアでの戦争、世界新秩序、そしてグローバリゼーションとその直接の帰結である国内のさまざまな改革について、それぞれ個々の議論はありながらも、ではつまるところ世界はどうなっているのかということについてははっきりした議論はなかった。とりわけ現状に対して批判的に接しようとする者にとって、決定的な理論が出ないことに対して大いに不満だっただろう。

   本書は、そういった不満を一掃させてくれる、すぐれて総合的な世界の見方を大胆に示した書物だ。著者たちは本来の彼らのスタイルである難解な文体を捨て、平明な語りに終始している。まず読みとるべきは、ポストコロニアル理論、カルチュラルスタディーズ、H・アーレント、マルクス、ドゥルーズ、スピノザ等々、今まで別々に語られてきた批判理論のほとんどすべてが検討され、個々の理論がお互いどう結びつくのかといった、われわれの疑問に彼らはみごとに答えている点だ。しかも単に図式を描くだけでなく、「内在平面」とかバイオ・ポリティックスなどのキーワードを駆使して、世界の変化がわれわれ個々人の内面といかに密接に関連しあうのかを示していることも、本書の類まれな特徴の1つだ。単なる教養の域を超えて、日常の葛藤から世界認識までを描いているのだ。

   この書に対して、アメリカの位置づけをめぐって批判が世界から噴出した。また頻出する「マルチチュード」という言葉に対して、具体的に何を指すのかについても曖昧(あいまい)だという弱点はある。しかし、ともかく彼らは強力な図式を提示し、われわれを豊穣な論争の世界へ誘っている。現実が見えなくなったとぼやく前に、ぜひとも読まれるべき本だろう。(池上善彦)

本書の執筆は現在のイラク戦争の前哨戦である湾岸戦争とともに開始された。湾岸戦争が開始されたのは、ソビエト連邦の崩壊と時を同じくし、世界の二極構造が終焉した時でもある。そして2001年の「9.11同時多発テロ」に至るまでのこの10年間は、グローバリゼイションの嵐が吹きまくり、世界は急激な変化を遂げた。本書は、<帝国>というキーワードで、この世界的な変革を壮大なスケールで解き明かす試みであり、かつ21世紀の性格を予言する、貴重な文献である。
Teikoku
ネグリ,アントニオ
1933年生まれ。現在、仮釈放の状態に置かれており、大学等の機関に属さずに研究/著述をつづけている。元パドヴァ大学政治社会科学研究所教授。60年代にイタリアの非共産党系左派の労働運動の潮流(オペライスモ「労働者主義」)の理論的指導者として頭角を現わし、70年代にはアウトノミア運動の中心人物となる。しかし79年、運動に対する弾圧が高まるなか、テロリストという嫌疑をかけられ逮捕・投獄される。その後、81年に獄中で執筆された画期的なスピノザ論『野生のアノマリー』を出版、83年にフランスに亡命。以後14年間にわたりパリ第8大学などで研究・教育活動に携わったのち、97年7月、イタリアに帰国し、ローマ郊外のレビッビア監獄に収監される

ハート,マイケル
1960年生まれ。現在、デューク大学助教授(比較文学)。ワシントン大学で比較文学を修めたのち、パリ第8大学で当時フランスに亡命中のアントニオ・ネグリに師事。ネグリのスピノザ論『野生のアノマリー』を英訳(1991年)。単著として『ドゥルーズの哲学』(田代真他訳、法政大学出版局、1996年)があり、目下、パゾリーニ論を準備中

水嶋一憲
1960年生まれ。1984年京都大学卒、京都大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。現在、大阪産業大学経済学部助教授

酒井隆史
1965年生まれ。1990年早稲田大学卒業、早稲田大学大学院文学研究科満期退学。現在、大阪女子大学専任講師

浜邦彦
1968年生まれ。1994年東京外国語大学卒、東京大学大学院総合文化研究科博士課程(地域文化研究)。現在、東京外国語大学非常勤講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

『全体主義の起源』(The Origins of Totalitarianism)

2013年09月29日 | 哲学

『全体主義の起源』(The Origins of Totalitarianism)とはハンナ・アーレントによる政治学の著作である。

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アーレントは1906年にドイツのハノーファーで生まれた政治学者である。1933年にナチ党が政権を掌握してからフランス亡命して政治活動に関わるが、1941年にフランス進攻があるとアメリカへ亡命して大学での教育に従事する。この著作では19世紀から20世紀にかけてイタリアやドイツで出現した全体主義についての論考が行われている。この著作は1951年に発表された研究であり、第1部の『反ユダヤ主義』、第2部の『帝国主義』、そして第3部の『全体主義』の三部から構成されている。

19世紀のヨーロッパの政治秩序を構成していたのは絶対主義の王政に基づいた国民国家であった。国民国家は文化的同一性に立脚して統一的集団として確立された。この国民の枠組みとは別に成り立っていたのが階級社会である。つまり富裕層や貧困層などの諸階級から成り立っている階級社会であり、これは国民を文化的に同一だとした国民国家と本質的には矛盾するものである。当時のヨーロッパの政治秩序においてはこの国民国家と階級社会の衝突は見られることはなかったが、その中でユダヤ人は階級社会から隔絶されており、また平等な国民の一員として国家に保護されていた集団であった。そのために国家に対する不平不満が生じるとその矛先がユダヤ人に向けられるようになる。これが全体主義に向かう前段階であった。アーレントは『反ユダヤ主義』が表面化した事例としてドレフュス事件に言及している。

国民国家の体制に次第に大きな影響力を及ぼすようになったのが資本主義であり、資本家は政治への介入を積極的に行うようになる。資本主義人種主義、そして官僚制の混合として帝国主義が出現する。帝国主義は資本主義の原理によって資本の輸出を推進しながら行政によって権力の輸出をも推進する。この帝国主義の膨張活動にとって国民国家は支障となり、階級社会から脱落した人々であるモッブが移民となって植民地化に乗り出していった。加えて人種主義は国民とは異なる外見的な差異を持つ集団を自覚させることで植民地の支配を正当化し、また官僚制は植民地の支配に適当な政令を発令することで、帝国主義の特徴である半永久的な膨張政策を進展させた。イギリスやフランスは植民地を海外に求める海外帝国主義が可能であったが、ドイツやロシアはその海外展開に遅れたために欧州大陸内方面に植民地を求める大陸帝国主義を余儀なくされた。海外への膨張を遮られた大陸帝国主義は、次第に国民国家により構成された政治秩序を超えた汎民族運動と連携しながら、人種主義(種族的ナショナリズム)の性格を強めることになる。

20世紀においては国民国家とそれに伴う階級社会が転換することになり、少数民族人権問題の出現、大衆社会の成立が認められる。国内政治において政党が代表していた階級社会が消失したために、政党によっても代表されない孤立化した大衆が表面化したのである。ソ連について言えば、スターリン農業集団化と有産階級の撲滅により個々を孤立無援にすることで、大衆社会を成立させたとする。この大衆は自らの政治的発言を階級政党とは別の政治勢力として集約しようと試み、プロパガンダを活用する全体主義運動を支持することになった。全体主義は大衆の支持を維持するために、また全体主義が体制として機能するためにはテロルイデオロギーが重要である。テロルは法の支配によって確立されていた自由の領域を排除し、イデオロギーは一定の運動へと強制することで全体主義を制度化した。全体主義体制が問題であるのは、「個人性をまったく殲滅するようなシステムをつくること」にある。


エンマコオロギ

2013年09月29日 | まちあるき

http://www.nat-museum.sanda.hyogo.jp/wave/wav_file/CO001.MP3

エンマコオロギ(閻魔蟋蟀)Teleogryllus emma は、バッタ目(直翅目)・コオロギ上科コオロギ科に分類されるコオロギの一種。日本本土に生息するコオロギ最大種。

最も身近な昆虫の一つである。日本で「コオロギ」と言えば本種を指すことが多い。Emma_hyogo


寒山拾得

2013年09月28日 | 仏教

寒山(かんざん、生没年不詳)は、中国代に浙江省にある天台山国清寺に居たとされる伝説的な風狂の僧の名である。『寒山子詩』の作者とされる。後世、拾得と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。

伝歴は不明な点が多く、時代も初唐の人とされるが、それは『寒山子詩』の中唐以降の詩風とは一致していない。その名は、始豊県(天台)西方70里の寒巌を居所としていたことにちなむものとされる。その風姿は、痩せこけたもので、樺の冠をかむり、衣はボロで木靴を履いた奇矯なものであったという。食事は、国清寺の厨房を任される拾得から残飯を得ていたといい、寺僧に咎められると、大笑いして走り去ったという。虎を連れた姿で知られる豊干禅師の弟子とされ、豊干を釈迦、寒山を文殊、拾得を普賢の化身に見立てるものもある。

台州刺史の閭丘胤が国清寺を訪ねた時、拾得と共に大笑しながら寒巌に姿を隠し、二度と姿を見ることは無くなったとされる(森鴎外が、「寒山拾得」として作品化している)。その後、山中の諸処に書かれていた詩300篇余りが発見され、それが『寒山子詩』であるとされている。

宋高僧伝』巻19「感通篇」に、「唐天台山封干(豊干)師伝」があり、寒山子・拾得として附伝されており、『景徳伝灯録』巻27にも、「天台豊干禅師 天台寒山子 天台拾得」として記録されている。

なお道教史書を数々編纂した五代杜光庭による『仙伝拾遺』中にも、寒山が収められており、そこでは道士が『寒山子詩』を集めたことになっている。

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拾得(じっとく、生没年不詳)は、中国代に浙江省にある天台山国清寺に居たとされる伝説的な風狂の僧の名である。豊干禅師に拾われて仕事を得たのが、名前の由来とされる。寒山と拾得は仲が良く、いつも子供のように遊び回っていた。その様子があまりに風変わりだったため、後世の人によって特別視され、寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の化身とする説が生まれた。

寒山と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。巻物を持った姿で描かれる寒山に対して、拾得はを持った姿で表現される。

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『どら平太』(2000年)

2013年09月28日 | 映画

『どら平太』は、2000年に公開された日本映画監督は、市川崑

1969年に市川崑、黒澤明木下惠介小林正樹の4人によって映画企画・製作グループ「四騎の会」が結成され、山本周五郎の「町奉行日記」を元に映画を製作しようと共同してシナリオを執筆した。その後、この企画は宙に浮いたままになっていたが、市川の監督により、2000年に公開となった。

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谷洋子

2013年09月27日 | 映画

谷洋子
フランス映画などで活躍した日本人女優。1928年8月パリ生まれ。1930年に両親と帰国。東京高師付属高女卒。戦後の1950年にカトリックの給費生として渡仏。パリ大学に入学したが、マルセル・カルネに見いだされてフランス映画にヨーコ・タニの名で出演。東洋のエキゾチックな美女として人気を博した。1958年に新婚の俳優、ローラン・ルザッフルと帰国し、『女囚と共に』(久松静児監督)や『裸足の青春』(谷口千吉監督)にも出演した。ほかに英国をはじめ米国やイタリア映画にも出演、日本人として外国映画で活躍する草分け的存在となった。『青い目の蝶々さん』など。

Tani


浅丘 ルリ子(1940年7月2日 - )

2013年09月26日 | 映画

浅丘 ルリ子(1940年7月2日 - )は、日本女優。本名、浅井 信子。愛称はルリルリ。

身長156cm 体重35kg。サイズ B79/W53/H75 血液型はA型。前夫は石坂浩二

Asaoka


今村仁司 「近代の労働観」

2013年09月25日 | 社会学

一日のかなりの時間をわれわれは労働に費やす。近代以降、労働には喜びが内在し、働くことが人間の本質であると考えられてきた。しかし、労働の喜びとは他者から承認されたいという欲望が充足されるときである。承認を求める欲望は人間を熾烈な競争へと駆り立てる。労働中心主義文明からの転換を、近代の労働観の検討から提起する。

Imamura


加藤周一「現代ヨーロッパの精神」

2013年09月25日 | 文学者

サルトル,ベン,フォースタ,バルト,ヴェーユら六人の思想家・作家を取り上げ,彼らが戦中・戦後のヨーロッパ社会が突きつけた思想的課題といかに切り結んできたかを論ずる.戦後のヨーロッパ思想は何を提起したか.フランスでの留学生活を経て,半世紀以上前に刊行され,戦後日本のヨーロッパ思想研究を先導してきた名著.(解説=海老坂武)

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The attack on Pearl Harbor

2013年09月24日 | できごと

The attack on Pearl Harbor was a surprise military strike conducted by the Imperial Japanese Navy against the United States naval base at Pearl Harbor, Hawaii, on the morning of December 7, 1941 (December 8 in Japan). The attack led to the United States' entry into World War II.

The attack was intended as a preventive action in order to keep the U.S. Pacific Fleet from interfering with military actions the Empire of Japan was planning in Southeast Asia against overseas territories of the United Kingdom, the Netherlands, and the United States. There were simultaneous Japanese attacks on the US-held Phillipines and on the British Empire in Malaya, Singapore, and Hong Kong.

From the standpoint of the defenders, the attack commenced at 7:48 a.m. Hawaiian Time. The base was attacked by 353 Japanese fighters, bombers and torpedo planes in two waves, launched from six aircraft carriers. All eight U.S. Navy battleships were damaged, with four being sunk. Two of these were later raised, and with the remaining four repaired, six battleships returned to service later in the war. The Japanese also sank or damaged three cruisers, three destroyers, an anti-aircraft training ship, and one minelayer. 188 U.S. aircraft were destroyed; 2,402 Americans were killed and 1,282 wounded. Important base installations such as the power station, shipyard, maintenance, and fuel and torpedo storage facilities, as well as the submarine piers and headquarters building (also home of the intelligence section) were not attacked. Japanese losses were light: 29 aircraft and five midget submarines lost, and 65 servicemen killed or wounded. One Japanese sailor was captured.

The attack came as a profound shock to the American people and led directly to the American entry into World War II in both the Pacific and European theaters. The following day (December 8), the United States declared war on Japan. Domestic support for non-interventionism, which had been strong, disappeared. Clandestine support of Britain (for example the Neutrality Patrol) was replaced by active alliance. Subsequent operations by the U.S. prompted Germany and Italy to declare war on the U.S. on December 11, which was reciprocated by the U.S. the same day.

There were numerous historical precedents for unannounced military action by Japan. However, the lack of any formal warning, particularly while negotiations were still apparently ongoing, led President Franklin D. Roosevelt to proclaim December 7, 1941, "a date which will live in infamy".

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Angela Dorothea Merkel

2013年09月24日 | 国際・政治

Angela Dorothea Merkel (born 17 July 1954) is a German politician and former research scientist who has been the Chancellor of Germany since 2005, and the leader of the Christian Democratic Union (CDU) since 2000. She is the first woman to hold either office.

Having initially trained as a physical chemist, Merkel entered politics in the wake of the Revolutions of 1989, briefly serving as the deputy spokesperson for the East German Government. Following reunification in 1990, she was elected to the Bundestag for Stralsund-Nordvorpommern-Rügen in the state of Mecklenburg-Vorpommern, a position she has held since. She was later appointed as the Federal Minister for Women and Youth in 1991 under Chancellor Helmut Kohl, being promoted to become Federal Minister for the Environment, Nature Conservation and Nuclear Safety in 1994. After the CDU/CSU coalition was defeated in 1998, she was elected Secretary-General of the CDU, before being elected the party's first ever female Leader in 2000.

Following the 2005 federal election, she was appointed Germany's first female Chancellor at the head of a grand coalition consisting of her own CDU party, its Bavarian sister party, the Christian Social Union (CSU), and the Social Democratic Party of Germany (SPD). In the 2009 federal election, the CDU obtained the largest share of the vote, and Merkel was able to form a coalition government with the support of the CSU, and the Free Democratic Party (FDP). At the 2013 federal election, the CDU/CSU achieved a landslide victory with 41.5% of the vote. Talks are currently ongoing on coalition agreements after the FDP lost all of its representation in the Bundestag.

In 2007, Merkel was President of the European Council and chaired the G8, the second woman (after Margaret Thatcher) to do so. She played a central role in the negotiation of the Treaty of Lisbon and the Berlin Declaration. One of her priorities was also to strengthen transatlantic economic relations by signing the agreement for the Transatlantic Economic Council on 30 April 2007. Merkel is seen as playing a crucial role in managing the financial crisis at the European and international level, and has been referred to as "the decider." In domestic policy, health care reform and problems concerning future energy development have been major issues of her tenure.

Angela Merkel has been described as the de facto leader of the European Union, and is currently ranked as the world's second most powerful person by Forbes magazine, the highest ranking ever achieved by a woman.

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"secret garden dawn of new century"

2013年09月24日 | 音楽

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Raymond Clevie Carver, Jr. (May 25, 1938 ? August 2, 1988)

2013年09月23日 | 世界文学

Raymond Clevie Carver, Jr. (May 25, 1938 ? August 2, 1988) was an American short story writer and poet. Carver was a major writer of the late 20th century and a major force in the revitalization of the American short story in literature in the 1980s.

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Masayuki Suo (周防 正行, Suo Masayuki, born October 29, 1956 in Tokyo)

2013年09月22日 | 映画

Masayuki Suo (周防 正行 Suo Masayuki?, born October 29, 1956 in Tokyo) is a Japanese film director. He is best known for his two Japan Academy Prize-winning films, 1992's Sumo Do, Sumo Don't and 1996's Shall We Dance?.

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    • In 1982, along with filmmakers Yoshiho Fukuoka, Itsumichi Isomura, Toshiyuki Mizutani and Akira Yoneda, Suo founded a production company called Unit 5. Suo worked as an assistant director and appeared in the cast of Kiyoshi Kurosawa's directorial debut, the pink film Kandagawa Pervert Wars (1983). At this early stage in his career, Suo also wrote scripts for the pink film genre, such as Scanty Panty Doll: Pungent Aroma (1983).[3] Suo first film as director was also in the pink film genre: Abnormal Family: Older Brother's Bride (1984), a film designed as a tribute and satire of Yasujirō Ozu's Tokyo Story. In his book on the pink film, Behind the Pink Curtain (2008), Jasper Sharp calls Abnormal Family: Older Brother's Bride an early masterpiece, and one of the wittiest films ever made in the genre. Suo not only pokes gentle fun at Ozu's story, but also mimics many of his stylistic techniques, such as shooting his actors from a low, tatami-mat angle, stiff and static characters speaking to each other with mis-matched eye-angles, and a simple, sentimental melody which accompanies the film. In the years since its release, the film has amused film students with the activity of locating and identifying Suo's many nods to Ozu and his oeuvre. Abnormal Family was Suo's only directorial work in the pink film genre.

      He next worked for Juzo Itami, to film "making of" pieces for that director's A Taxing Woman (1987) and A Taxing Woman 2 (1988). He made his regular feature film debut with Fancy Dance in 1989, and won the Directors Guild of Japan New Directors Award for his next feature, Sumo Do, Sumo Don't, in 1991. He also directed the 2006 legal film I Just Didn't Do It and the 2012 medical-themed film A Terminal Trust.

      In a 1997 interview with IndieWire, Suo talked about his filmmaking style:

      "The most important thing for me in movie making is to love the characters of the movie, so even though you only have a few seconds with a character, that person has to have his own life. Therefore, I want to respect it, I want to make movies where each character has his own individuality."