中村自身、あとがきで、近代百年の口語文の歴史のあとを洗い直すという仕事、と言っている。「文章というものは、私たちの考えることと感じることとを表現するものだ」
口語文の成立
近代の文語文は、漢文読み下し体の骨格に、西洋の原語の直訳である漢語をはめこんで作られた。こうした文語文は、論理的普遍的であって、私たちの考えること(思想)を表現するのには適していましたが、非論理的主観的な感じること(感情)を表現するには不自由だった。また、同じ(文壇的)口語文であっても、自然主義流(田山花袋、島崎藤村)の客観描写を好むのか、尾崎紅葉の弟子、泉鏡花流の主観的歌いぶりを好むかがあり、それは読者の趣味に属する問題であろう。
口語文の完成
文学者であり、学者である、森鴎外と夏目漱石により、考える口語体が完成された。
鴎外は西洋の文体に学んだ口語体と、漢文に学んだ文語体とを統一して、新しい気品に満ちた古典的口語体を発明した。さらに、もうひとり、同じく学者でもあった幸田露伴に、漢文の素養に裏打ちされた中に、その範を見出している。
口語文の進展
感じる文章を発展させ、その中に考える文体をつまり描写も同じく事実として写した、「自然主義初期の三尊」島崎藤村、田山花袋、国木田独歩がいる。
その後の漱石の文体を、一般の社会人の中に、飛躍的な進展を行わせたのは経済的に何ら不安のない富裕で、自由な階級にあった白樺派の、武者小路実篤、有島武郎、志賀直哉であった。
一方、鴎外の文体は、「文学者の内部」すなわち、最も文学的な文学者、芸術的な一部の文学者として永井荷風がいて、荷風に激賞され一躍文壇に出て、大正昭和の巨匠として、世界的名声を博した谷崎潤一郎がいる。
口語文の改革
佐藤春夫の意欲的な、実験の文体「田園の憂鬱」の紹介から始まって、北原白秋、木下杢太郎、白秋の弟子の萩原朔太郎の文章を挙げている。
第一次世界大戦が終わると同時に、西洋を中心とした世界は、突然に革命的変動期にはいり、特殊に主観的表現をとった「新感覚派」の大胆な文体の改革が起こり、横光利一であり、吉行エイスケ、堀辰雄、阿部知二、伊藤整、そして川端康成であった。
第ニ次世界大戦が終わると、日本の社会は、第一次世界大戦とそれに続く関東大震災の直後よりも、もっと徹底した変化を経験した。
野間宏の「崩壊感覚」、武田泰淳、椎名麟三、福永武彦、島尾敏雄、吉行淳之介、そして日本語を可能な限り明晰に使用しようという代表者としての大岡昇平、より視覚的にした三島由紀夫、より科学的な阿部公房、書き言葉のそれらの試みの後で、話し言葉の影響をもへ以前ととりいれた庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」、井上ひさしの一節、最後に、口語分の幅の広さを示す、小田実「状況から」と大江健三郎「状況へ」で終わりとしている。
近代文学史ともいえる、中村真一郎の「この百年の小説」(1968~1973)と併読すると面白いと思った。


1918(大正7)年、東京生まれ。東京大学仏文科卒。1942年、福永武彦らと新しい詩運動「マチネ・ポエティック」を結成。1947年『死の影の下に』で戦後文学の一翼を担う。[春]に始まる四部作『四季』『夏』(谷崎潤一郎賞)『秋』『冬』(日本文学大賞)『頼山陽とその時代』(芸術選奨文部大臣賞)『蠣崎波響の生涯』(読売文学賞、日本芸術院賞)『私のフランス』など多数の著書と訳詩書がある。1997年に同没。
1974年、『この百年の小説』で毎日出版文化賞
1978年、『夏』で谷崎潤一郎賞
1985年、『冬』で日本文学大賞
1989年、『蠣崎波響の生涯』で藤村記念歴程賞
1990年、『蠣崎波響の生涯』で読売文学賞(評論・伝記部門賞)