一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

インパール作戦

2018年09月23日 | 社会
インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため、現在では史上最悪の作戦と呼ばれる。

スワンの恋

2018年09月22日 | 社会
19世紀の末、美術に造詣の深いスワン(ジェレミー・アイアンズ)は、ユダヤ人株式仲買人の息子で社交界の花形的存在である。彼は、ある瞬間から一人の女性への恋の妄想にとりつかれていた。馬車の上で、その女性オデット(オルネラ・ムーティ)が胸につけていたカトレアの花を直すために彼女に触れた瞬間から彼女にとりつかれたのだ。それまで彼の日常の全てだった音楽会、サロンでの時間も今は関心をひかない。音楽会が催されたゲルマント公爵(ジャック・ブーデ)の家を訪れた彼は、親しい友人シャルリュス男爵(アラン・ドロン)に、早速、オデットの様子を聞いた。昨日は、彼女はシャルリュスと一緒だったのだ。男色家の彼となら何の心配もいらない。演奏が終わりに近づいた時、帰ろうとしたスワンは、そのヴァイオリンの音色にめまいを覚えた。ジャッキー・クラブのあるバガテルへオデットを迎えに行くと、彼女はフォルシュヴィル子爵(ジュフロワ・トリー)と共に現われた。オデットは、実は高級娼婦なのだ。彼女と共にラ・ペルーズ街の彼女の家に行くと、明らかに女衒と判る女性が彼女を待っていた。オデットを待つ間、スワンは胸の中で、彼女が女性と関係したことがあるのだろうかと自問した。そして、そのことをオデットに追求する。意味ありげな笑みをもらし「二度、三度、ずっと昔に…」と答える彼女。やがて、スワンは匿名の手紙を受けとった。それは、オデットの素姓を知りたければブドゥルー6番街に住むクロエを訪ねなさいというものだった。クロエを訪ねたスワンは、しかし何も聞き出せずに邸に戻った。そして、初めてオデットがやって来た日のことを想い出していた。ボッティチェリの版画に描かれているゼフォラの像に似た、そのオデットの姿を……。オペラがはねる頃、ヴェルデュラン夫妻(ジャン・ルイ・リシャール、マリー・クリスチーヌ・バロー)と共にオペラ座に出かけたオデットの姿はなく、やっと捜しあてたレストランでは、彼女はフォルシュヴィル子爵と一緒であった。さらに帰り際、オデットは、フォルシュヴィルの馬車に乗り込んでいった。スワンが苦悩をつのらせて、カルーセル凱旋門近くを馬車で通り過ぎる頃、若いユダヤ青年に捨てられたシャルリュス男爵と出くわす。シャルリュスと別れたスワンは、いつの間にかラ・ペルーズ街へ来ていた。ついにオデットを腕の中に抱くスワン。翌朝、スワンは、彼を訪れたシャルリュスに、もう心がオデットから離れたことを告げた。それから、十数年後、シャルリュスと共にベンチにすわるスワンに、誇らしげに歩み寄る女性がいた。今はスワン夫人となったオデットであった。

男と女

2018年09月21日 | 社会
スタントマンの夫を事故で亡くしたスクリプト・ガールのアンヌは、娘を寄宿学校に預け、パリで一人暮らしをしていた。ある日、娘に会うために寄宿学校に行った帰り、パリ行きの列車を逃してしまう。そんなアンヌにジャン・ルイという男性が車で送ると申し出た。ジャン・ルイも同じ寄宿学校に息子を預けており、また、妻を自殺で亡くしていた。

ロシュホールの恋人たち

2018年09月20日 | 社会
フランス西南部の海辺の街ロシュフォールは、年に一度の祭を二日後に控え、賑わっていた。

その街にはソランジュとデルフィーヌという美しい双子姉妹が住んでいた。ソランジュは音楽家を、デルフィーヌはバレリーナを志し、いつの日かこのロシュフォールから飛び出し、花の都パリで自分達の力を試してみたいと思っていた。また彼女たちには、いつの日か素晴らしい恋人にめぐり逢いたいという夢もあった。

姉妹の母親イヴォンヌはカフェの女主人で、彼女の気さくな人柄で多くの常連客もおり、店は繁盛していた。その客の中には、今回の祭でオートバイの曲乗りを見せるというエチエンヌとビルの二人組や、理想の女性を求め、その女性の人物画を描いている水兵のマクザンスがいた。

そして、いよいよ祭の日がやってきた。広場にはたくさんの舞台が組立てられ、様々なショウが繰り広げられた。とあるきっかけで、エチエンヌとビルにショウの出演を頼まれたソランジュとデルフィーヌの姉妹も舞台に立ち、歌と踊りを披露した。ショウは大成功だった。ショウの後でエチエンヌとビルは、これからも自分達と一緒に仕事をして歩けばパリにも行くことが出来ると、姉妹を誘った。そして彼女らは、「パリへ行って大芸術家になろう。素晴らしい恋人にめぐりあえるかもしれない」と彼らについていく事を心に決めた。

だが「素晴らしい恋人」はすぐ近くにいるもので、ソランジュは以前、通りで出会った魅力的なアンディにパリへの出発直前に再会した。イヴォンヌも十年前に些細なことで別れてしまった恋人で、今は楽器店を経営するダム氏と再び結ばれた。デルフィーヌは幸福そうなソランジュたちと別れ、エチエンヌやビルと一緒に車に乗り、パリを目指し出発する。

シェルブールの雨傘

2018年09月19日 | 社会
第一部 旅立ち 1957年11月-
アルジェリア戦争ただ中のフランス。港町シェルブールに住む20歳の自動車整備工ギィと17歳のジュヌヴィエーヴは結婚を誓い合った恋人同士。ギィは病身の伯母エリーズと、ジュヌヴィエーヴはシェルブール雨傘店を営む母エムリ夫人と暮らしている。エムリ夫人は2人が若過ぎる事を理由に結婚に反対するが、2人は将来生まれて来る子供の名前(女の子だったらフランソワーズ)を考えたり、自分たちのガソリンスタンドを持つ夢を語り合ったりと、幸福な恋愛を謳歌していた。
そんなある日、エムリ夫人に莫大な額の納税通知書が届く。切羽詰まっていたエムリ夫人は、娘に説得され、大切なネックレスを売る決心をして、娘を連れて宝石店へ行った。店主との交渉はうまく進まなかったが、たまたま居合わせた宝石商ローラン・カサールが、その場でネックレスを購入してくれた。
やがてギィに召集令状が届き、2年間の兵役をつとめることになった。尽きる事無く別れを惜しむギィとジュヌヴィエーヴ。その夜、2人は結ばれた。ギィは幼馴染みのマドレーヌに伯母の世話を頼み、ジュヌヴィエーヴと永遠の愛を誓い合って、シェルブール駅で別れを告げ入営する。
第二部 不在 1958年1月-
ある日、エムリ夫人は町でカサールと出会い、食事に招待する。妊娠していることを知ったジュヌヴィエーヴは、ギィからほとんど手紙が来ないことを不安に感じていた。ジュヌヴィエーヴが気分が悪いと休んだ後、エムリ夫人に引き止められたカサールは、ジュヌヴィエーヴに結婚を申し込むつもりだったことを打ち明ける。ジュヌヴィエーヴに出会い、カサールは失っていた人生の目標を見つけることができたのだった。決めるのは本人なので、押しつけないように頼み、カサールはまた旅に出る。
手紙で妊娠を知ったギィからは、2月に「男の子だったら名前はフランソワ」と喜びの返事が届く。だが、ギィを待ち続けていたジュヌヴィエーヴは、次第にカサールに心を開き、子どもを一緒に育てようという求婚を受け入れる。結婚からしばらくして、エムリ夫人も店を処分し、娘が住むパリへと移住する。
第三部 帰還 1959年3月-
足を負傷し除隊となって帰郷したギィはシェルブール雨傘店を訪れるが、店は所有者が変わっていた。ジュヌヴィエーヴの結婚と移住を聞かされたギィは自暴自棄となり、復職した整備工場も些細なトラブルで退職して酒と娼婦に溺れる。朝帰りした彼を待っていたのはエリーズ伯母の死の報せだった。ギィはマドレーヌに一緒に住むように頼み、行く当てのないマドレーヌは、とりあえず同じ家に住むことにする。その後、伯母の遺産でガソリンスタンドを始めることに決め、立ち直ったギィに、マドレーヌも心を開き、結婚する。
エピローグ 1963年12月-
ある雪の夜、妻マドレーヌと息子フランソワがクリスマスの買い物に出ていった後、一台の車がギィのガソリンスタンドに給油に訪れる。運転席にはジュヌヴィエーヴが、助手席には3,4才くらいの女の子が乗っている。入営の日、シェルブール駅で別れて以来の再会だった。事務所で短く言葉を交わす2人。ジュヌヴィエーヴは娘の名はフランソワーズだと告げ、「会ってみる?」とギィに聞くが、彼は無言で首を振り、「もう行った方がいいよ」と言う。車は去って行き、入れ替わりにマドレーヌとフランソワが帰ってくる。雪の積もったガソリンスタンドで、ギィは息子の手を取って遊ぶが、カメラが引いていくため、ギィの表情はわからない。さ

震度7

2018年09月18日 | 社会
1995年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)で震度7が初めて適用された。気象庁の「地震情報」の段階では震度6だったが、当時の規定に基づき現地調査で判定が行われ、淡路島北部から阪神間の一部地域で「家屋の倒壊が30%以上に及ぶ」ことを基準とする震度7が適用されることとなった(厳密には「観測」ではなく「適用」と呼んだ)。震度7が初めて適用されたのは地震3日後の1月20日であり、さらに詳細な現地調査による震度7の分布の認定は翌月(調査は2月6日、発表は2月7日)までかかった。当時はたとえ震度7を震度計で計測しても気象庁の係員が周辺の被害状況を調べたうえで本当に震度7であったか確認するまでは発表しない仕組みであった。

計測震度7の導入 編集
震度と計測震度の関係表[9]
震度 計測震度
0
0.5未満のすべて
1
0.5以上 1.5未満
2
1.5以上 2.5未満
3
2.5以上 3.5未満
4
3.5以上 4.5未満
5弱
4.5以上 5.0未満
5強
5.0以上 5.5未満
6弱
5.5以上 6.0未満
6強
6.0以上 6.5未満
7
6.5以上のすべて
兵庫県南部地震の時、現地調査を行ってから震度7を適用したのでは災害対応が遅れるとの批判が強かったため、その後、1996年以降はすべての震度が計測震度による判定に改められた。兵庫県南部地震後の現地調査による震度7の範囲で観測された強震加速度波形から計測震度を算出すると6.5前後となり、計測震度6.5以上を新たに震度7と定義すれば、計測震度を四捨五入した値が震度であるという関係を保つことが出来るとされた[7]。
1995年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)で震度7が初めて適用された。気象庁の「地震情報」の段階では震度6だったが[注 1]、当時の規定に基づき現地調査で判定が行われ、淡路島北部から阪神間の一部地域で「家屋の倒壊が30%以上に及ぶ」ことを基準とする震度7が適用されることとなった(厳密には「観測」ではなく「適用」と呼んだ)[4]。震度7が初めて適用されたのは地震3日後の1月20日であり[5]、さらに詳細な現地調査による震度7の分布の認定は翌月(調査は2月6日、発表は2月7日)までかかった[6]。当時はたとえ震度7を震度計で計測しても気象庁の係員が周辺の被害状況を調べたうえで本当に震度7であったか確認するまでは発表しない仕組みであった[7][8]。

計測震度7の導入 編集
震度と計測震度の関係表[9]
震度 計測震度
0
0.5未満のすべて
1
0.5以上 1.5未満
2
1.5以上 2.5未満
3
2.5以上 3.5未満
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3.5以上 4.5未満
5弱
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5強
5.0以上 5.5未満
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5.5以上 6.0未満
6強
6.0以上 6.5未満
7
6.5以上のすべて
兵庫県南部地震の時、現地調査を行ってから震度7を適用したのでは災害対応が遅れるとの批判が強かったため[4]、その後、1996年以降はすべての震度が計測震度による判定に改められた。兵庫県南部地震後の現地調査による震度7の範囲で観測された強震加速度波形から計測震度を算出すると6.5前後となり、計測震度6.5以上を新たに震度7と定義すれば、計測震度を四捨五入した値が震度であるという関係を保つことが出来るとされた[7]。

さらに、被害の甚大な芦屋市、西宮市、伊丹市、宝塚市などの阪神間の都市には計測震度計が設置されておらず震度が判らなかったという問題もあったため[10]、従来気象官署、津波地震早期検知網の観測点などに限られていた震度観測点を、気象庁約600ヶ所、防災科学技術研究所約800ヶ所、地方公共団体約2800ヶ所、計約4200ヶ所と大幅に増強し震度観測点のデータを気象庁の情報発表に活用することとなった[7]。

2004年の新潟県中越地震で後日回収された地震計[注 2]によって初めて震度7が観測され、2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)や2016年の熊本地震[注 3]では震度速報の時点で震度7が観測された。2018年現在、計測の最大は熊本地震の本震(4月16日発生)の際に熊本県益城町で観測された計測震度6.7 (6.78) の震度7である[11][12]。

震度7の下限に相当する計測震度6.5の条件として、仮に同じ周期の揺れが数秒間継続した場合、周期1秒の場合は約600gal以上、周期0.1秒の場合は約2700gal以上の加速度が必要とされる[13]。

なお、どれだけ揺れが激しいとしても、計測震度が6.5以上ならば震度7とされる。1996年の改定前の検討委員会では、計測震度7.0での分割や計測震度7.5以上を震度8とすることも検討に上がったが、震度7では最大級の防災対応が取られるため防災上は分割の意味がないこと、計測震度7.0以上を観測した例がないためどのような被害が発生するか不明瞭である点から、導入は見送られた。


さらに、被害の甚大な芦屋市、西宮市、伊丹市、宝塚市などの阪神間の都市には計測震度計が設置されておらず震度が判らなかったという問題もあったため、従来気象官署、津波地震早期検知網の観測点などに限られていた震度観測点を、気象庁約600ヶ所、防災科学技術研究所約800ヶ所、地方公共団体約2800ヶ所、計約4200ヶ所と大幅に増強し震度観測点のデータを気象庁の情報発表に活用することとなった。

2004年の新潟県中越地震で後日回収された地震計によって初めて震度7が観測され、2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)や2016年の熊本地震では震度速報の時点で震度7が観測された。2018年現在、計測の最大は熊本地震の本震(4月16日発生)の際に熊本県益城町で観測された計測震度6.7 (6.78) の震度7である。

震度7の下限に相当する計測震度6.5の条件として、仮に同じ周期の揺れが数秒間継続した場合、周期1秒の場合は約600gal以上、周期0.1秒の場合は約2700gal以上の加速度が必要とされる[13]。

なお、どれだけ揺れが激しいとしても、計測震度が6.5以上ならば震度7とされる。1996年の改定前の検討委員会では、計測震度7.0での分割や計測震度7.5以上を震度8とすることも検討に上がったが、震度7では最大級の防災対応が取られるため防災上は分割の意味がないこと、計測震度7.0以上を観測した例がないためどのような被害が発生するか不明瞭である点から、導入は見送られた。

10MTV

2018年09月17日 | 社会
10MTVオピニオンで学べること
政治・経済・ビジネスから歴史・哲学・文化まで、様々なテーマを学ぶことができます。

富裕層

2018年09月16日 | 社会
野村総合研究所でも、2014年に富裕層の世帯数に関する調査が発表されており、2013年の推計によると日本の富裕層は101万世帯、純金融資産総額は241兆円とのことである。

ここで言う富裕層には、「預貯金、株式、債券、投資信託、一時払い生命・年金保険などの純金融資産保有額(保有資産の合計額から負債を差し引いた値)が1億円以上5億円未満の『富裕層』と、同5億円以上の 『超富裕層』」が含まれている。

防災

2018年09月15日 | 社会
渡辺 実 1951年生まれ。工学院大学建築学科卒。防災・危機管理ジャーナリスト。(株)まちづくり計画研究所代表取締役所長。NPO法人日本災害情報サポートネットワーク理事長。技術士・防災士。各地での報道協力や災害調査、また防災計画策定に携わり、『大地震にそなえる 自分と大切な人を守る方法』(中経出版)など著書多数。監修作にコミック『彼女を守る51の方法』全5巻(新潮社)。NPO法人「立ち上がるぞ! 宮古市田老」(通称NPO田老)の設立に参画し、被災した宮古市田老地区の復興にも関わっている。

熊本地震 2016.4.16

2018年09月14日 | 社会
震度7が2回、震度1以上が1千回超(4月28日現在)の地震による被害は県内全域に及んだ。なかでも県民のシンボルである熊本城や阿蘇の無平成28年熊本地震 発生から2週間の記録」を緊急出版。4月14日と16日に発生した震度7の大地震は益城町や南阿蘇村、西原村、熊本市などを中心に県内各地に未曾有の被害をもたらした。
本写真集は前震、本震による被害の状況を中心に、全国からの支援や復旧、避難所の様子などのほか、号外紙面や2週間のドキュメント、小山薫堂氏の寄稿文なども収録。後世に残す永久保存版。
※本書の売上の一部は、被災された方々への救援金に充てさせていただきます。ら

地震学を創った男

2018年09月13日 | 社会
ノーベル物理学賞候補に選ばれた天才科学者は、なぜ歴史から抹消されたのか
世界初の高感度地震計、震源地までの距離を測定する公式、そしてノーベル賞候補。近代地震学の発展のためにすべてをささげた偉大な科学者の名を、いま知るものはほとんどいない。1923年9月1日に何が起きたのか……。そして、彼の地震予知の大望はどのような結末をむかえたのか……。圧倒的な資料調査によって、日本科学史の闇に消えたひとりの男の足跡をあきらかにする。
内容
世界初の高感度地震計、震源地までの距離を測定する公式、そしてノーベル賞候補。近代地震学の発展のためにすべてをささげた偉大な科学者の名を、いま知るものはほとんどいない。1923年9月1日に何が起きたのか…。そして、彼の地震予知の大望はどのような結末をむかえたのか…。圧倒的な資料調査によって、日本科学史の闇に消えたひとりの男の足跡をあきらかにする。
著者略歴
上山/明博
1955年10月8日岐阜県生まれ。小説家・ノンフィクション作家。日本文藝家協会正会員、日本科学史学会正会員。1999年特許庁産業財産権教育用副読本策定普及委員会委員、2004年同委員会オブザーバーなどを務める一方、文学と科学の融合をめざし、徹底した文献収集と関係者への取材にもとづく執筆活動を展開。

文化庁 スポーツ界の不祥事

2018年09月12日 | 社会
 スポーツ界で相次ぐ不祥事を受け、スポーツ庁は競技団体に対する国の関与を強められないかなどを話し合う専門チームの初会合を開きました。  スポーツ庁・鈴木大地長官:「不祥事事案が表面化しているが、スポーツ界の悪い伝統を断ち切る意味では大変、良いチャンスなのかなと前向きに捉えている」  スポーツ界でパワハラや暴力などの不祥事が相次いでいることを受け、スポーツ庁は競技団体への国の関与を強められないかを検討する専門チームを庁内に設置して初会合を開きました。月2回のペースで話し合い、必要に応じて専門家にも意見を聞きながら年内をめどに方向性をまとめる方針です。

北海道地震

2018年09月12日 | 社会
北海道のまとめによりますと、今回の地震で、12日午前11時現在、道内の9つの市と町の合わせて44の避難所に1590人が避難しています。

このうち、震度7の揺れを観測した厚真町が最も多く879人、ついでむかわ町が259人、安平町が201人、札幌市が155人などとなっていて、避難生活の長期化による健康への影響が懸念されています。

また、胆振地方を震源とする地震が相次いでいることから気象台は、揺れの強かった地域では、地震の発生から1週間程度は、最大で震度7程度の揺れに十分、注意するよう呼びかけています。

一方、北海道内の電力需給は引き続き厳しく、節電に頼らざるをえない状況が続いています。

経済産業省によりますと、北海道電力管内の12日午前10時台の節電率は、地震発生の前日の今月5日の同じ時間帯と比べて15.6%で、目標の20%を下回っています。

政府は、12日と13日も計画停電を実施する予定はないとしていますが、地震後に発電を続けていた釧路市音別町の音別発電所2号機がきのうトラブルのため運転を停止するなど、北海道電力が地震後に再稼働させている各地の火力発電所は老朽化したものが多く、トラブルによる供給力の低下も懸念されています。

政府や北海道電力は今週中は20%を目標にした節電への協力を呼びかけることにしています。

安藤至大

2018年09月12日 | 社会
いま働き方の仕組みはどうなっているか? これからどう変わり、どう備えるべきなのか? 法律と経済学の視点から、働くことの構造・現状・未来・対策を説く。

内容
私たちはなぜこんな働き方をしているのか、いつまでこんな働き方を続けるのか。本書は、労働経済学の見地から、働くことにまつわる根本的な疑問を解き明かしていきます。日本型雇用のゆくえ、ブラック企業の根幹、これから失われる仕事の見抜き方…。働くことの基本を知り、いま起きていることを理解し、未来を考えるために必要なことを、具体的な事例に沿って解説します。これからの激変する社会で生きるための必読書です。
著者略歴
安藤/至大
1976年東京生まれ。1998年法政大学経済学部卒業。2004年東京大学博士(経済学)。政策研究大学院大学助教授などを経て、日本大学准教授。専門は、契約理論、労働経済学、法と経済学。NHK(Eテレ)の経済学番組「オイコノミア」やBSジャパン「日経みんなの経済教室」の講師としても活躍している。

『オイコノミア』は、NHK Eテレで2012年4月3日から2018年3月21日まで放送されたテレビ番組である。タイトルは「エコノミクス(経済学)」の語源となった古代ギリシア語に由来する。

竹内亮

2018年09月11日 | 社会
「日中友好の前提となるのは相互理解」 日本人に中国を紹介したい
撮影のため竹内さんは毎月、少なくとも1回は日本へ帰り、中国と日本を行き来している。この2年ほどの撮影の中で、竹内さんは中国の若者の日本に対する理解の程度や理解しようとする熱心な態度が彼の想像を超えていたことが最も印象的だったとし、こうした若者たちは日本のアイドルやポップミュージック、ドラマなどを、時には自分より詳しく知っているほどなのだという。一方、日本の若者は中国の若者と全く逆で、中国のことをほとんど知らず、関心もない。そんな現状に、竹内さんは日本に中国を紹介したいと思うようになったという。
そして「日本のテレビ局にも中国を紹介する番組があるが、偏った情報が多い。僕は自分で感じた中国のおもしろいもの、文化を日本人に紹介したい」とその思いを語る。
竹内さんは、「友好は相互理解が前提であるはず。会ってすぐに『友達になろう』というのは、小さな子供のやり方。もっと成熟した関係を築くためには、まず客観的に相手のことを理解しなければならない。僕がやっているのは日本の情報を客観的に中国に伝えること。日本人も中国に関するもっと多くの客観的な情報がほしいと思っている」とした。
ただ、経費や人手といった制約もあり、「日本語版」の製作はまだ構想段階でしかない。しかし竹内さんは、「形式についてはじっくり研究しなければならない。単純に『僕がここに住む理由』をそっくりそのままコピーすることはできない。日本人に中国を紹介するためには、日本人が受け入れやすい形式を選択しなければならない」と全く焦る様子もなく語った。
「視聴者が見飽きるまで製作し続ける」
10月20日、「僕がここに住む理由」の公式微信アカウントの目立つところに広告バナーが掲載された。しかし、下のフォロワーらからのコメント欄に批判的な書き込みはなく、「おめでとう」、「ついに広告掲載。がんばって!」、「たくさん広告が掲載されることを願っている」など、励ましのコメントが寄せられた。竹内さんは、「ネットユーザーがこれほど理解あるのは、僕が微博でよくお金がないと嘆いているから。そのため、よく『監督らしくない』と突っ込まれる。フォロワーらも自然と製作チームにお金がないという現実を受け入れてくれている」と説明する。また、趙プロデューサーも、「当作品はとてもおもしろいが、利益を上げるのは難しい。内容とクオリティを守るために、監督はスポンサーの意見に左右されることは望んでいない。だから、プロダクトプレイスメントを採用するのは難しい。配信するプラットフォームの再生回数に基づく利益だけでは、製作に必要な費用や人件費を賄うのは難しい。そのため、製作グループはその他の旅行やグルメ関連の番組を製作することを検討している。これにより、広告やスポンサーを見つけやすくなることを願っている」と話した。
番組の知名度を上げ、もっと多くのスポンサーを見つけ、「僕がここに住む理由」が熾烈な中国のインターネット競争を勝ち残れるようにするため、どちらかというと「インドア派」の竹内さんも仕方なく外へ出て、講演やライブ配信、ソーシャルメディアやファンイベントに参加するなど、監督であると同時に、「経営」にもかかわるようになっている。それでも、竹内さんは、製作をやめることなど考えたことはなく、「視聴者が見飽きるまで製作し続ける」と話す。
「僕がここに住む理由」は来年初めには、放送100回目を迎える。その回では竹内さんが「監督」から「主人公」となり、ネットユーザーに向けて自らの中国での体験を語り、「亮おじさん」のさらにリアルな姿を伝えるという。(編集KN)