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一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

黒沼ユリ子

2017年10月17日 | 音楽

1940年、東京に生まれる。8歳の頃よりヴァイオリンを始める。1956年桐朋女子高校音楽科1年で日本音楽コンクール第1位および特賞を受賞。その後、1958年よりプラハ音楽芸術アカデミーに留学する。プラハでいくつかの賞を受賞した後、首席で卒業し、以降世界各地で演奏活動を行っている。1980年より2012年まで、メキシコシティ・ コヨアカン地区に「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」を開校したメキシコを本拠に世界各地で音楽活動を行っている。1988年フェリス女学院大学大学院の教授に就任。2007年メキシコで音楽家に与えられる最高の賞とされるモーツァルトメダルを受賞

http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2012-07-19

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アカデミア・ユリコ・クロヌマ閉幕にあたっての ご挨拶                          
メキシコにて、2012年5月15日      

本来でしたら個人的にお目にかかり、感謝の気持ちと共にご報告いたさねばならない事柄なのですが、とりあえず、このような略儀を使わせて戴きますことを、どうか悪しからずお許し下さいませ。
実はつい先週のことなのですが、やはり今学期末(6月30日)で私共のアカデミアに、幕を引くことを決心いたしました。すでに70歳になった1~2年前から迷いに迷っていたことなので、近々72歳になる今、最終的な決断をいたした次第です。
この32年間に起こりましたメキシコのみならず、世界中の政治・経済・社会状況の変化は、1980年のアカデミア発足当時には、誰もが夢にも想像出来なかったことだと思います。

今般、アカデミア閉幕の決断に至る主なる要因は、次の3点にあると考えております。

1) 近年のメキシコ市内における治安と交通渋滞のさらなる悪化。そこにソ連邦・及び東欧社会主義崩壊後の国々からのヴァイオリニストたちのメキシコへの大量移住。中流以上の家庭の子弟たちは、自宅での出稽古を申し出る彼ら教師に習うことを優先し、妻の運転する車で子供がアカデミアに通うことを夫が許さなくなった。

2) インターネットの急速な浸透により、子供や学生たちには自宅でパソコンと向き合う時間が大幅に増え、毎日、何時間かの自習が必修のヴァイオリンやチェロの練習に興味を示す者が激減した。

3) 俗に「ベネズエラ方式」と呼ばれている音楽教育システムから生まれ、現在ヨーロッパはじめ日本でも高く評価されているシモン・ボリバール交響楽団や、同システムで育ち、今や世界の楽壇で最も活躍する指揮者となったグスタボ・ドゥダメルらの存在に刺激されて、メキシコでもやっと10年ほど前に国立少年少女交響楽団が創立され、国家文化芸術審議会(日本での文化庁にあたる)直属の管轄下で、全国で子供たちへの無料音楽教育に力を入れ始めた。そこでは「奨学金」の名目で毎月メンバーたちに数千ペソの現金支給があり、低所得家庭への経済援助も兼ねている。

以上のような状況下で、昨今のアカデミアでは生徒数が激減し、以前のような存在の意義も必要性もなくなり、存続そのものも不可能となった訳です。
30年前には生徒数も120名で、門外にウエイティング・リストの生徒が並び、私共のアカデミアが唯一の幼児および少年少女への音楽教育の場だったのですが、時代がこの様に大転換・変化してしまったのです。何に関しても常に「始めあれば終りあり」と言われますが、おこがましく申せば、いわば“先見の明”があり「後世のために誰よりも一歩先んじて貴重な貢献をした」と仰って下さる方々の言葉を信じたい気持ちです

そこで、1983年のメキシコ通貨大暴落で子供用のヴァイオリンが輸入禁止品目に入ってしまい、私が日本で「不要になった小さなヴァイオリンをメキシコの子供達にご寄贈願えないでしょうか?」というキャンペーンを展開した折、多くの方々からお届け戴いた楽器を、今後どのように活用したら最善であるかを考え抜いた末、国家文化芸術審議会を通じて、地方の国立少年少女交響楽団に「日本からの善意」として託すことに決心いたしました。そして音楽振興国家システムの音楽監督エンリケ・バリオス氏と会見し、その件を伝えましたところ「大歓迎でその楽器を全部、有難く頂戴しましょう」との快諾を得ました。彼からは、「アカデミア・ユリコ・クロヌマが姿を消すのは非常に残念だが、すでにこれだけ多くの優秀なメキシコと日本をはじめ、外国人も含めたヴァイオリニストを国内のみならず世界にも送り出した多大な実績と功績が有り、それはこの国の誰もが認めているところなのだから、十分な満足感を持って今、閉幕の決断をすることは正しいことだと思う」と評価されました。
このように「公式にメキシコ側へ日本の善意が届けられる」ということを、私は6月6日の叙勲の伝達式後、日本全国津々浦々から当時ご寄贈下さった方々へお礼とご報告をしたいので、もし何らかの方法で、マスコミ関係のみな様からのご援助が戴けましたら大変有難く、この不躾なお願いをご理解戴けましたら、幸いです。
現在アカデミアには寄贈された大小のヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが合わせて100台ほどあります。それらをメキシコの地方の貧しい子供たちに使ってもらえるようになりましたら、最善の終止符の打ち方になろうかと考えております。今後の楽器管理は当然、音楽振興国家システムがすることになっております。
音楽を愛するメキシコの子供たちが、これらの楽器を通じて、今後さらに日本との友情を深めて行ってくれることが出来ましたら、これ以上の歓びはありません。
一抹の寂しさが無いと言っては嘘になりますが、何しろ年齢(とし)が年齢ですので、この辺でみな様から “無罪放免”のお許しを戴けます様、お願い申し上げます。



ショパンとサンド

2017年07月18日 | 音楽

ヨーロッパいちスキャンダラスな女といわれた作家ジョルジュ・サンドと、天才音楽家でありながら控えめで品行方正なショパンとの、ある意味不可解な結びつき。本書は歪められた俗説を排し、現存する資料をもとに客観的な視点でふたりの軌跡をたどる。生誕200年を機に改めて考える人間ショパンの真の姿。


リヒテル

2017年07月06日 | 音楽

スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテルロシア語Святосла́в Теофи́лович Ри́хтерウクライナ語Святослав Теофілович Ріхтер、ラテン文字転写例: Sviatoslav Teofilovich Richter、1915年3月20日 - 1997年8月1日)は、ソビエト連邦ピアニストである。ドイツ人を父にウクライナで生まれ、主にロシアで活躍した(ただし在留ドイツ人として扱われた)。その卓越した演奏技術から20世紀最大のピアニストと称された。


ティラースィフト

2017年06月30日 | 音楽

テイラー・スウィフトTaylor Swift1989年12月13日 - )は、アメリカ合衆国ポップ歌手シンガーソングライター女優として映画テレビドラマにも出演している。身長176  cm[1]、足のサイズは26.5cm。

テイラー・スウィフト
Taylor Swift
Swift performs in St. Louis, Missouri in 2013.jpg
基本情報
出生名 Taylor Alison Swift
テイラー・アリソン・スウィフト
生誕 1989年12月13日(27歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ペンシルベニア州
ジャンル カントリーポップ
職業 シンガーソングライター女優モデル
担当楽器 ボーカルギターウクレレピアノバンジョー
活動期間 2006年 -
レーベル ビッグマシン・レコード
ユニバーサルミュージック
共同作業者 ケリー・ピックラーコルビー・キャレイ
公式サイト 公式サイト
TaylorSwift Signature.svg
テイラー・スウィフトのサイン

立て続けにヒット曲を生み出しており、ファン層も広く、しばしば「America's sweetheart」とも呼ばれる[2]

 

 

生い立ち編集

1989年 – 2004年: 生い立ち編集

1989年12月13日ペンシルベニア州ウエスト・レディングで生まれた。父親は銀行のファイナンシャル・アドバイザーである。父はペンシルベニア州で育ち、祖先は3代にわたる銀行頭取であった。母親は投資信託のマーケティング管理であったが、退職後専業主婦となった。母はアメリカ人であるが東南アジアを中心にエンジニアとして働いていた父親(スウィフトの祖父)と10歳までシンガポールで過ごし、帰国後テキサス州に居住した。スウィフトには弟がいる。

スウィフトはペンシルベニア州Cumru Township の11エーカーのクリスマス・ツリー農場で幼少期を過ごした。スウィフト一家はクォーターホース、シェットランド・ポニーを何頭か所有し、彼女の最初の趣味は英国式乗馬であった。まだ9ヶ月の時に母親にサドルに乗せられたのが最初で、のちに競技会に出場するようにまでなった。フランシスコ会の修道女によるプレスクールおよび幼稚園に通い、その後男女共学の私立学校に通った。スウィフトと弟は長老派教会を信仰し、夏季にバイブル・スクールに通った。


KENJI

2016年11月04日 | 音楽

デビュー30周年記念アルバム『アニヴァーサリー』の発売に合わせて、加古隆の初期6タイトルが再発売。宮沢賢治の詩にインスパイアされた88年作。美しい詩に、メロディが融合していく。

1. プロローグ - イーハトヴと賢治
2. 永訣の朝
3. 銀河鉄道の夜
4. セロ弾きのゴーシュ
5. 風の又三郎
6. グスコーブドリの伝記
7. エピローグ - 注文の多い料理店の “序”

武満徹

2016年08月18日 | 音楽

稀代の作曲家は音楽だけでなく、出色の著作も数多く遺した。その中から62篇を厳選し、一冊にまとめた文庫オリジナル編集版。名曲『ノヴェンバー・ステップス』誕生秘話などの自作品の解説や、彼が愛した音楽・映画の評論、日々の随想、そして自作の小説等々、武満の関心の幅広さが窺われる。また音楽や人間を慈しむ彼の姿が、つづられた数々の言葉から垣間見られる。巻末に、現在の武満作品琵琶奏者である中村鶴城と編者との対談を収録。実演する立場から武満音楽の真髄を紹介する。

武満/徹
1930年、東京生まれ。清瀬保二に作曲を師事。1951年、湯浅譲二や秋山邦晴らと芸術グループ実験工房を結成。1957年、東京交響楽団の委嘱で「弦楽のためのレクイエム」を作曲。以後「地平線のドーリア」「ノヴェンバー・ステップス」など数々の名曲を発表。1996年逝去

小沼/純一
1959年、東京生まれ。早稲田大学文学学術院教授


マタイ受難曲 抜粋

2016年08月16日 | 音楽

ディスク:1

1. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第1部 第1曲:合唱「来たれ、娘たちよ、われと共に嘆け」
2. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第1部 第2曲:レチタティーヴォ「イエスこれらの言をみな語り終えしのち」(福音史家/イエス)
3. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第1部 第3曲:コラール「心より慕いまつるイエスよ、汝いかなる罪を犯せるとて」
4. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第1部 第26曲:アリア「われはわがイエスのもとに目覚めおらん」(テノール/合唱)
5. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第1部 第33曲:二重唱アリア「かくてわがイエスはいまや捕らわれたり」(ソプラノ/アルト/合唱)
6. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第1部 第35曲:コラール「人よ、汝の大いなる罪を悲しめ」
7. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第2部 第36曲:アリア「ああ、いまやわがイエスは連れさられぬ!」(アルト/合唱)
8. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第2部 第45曲:レチタティーヴォ「さてペテロは外に出て中庭に坐しいたるに」(福音史家/第1の下女/ペテロ/第2の下女)
9. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第2部 第46曲:合唱とレチタティーヴォ「たしかに汝も、かの一味なり」(合唱/福音史家)
10. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第2部 第47曲:アリア「憐れみたまえ、わが神よ」(アルト)
11. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第2部 第58曲:アリア「愛よりしてわが救い主は死にたまわんとす」(ソプラノ)
12. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第2部 第59曲:レチタティーヴォ「彼らますます声を大にして叫びて言う」(福音史家/合唱/ピラト)
13. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第2部 第71曲:レチタティーヴォ「昼の十二時より地の上のあまねく暗くなりて」(福音史家/イエス/合唱)
14. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第2部 第72曲:コラール「いつの日かわれ去り逝くとき」
15. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第2部 第73曲:レチタティーヴォ「見よ、そのとき神殿の幕、上より下まで真っ二つに裂け」(福音史家/合唱)
16. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第2部 第75曲:アリア「わが心よ、おのれを潔めよ」(バス)
17. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第2部 第77曲:伴奏付きレチタティーヴォ「いまや主は憩いの床に安置されぬ」(バス/テノール/アルト/ソプラノ/合唱)
18. マタイ受難曲 BWV244(抜粋) 第2部 第78曲:終結合唱「われら涙流しつつひざまつき」
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J.S.バッハ《マタイ受難曲》第1部全曲 カール・リヒター(1958) -

2016年08月15日 | 音楽

マタイ受難曲 (Matthäus-Passion) とは、新約聖書マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲である。本稿ではヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下バッハ)の作品について述べる。

バッハのマタイ受難曲 (Matthäus-Passion) は新約聖書マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にし、聖句、伴奏付きレチタティーヴォ、アリア、コラールによって構成された音楽作品である。BWV244。台本はピカンダー(Picanderは「かささぎ男」という意味の筆名であり、本名クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ、あるいはヘンリーキ)による。正式なタイトルは「福音史家聖マタイによる我らの主イェス・キリストの受難Passion unseres herrn Jesu Christi nach dem Evangelisten Matthäus」となる。

バッハが作曲したとされる受難曲は、マタイ受難曲(2作あったとされるが、「2作目は合唱が2組に分けて配置される」という記述の目録があるので、現在伝わっているのは2作目あるいは何らかの改作後の方であることがわかる)のほか、ヨハネ受難曲(BWV245、1724年)、ルカ受難曲(BWV246)、マルコ受難曲(BWV247、1731年)の計4つが数えられるが、ルカ受難曲は真作と見なされておらず、マルコ受難曲は台本のみが現存し、他は消失している。


U2

2016年07月18日 | 音楽

デビューからオリジナルメンバーの変更なく活動しているバンドで、これまでに発表した作品は世界中のファンから支持されており数多くの賞を受賞している。中でもグラミー賞獲得数22作品は“ロックバンド史上最多”となっている。2005年には「ロックの殿堂」入りもしている。

世界に渦巻く社会問題を楽曲のテーマとしている。宗教紛争反核運動アパルトヘイトなどの人権問題、薬物依存症などについてメッセージ性の強い曲を発表、チャリティー・イベントにも積極的に参加している。特に、メンバーの中でボノはアフリカの貧困救済やアムネスティ・インターナショナルジュビリー2000ONE Campaignなどの慈善事業に深く関わっており、2006年にはアフリカの後天性免疫不全症候群(AIDS)対策プログラム支援ブランド「RED」を設立している。

また、コンサートの規模や動員数でも話題となるバンドであり、『Vertigo Tour』は2005年のコンサート収益1位を記録。『U2 360° Tour』は、2011年のコンサート収益1位を記録し、“歴史上最も成功したツアー”として認定されている。米経済誌フォーブス誌が2011年6月に発表した「世界中で最も稼いでいるミュージシャン」では、1億9,500万ドル(日本円に換算すると約156億円)になり第1位とされた。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第22位にランクインしている。

トータルセールスは、1億7,000万枚超と言われている。


U2 1990-2000

2016年07月17日 | 音楽

ベーシックなロックスタイルをさらに追求しつつ、エレクトロニックサウンドやダンス&テクノビートも取り入れた革新的なサウンド、ざん新な映像、ストーリー性のある巨大ツアー、圧倒的なカリスマ性と、ロックの可能性を最大限に引き出した1990年代のU2。このベストアルバムは、絶頂期を迎えるに至ったU2の「チャレンジ」が凝縮された1枚だ。
   DISC1には、第43回グラミー賞最優秀楽曲賞、最優秀レコード賞に輝いた大ヒット曲DISC1などのヒットチューンはもちろん、オリジナルアルバム未収録のDISC1(映画『バットマン・フォーエヴァー』主題歌)、さらに、幻想的なエレクトリカルサウンドをバックに、ボノの歌声が力強く広がるDISC1(ウィリアム・オービットがプロデュース)やDISC1といった新曲も収録されている。(速藤年正)


U2 1980-1990

2016年07月16日 | 音楽

   本作の最初の音、つまり「Pride (In the Name of Love)」のイントロで鳴り響くエッジのギターを耳にするなり、1984年の記憶が鮮やかによみがえる。その年、西欧社会ではロナルド・レーガンとマーガレット・サッチャーが幅を利かせ、スポーツニュースではロサンゼルス・オリンピックがトップを飾り、ゲームセンターではミス・パックマンが大流行していた。 そしてロックンロールの世界では、U2がニューアルバムとそのツアーで著しい成長を見せていた。このアイルランドの若者たちに懐疑的だった者でさえ、彼らが80年代を代表するバンドになったことを認めざるをえなかった。期待のしぼみつつあった80年代のロック界にあって、バンドにはすでに、かつてロックが誇っていたラジオエアプレイ数とステージワークを継承するスケール感と技量が備わっていた。この80年代のベスト選曲の15曲(最後に隠しトラックが用意されている)では、ボーカルのボノと仲間たちが聖歌隊のごとき繊細さと情熱をみなぎらせていた1980年の「I Will Follow」に始まり、最大の汚点である1988年の仰々しい『Rattle and Hum』におよぶバンドの軌跡を追っている。(Steven Stolder, Amazon.com)


Amy Jade Winehouse

2014年07月27日 | 音楽

Amy Jade Winehouse (14 September 1983 ? 23 July 2011) was an English singer-songwriter known for her deep contralto vocals and her eclectic mix of musical genres, including soul (sometimes labelled as blue-eyed soul), rhythm and blues, jazz and reggae. Winehouse's 2003 debut album, Frank, was a critical success in the UK and was nominated for the Mercury Prize. Her 2006 follow-up album, Back to Black, led to five 2008 Grammy Awards, tying the record at that time for the most wins by a female artist in a single night, and made Winehouse the first British female to win five Grammys, including three of the general field "Big Four" awards: Best New Artist, Record of the Year and Song of the Year.

Winehouse won three Ivor Novello Awards: in 2004, Best Contemporary Song for "Stronger Than Me"; in 2007, Best Contemporary Song again, this time for "Rehab"; and in 2008, Best Song Musically and Lyrically for "Love Is a Losing Game". She won the 2007 Brit Award for Best British Female artist, having also been nominated for Best British Album, with Back to Black.

After years of abusing drugs, then alcohol, Winehouse died of alcohol poisoning on 23 July 2011. Her album Back to Black posthumously became the UK's best-selling album of the 21st century, at that point. In 2012, Winehouse was ranked 26th on VH1's 100 Greatest Women In Music. The BBC has called her "the pre-eminent vocal talent of her generation".

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THEE MICHELLE GUN ELEPHANT

2014年04月27日 | 音楽

THEE MICHELLE GUN ELEPHANT(ミッシェル・ガン・エレファント)は、日本ロックバンド。俗称として『ミッシェル』や『TMGE』が用いられる。1960年代から1970年代のパンク・ロックパブロックガレージロックからの影響を濃く見受けられるサウンドが特徴。1991年に結成され、2003年に解散した。

アベ フトシ(本名:安部 太、1966年12月16日 - 2009年7月22日)は日本ギタリストロックバンドTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTギター担当として活動していた。広島市中区江波出身。広島工業大学高等学校卒業。身長187cm。血液型A型。

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ロックの歴史

2014年04月26日 | 音楽

【1960年~1964年 サーフィン・ホットロッド/リバプール・サウンド】

ロックはボーカル中心の音作りが基本だが、1958年登場のデュアン・エディと1960年登場のベンチャーズによってエレキギターを前面に押し出したサウンド、インストルメンタルの存在が確定的になった。
その流れで1961年頃カリフォルニアでサーフィンの感覚をエレキギターで表現したインスト、サーフミュージックが登場。それにボーカルを加えたビーチ・ボーイズが代表格となる。
歌詞の内容がホットロッド・レース(自動車レース)にまで広がり、「サーフィン・ホットロッド・サウンド」が誕生した。
イギリスでは1962年登場のビートルズによりロックンロールの存在が確立された。
その後登場した数々のビート系バンドの多くがリバプール(ビートルズの出身地)だったため「リバプール・サウンド」と呼ばれた。

<代表的なミュージシャン/グループ>
・デュアン・エデ
・ベンチャーズ
・ビーチ・ボーイズ
・クリフ・リチャード
・ビートルズ


【1964年~1965年 ブリティッシュ・インヴェイジョン/フォーク・ロック】

1964年のビートルズアメリカ上陸に続き、ローリング・ストーンズ、ザ・フーなどのイギリスのロックバンドが次々とアメリカでヒットする。これをブリティッシュ・インヴェイジョン(イギリスの侵略)と呼ぶ。
その影響を受けフォーク・グループが次々と登場し、フォーク・ロックへと進化して行く。

<代表的なミュージシャン/グループ>
・ビートルズ
・ローリング・ストーンズ
・ザ・フー
・ボブ・デュラン
・バーズ
・ママス&パパス
・バッファロー・スプリングフィールド


【1966年~1968年 サイケデリック・ロック/ブルース・ロック】

ギターサウンドでの表現方法に変化が起こる。それまで真空管アンプによるナチュラルな歪みが主流だったが、フィードバックサウンドやファズ(エフェクター)が生まれ、よりへヴィで豊かな表現が可能となる。その後のロックサウンドを決定付けた。
ファズ、ワウを駆使したブルージーでハードな演奏の「ブルース・ロック」が生まれた。
その代表格がエリック・クラプトン在籍のクリーム、ジミ・ヘンドリックスである。
エフェクターによる実験的なサウンド作りは続いた。テープエコーやチェンバーなどを駆使し、ドラックによるトリップ感覚を表現したサイケデリック・ロックが生まれた。
またジャンルの融合、上記の「ブルース・ロック」や「カントリー・ロック」も生まれた。

<代表的なミュージシャン/グループ>
・クリーム
・ジミ・ヘンドリックス
・ドアーズ
・ピンク・フロイド
・ホークウィンド