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一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

終戦日記

2012年10月16日 | 終戦日記
  • 芦田均日記』 岩波書店全7巻、主に記述はGHQ下での占領期である(現代史を書くため、詳細な記録を残した)、柏書房で戦前の部が刊行。
  • 石橋湛山日記 昭和20年~31年 (2巻組)』 みすず書房伊藤隆ほか編
  • 伊藤整 『太平洋戦争日記』 新潮社全3巻、没後に刊行
  • 入江相政日記朝日新聞社全6巻、朝日文庫全12巻-日記は没時まで書き続けた。
  • 内田百間 『東京焼尽』※ 中公文庫(新版も刊)/ ちくま文庫〈内田百間集成22〉
    • 『百鬼園戦後日記』 小澤書店 上下巻 / 新版 ちくま文庫〈内田百間集成23〉
  • 海野十三敗戦日記』 橋本哲男編、中公文庫BIBLIO/初版講談社、1971年
  • 大佛次郎 『終戦日記』 草思社/新版 文春文庫。執筆当時の書簡・エッセイを増補
  • 木戸幸一日記』※ 東京大学出版会全2巻-続編に『木戸幸一日記 「東京裁判期」』
  • 清沢洌 『暗黒日記』 評論社/ 新版 ちくま学芸文庫全3巻-橋川文三編・解説
  • 重光葵手記』 正・続、中央公論社(日記ではなく、終戦前後の覚書)-伊藤隆ほか編
  • 島尾敏雄日記』 新潮社、2010年-「加計呂麻島敗戦日記」、「終戦後日記」
  • 高見順日記』、全日記は没後に勁草書房で全17巻が出版。
    • 高見順 『敗戦日記』※ 文春文庫/ 新版・中公文庫
    • 高見順 『終戦日記』※ 文春文庫、続編
  • 高松宮宣仁親王高松宮日記』 中央公論社全8巻-大正10年から昭和22年まで記述。
  • 徳川義寛終戦日記』 朝日新聞社-御厨貴・岩井克己監修
  • 徳川夢声 『夢声戦争日記 昭和16-20年』※ 中央公論社全5巻、中公文庫全7巻
    • 『夢声戦争日記 抄 敗戦の記』 中公文庫BIBLIO
  • 徳富蘇峰 『終戦後日記 頑蘇夢物語』 講談社全4巻-近年発見された
  • 永井荷風断腸亭日乗』※ 岩波書店「全集」全6巻ほか
    • 『摘録 断腸亭日乗』 岩波文庫上下 -磯田光一編、多くの解説本が公刊
  • 中野重治 『敗戦前日記』 中央公論社-松下裕編・解説
  • 野口富士男 『海軍日記 最下級兵の記録』※ 文藝春秋
  • 福永武彦戦後日記』 新潮社-池澤夏樹解説 
  • 古川ロッパ古川ロッパ昭和日記晶文社全4巻-大著、滝大作監修
  • 細川護貞 『細川日記』※ 中央公論社と中公文庫(上下)
  • 武藤章 『比島から巣鴨へ』、中公文庫-巣鴨日記も含む
  • 矢部貞治日記』(全4巻:同刊行会編、読売新聞社、1974-75年) 、没時まで書き続けた。
  • 山田風太郎 『戦中派不戦日記』※ 講談社文庫/ 新版 角川文庫 
    • 『戦中派虫けら日記』※ ちくま文庫-戦争前半の日記、戦後の続編も没後公刊(小学館
  • 渡辺一夫敗戦日記』 博文館新社二宮敬編・解説-前半部は『著作集 14巻』(筑摩書房)に所収

  • 小森陽一「天皇の玉音放送」(2008)

    2012年10月16日 | 終戦日記

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    「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び……」、毎夏ここばかりが繰り返される玉音放送(終戦の詔勅)の、全文を目にしたことはあるだろうか? 「終戦の詔勅」をはじめ、昭和天皇ヒロヒトの名で発表された詔勅の一語一文を再検討し、そこから浮かび上がる天皇の「戦争責任」と「戦後責任」を問い直す。文学者ならではの視点から多数の資料を緻密に考証し、戦後日本の本質に迫る。


    大佛次郎「終戦日記」

    2012年10月16日 | 終戦日記

    大佛次郎
    明治30(1897)年、横浜市生れ。本名・野尻清彦。長兄は英文学者の野尻抱影。大正10(1921)年、東京帝国大学政治学科を卒業後、鎌倉高等女学校(現・鎌倉女学院高等学校)教師となったが、翌年外務省条約局勤務(嘱託)に。13年、鎌倉の大仏の裏手に住んでいたことに由来する大佛次郎の筆名で、「隼の源次」、ついで「鞍馬天狗」シリーズ第一作「鬼面の老女」を発表、作家活動をはじめる。時代小説から現代小説、歴史小説、ノンフィクション、エッセイと幅広いテーマとスタイルで多くの作品を手がけた。昭和48(1973)年4月30日逝去。


    永井荷風「断腸亭日乗」(197.9.16-1959.4.29)

    2012年10月16日 | 終戦日記

    断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)は、永井荷風日記。1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで、激動期の世相とそれらに対する批判を、詩人の季節感と共に綴り、読み物として近代史の資料としても、荷風最大の傑作とする見方もある。

    1917年分を第一巻、1918年分を第二巻……とし、和紙に墨書して綴じたが、敗戦の1945年秋以降は仮綴じとなり、さらに1947年以降は大学ノートへのペン書きとなった。

    戦後に公刊されるまで、(戦前は)当局の筆禍を怖れ知友にも見せなかった。製本の師に対してさえ、そうだった。荷風が日記を付けているとの噂がもれ、危険な記述を消し、下駄箱に隠して外出するなど用心したが、やがてその怯懦を恥じて廃した。

    名文と評される漢文調で綴られている。その日の天候、家事、来客、出版の商談、外出、食事、交友、散策先の状況、巷の風景、風俗、世相、噂、物価、体制批判、読書、読後感などを記し、時に筆書きのスケッチ・地図も添える。交友の相手には女性も、外出先には遊郭・赤線地帯もあり、馴染んだ女性の名を列記してもいる。

    晩年まで読書を怠らず、江戸後期の版本とフランス語原書の文学作品を、読んだ記述が多数ある。対人関係(佐藤春夫・平井呈一など)に潤色があるとされるが、太平洋戦争末期の破滅的な生活風俗と荒み行く人心の記録は、『後車の戒』(『後世への戒め』)としても読みうる。『断腸亭日乗の頂点は、1945年3月9日、自宅の偏奇館焼亡の記述』とする論者が多い。

    その後の空襲罹災の逃避行でも、日記原稿を携え記述を続けた。1949年頃までは、読者を引き込ませる中身があるが、以降(とりわけ後半の数年間)は、没する前日まで、ほぼ一日一行の記述のみになっている。


    高見順「敗戦日記」

    2012年10月16日 | 終戦日記

    作家高見順は昭和18年4月、北鎌倉の円覚寺近くに住み着いた。ビルマ戦線での陸軍報道班員の仕事から帰国直後のことだった。彼はその後すぐに中国に駆り出されるが、この日記は中国から帰った昭和20年(敗戦の年)の1年を書き綴ったもの。鎌倉文庫(貸本屋)の繁盛の様子や、著名な文士たちの生活感や生き様など終戦前後の貴重な記録である。

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