一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

先崎彰容

2016年10月31日 | 社会

現代人の精神構造は、ナショナリズムとは無縁たりえない。アーレント、吉本隆明、江藤淳、丸山眞男らの名著から国家とは何かを考え、戦後日本の精神史を読み解く。

国家を考えることは、人間の根源的なあり方を考えることだ。第二次大戦後のリベラル・デモクラシー体制への違和を表明したアーレントや吉本隆明は「全体主義」の中に何を見て、いかなる国家を構想したのか。江藤淳や橋川文三、丸山眞男らは、ナショナリズムをめぐりいかなる思想的対決をくり広げたか。数々の名著から、ナショナリズムと無縁たりえぬ現代人の精神構造を明らかにし、国家の問題を自らの課題として引き受けることの重要性を提起する。注目の若手思想史家の論考。

先崎彰容
1975年生まれ。東京大学文学部倫理学科卒業。東北大学大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。文学博士。現在、東日本国際大学准教授。専攻は近代日本思想史・日本倫理思想史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


塩川伸明

2016年10月30日 | 社会

地域紛争の頻発や排外主義の高まりの中で、「民族」「エスニシティ」「ネイション」「ナショナリズム」などの言葉が飛び交っている。だが、これらの意味や相互の関係は必ずしかも明確ではなく、しばしば混乱を招いている。国民国家の登場から冷戦後までの歴史をたどりながら、複雑な問題群を整理し、ナショナリズムにどう向き合うかを考える。

塩川伸明
1948年生まれ。1979年東京大学大学院社会学研究会(国際関係論)博士課程単位取得退学。現在、東京大学大学院法学政治学研究科・法学部教授。専攻はロシア現代史・比較政治論


浜崎洋介

2016年10月29日 | 社会

<著者より>
本書は、文芸批評家・演劇人・翻訳者・国語改革反対論者・保守論壇人などの顔をあわせ持つ福田恆存において、その基礎にある思考を発見し、様々な役割を可能にした思想の全体像を、その一貫した〈かたち〉の中に描き出そうとしたものである。
序章では、戦後の代表的保守論壇人である江藤淳・三島由紀夫・清水幾太郎などと福田恆存との差異を描くことで、まず福田を色づけされた政治イデオロギーから救い出すことを試みた。その上で、一章では戦前における福田恆存の作家論と保田與重郎との関係を跡づけ、近代が使嗾する〈自意識=イロニー〉をその限界まで追い込んだ初期福田の思考を追跡し、二章ではD・H・ロレンスを通じた福田の芸術・演劇論を論じながら、〈自意識=イロニー〉が駆動する「批評精神」の臨界で、ついに自然を「演戯」する「芸術行為」へと転回していった福田の足取りを見届けた。また、三章では、国語改革批判や60年安保闘争批判を支えていた保守的態度の構えなどを検討しながら、「芸術行為」のうちに生きられる〈全体性=自己を超えたもの〉を、私を超越した背後世界にではなく、私の輪郭を型どる「言葉」のなかに捉え返していった福田恆存の思考を跡づけた。
そして、以上の議論を通して本書は、福田恆存の思想の全体像を、その〈原点(イロニー)―転換点(演戯)―決着点(言葉)〉として見出し、「私」が他ならぬ「私」であるという事実のなかに既に過去という他者が、つまり〈自然・歴史・言葉〉という条件が生きられていることへの自覚と、その自覚が導く福田の実践倫理、あるいはユーモアのあり方を見定めようとしたのである。いいかえれば、本書は、福田の言葉を通して、近代的個人が人を信じ、愛することは可能なのかと問い、なお、その不可能性の自覚から、「近代」の原理に代わる価値を見出そうとしたということである。むろん、だからといって福田が、安易に超越性(神)を語ったということではない。むしろ福田は、浮動し、猜疑し、嫉妬する近代世界を前に、「伝統」という名の「宿命」を、そして、その盲目的受容のなかに生きられる人々との「附合い」を語った。その関係の手応えだけが、単なる超越的理念ではない絶対性(かけがえのなさ)を、物質的・社会的な「快楽」(社会的進歩・自由)ではない「幸福」をもたらすというのは、ほとんど福田恆存の確信だったのである。(浜崎洋介)

革新派はもとより保守派をも批判して、「保守反動」と見なされた福田。その思想の一貫性と現代性を、彼のテキストにもとづきながら、「生き方・歩き方」の問題として甦らせる、気鋭の力作評論。

浜崎洋介
1978年生まれ。日本大学芸術学部卒業。東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程修了(学術博士)。現在、文芸批評家・東京工業大学非常勤講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


古市 憲寿

2016年10月28日 | 社会

1985年東京都生まれ。

東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。慶應義塾大学SFC研究所訪問研究員(上席)。
専攻は社会学。

若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した著書『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)、世界の戦争博物館を巡り戦争と記憶の関係について考察した『誰も戦争を教えてくれなかった』(講談社)などで注目される。

内閣府国家戦略室「フロンティア分科会」部会委員、「経済財政動向等についての集中点検会合」委員、内閣官房行政改革推進本部事務局「国・行政のあり方に関する懇談会」メンバー、「クールジャパン推進会議」委員などを務める。日本学術振興会「育志賞」受賞。

日本社会にひそむ様々なズレについて考察した『だから日本はズレている』(新潮新書)は10万部を突破。


伊藤 邦武

2016年10月27日 | 社会

これからの世界を動かす思想として、いま最も注目されるプラグマティズム。アメリカにおける誕生から最新の研究動向まで、その全貌を明らかにする決定版入門書。

一九世紀後半にパースが提唱し、ジェイムズが定義づけたプラグマティズムは、従来の西洋哲学の流れを大きく変えた。二〇世紀半ばにはクワインによって再生されたことで、今やアメリカ哲学の中心的存在となったその思想運動は、いかなる意味で革命的だったのか。プラグマティズム研究の日本における第一人者が、その本当の狙いと可能性を明らかにし、アメリカでの最新研究動向と「これからのプラグマティズム」を日本で初めて紹介。いま最も注目される哲学の全貌を明らかにする。

伊藤/邦武
1949年神奈川県生まれ。龍谷大学文学部教授。京都大学名誉教授。専攻は分析哲学・アメリカ哲学。京都大学大学院文学研究科博士課程修了


中野剛志

2016年10月26日 | 社会

幕末の危機に際して、優れた国家戦略を構想した会沢正志斎。尊王攘夷を唱えつつ、抜本的な内政改革を訴えた彼の『新論』はけっして無謀な排外主義ではなかった。むしろそのプラグマティックで健全なナショナリズムに学ぶべきところは大きい。正志斎の思想の秘められたルーツを伊藤仁斎、荻生徂徠の古学に探り、やがてその実学の精神が福沢諭吉の戦略思想に引き継がれていることを解明。隠された思想の系譜を掘り起こし、現代日本人が求めてやまない国家戦略の封印を解き放つ。

中野/剛志
1971年生まれ。京都大学大学院工学研究科准教授。専門は経済ナショナリズム。東京大学教養学部卒業。エディンバラ大学より博士号取得(社会科学)。経済産業省産業構造課課長補佐を経て現職。イギリス民族学会Nations and Nationalism Prize受賞


柴山 桂太

2016年10月25日 | 社会

暴走するグローバル化で、世界秩序が崩壊!
暴走するグローバル経済が世界秩序を崩壊させ、社会は極度に不安定化。これに耐えうるのは「大きな政府」しかないというジレンマ。大恐慌の本質とグローバル化の反転という危機を精緻に描く!

<集英社新書創刊15周年フェア>
グローバル化が壁にぶつかり、「世界秩序」の崩壊が始まる! 本書で述べられた予想が、恐ろしいほど次々と「現実」となっている。この若き知性に瞠目する。――水野 和夫

世界は「静かなる大恐慌」に突入した。危機的なのは経済だけではない。国際政治は、一九二九年の世界大恐慌をはさんだ、ふたつの世界大戦の時代と同じコースを歩み始めた。グローバル化が必然的に招く、社会の不安定化と経済の脆弱化。これに耐えるシステムは、通説とは逆に「大きな政府」の復活しかない、という歴史の趨勢に我々は逆らうことはできないのだ。このグローバル化の行きづまり、急反転というショックを日本はいかに生き抜くか。経済思想、国際関係論、政治・経済史の知見を総動員して、新進気鋭の思想家が危機の本質と明日の世界を精緻に描き出す。


イヴァン・イリイチ 「シャドウ・ワーク」

2016年10月24日 | 社会

イリイチの心の先生はカール・ポランニーである。
 ポランニーからイリイチが学んだことは、近代史というものは市場経済が埋めこまれた状態からの離床として理解できるはずだという見方だった。そこには「貨幣化される社会活動」と「貨幣化されにくい領域」とが同時に発生していた。
 イリイチはその後者をまずもって「シャドウ・エコノミー」(影の経済)ととらえる。しかし、ここで注意するべきことは、このことを理解していないのはわれわれ生活者であって、すでに政府や企業はこの両者のことを一知半解に知っているということ、すなわち誤って知っているということ、また、この両者ともに人間生活のサブシステンスを破壊しているということである。


『夕暮まで』

2016年10月23日 | 日本文学

 ある若い人が最近、吉行淳之介の文体に惹かれるものを感じたので読んでみたいと思っていると話してくれた。

 吉行の作品は学生時代のある時期、かなり熱心に集中して読んだことがあって、もう題名はほとんど忘れたけれども長中短篇の小説の世界には孤独や憂愁や寂寥の気分が濃く立ちこめていてその極上の読後感の余韻が今でも幽かに残っている。「軽薄のすすめ」(これくらいしか名前を覚えていない)ほかのエッセイや対談も面白くてけっこうたくさん読んだと記憶している。

 

 吉行淳之介をめぐっていくつか思い浮かぶことがあった。たとえば村上春樹のデビュー作を吉行淳之介が高く評価し、その村上が『若い読者のための短編小説案内』で吉行の「水の畔り」を取りあげていたこと。(そしてその「水の畔り」が、村上の短篇集『神の子どもたちはみな踊る』に収められた「UFOが釧路に降りる」に通じているのではないかと思ったこと。)

 またつい先日読み終えたばかりの丸谷才一著『樹液そして果実』に収録された「『暗室』とその方法」という文章(「中央公論」1994年9月号に掲載されたもの、ちなみに吉行は1994年7月26日に死去)に、戦後はじめて出来た東大英文科卒業生・在学生・休学者の名簿が夏目金之助ではじまり吉行淳之介で終わっていたと紹介されていたこと。そして吉行の作品から一冊だけあげるなら「暗室」だろう、その主題は「誕生と交合と死によつて規定されてゐるわれわれの人生、この厄介なものの厄介さ」であって、この作品の「実に独創的な方法」に先行するものとしては「断章が無雑作にはふり出されて、脈絡があるみたいでもあるし、ないやうでもある」趣をもった「伊勢物語」が心に浮かぶと書かれていたこと。「そして吉行さんの文学に王朝の色好みに通じるものがあるといふのは、かなりの人の認めるところだらう。」

 ついでに書き足しておくと「暗室」は同じ随筆仕立ての小説でも「墨東綺譚」の遥か上をいき、もう一つの随筆体小説、川端康成の「禽獣」は短篇なので比較はしないが、川端のいわゆる「末期の眼」とは違うずっと成熟したゆったりしたものの見方を吉行の描く小説家(「暗室」の語り手兼主人公の中田)に感じると書かれていたこと。

 さらにさらに書き加えておくと「人はよく吉行淳之介の作品に濛々とたちこめる死と虚無の匂ひについて言ふ。もちろんそれは正しい。しかし、たとへば孤独の深さを味はひつくすためには社交の達人であることが必要なやうに、死と虚無をよく知るならば生きることへの意志を持つてしまふだらう。」云々の作家評にふれて、かつて座談の名手と呼ばれ艶福家(と言うと少しニュアンスが違う、女性遍歴者か)として鳴らし「腿(もも)尻三年、胸八年」(ネット上には「桃尻三年、乳八年」とか「モモ膝三年、尻八年」などの諸説あり)なる名言を吐いた生前の吉行淳之介の顔かたちが思い浮かんできた。

 要するにかつて憧れ痺れた吉行淳之介の文章をそろそろ再読してみるかと思い始めていた矢先だった。

 吉行の名を聞いた時それらのことが一気に心中に浮かんできたのだが、なぜだがそれを口にするのは話を合わせて迎合しているように思われはしまいかと躊躇われ話題はそのうちほかへ流れていった。

 社会人になってから吉行の文章を読むことは絶えた。思い起こせば就職した年に刊行されたのが『夕暮まで』だった。まずこの(流行語を生んで評判になった)未読の作品から読んでみることにした。

 その若い人が読んでいるというので『子供の領分』も買い置きした。ここに収められた短篇はもしかしたら読んでいるかもしれない。

 

 これは後日談だが、その同じ人から梨木香歩にもはまっていると聞かされて再度驚いた。というのもこの春先、大阪勤務になった記念にというか近づきのしるしに大阪で建築事務所を開いている同年齢の親戚と仕事帰りに一杯やって別れ際によかったら読んでみてと渡されたのが梨木香歩の『家守綺譚』。

 基本的に人が薦める本を素直に読めない性質(たち)なのだがこの作者には妙にそそられるものを感じて、機会があれば読む待機本に分類して常備しておいた。これを機会に読んでみようと思っているが、しかしここまで偶然の一致が続くとちょっと怖い。

 以上の話とは関係なく、昔愛読した作家の作品を時を隔てて読みかえすのは読書の歓び、醍醐味これに尽きることだと思う。

 いま学生の頃の印象深い作家や作品を思い浮かぶまま挙げてみると、高見順(『嫌な感じ』や『如何なる星の下に』)、石川淳(評論、夷齊もののエッセイ)、五木寛之と野坂昭如。そして吉行淳之介から開高健へ移ろい名作『夏の闇』にめぐりあった。

 

     ※

 吉行淳之介のことを話してくれた人との会話のなかで、原発と自動車は同じかということが話題になった。原子力発電所の電気を使うのと自動車を利用するのとは同じことだという意見に、いやそれは違うんじゃないかなと咄嗟に応じたものの、なぜどうして「違う」のかは自分でもよく分からなかった。

 その時は『大津波と原発』で読んだ中沢新一さんの「原発=神殿」説をもちだして、原子力を制御するのは一神教の神を制御するほどに難しいことなのだから云々と我ながら訳の分からない話でお茶を濁した。

 後から考えたのは、第一に自動車を利用するかどうかは個人の判断で選択できるが原発はそうではない、第二に簡単で便利な高速移動手段は自動車しかないが電力を安定的に供給する方法は原発だけではない、第三に自動車の原理や技術の基本は確立しているが原発の制御はそうではない(原理的にも技術的にも未知の領域が多すぎる)の三点だった。

 第二、第三の点はあまり自信がない。特に第三の理由はほんとうにそうなのかよく分からない。このことを考えたいと思って、『大津波と原発』のもとになったラジオデイズでの内田樹・平川克美との鼎談「いま、日本に何が起きているのか?」が配信された4月5日の翌日から書き始められたという『日本の大転換』を読むことにした。

 中沢新一さんは「パンフレット」と呼んでいる。パフレットといえば「共産党宣言」を想起する。本書は、鼎談で「「緑の党」みたいなもの」の立ち上げを宣言した著者が最後に約束した「宣言と綱領」にあたるものだと思う。

 

 田口本(『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ──原子力を受け入れた日本』)は中沢本を買おうと思っていた日の朝、新聞広告でふと目にとまったので併せて購入した。

 ひと頃は「好きな作家は?」と問われれば「村上春樹と保坂和志と田口ランディ」と答えることに決めていた(一度だけ聞かれたことがある)。しばらく遠ざかっていたものの、最近関心が高まってきていた。


山本正嘉 鹿屋体育大学

2016年10月22日 | 健康・病気

1.低酸素環境や高酸素環境を利用した、新しいトレーニング法の開発→本学に設置された低酸素室や高酸素室を利用して、従来よりもさらに効果の高いトレーニング法を開発するとともに、一流選手の養成も図っている。

2.筋のさまざまな能力 (瞬発力、持久力、疲労、回復など) に関する基礎的な研究や、それらの能力を改善するためのトレーニング、コンディショニング方法に関する研究→従来は個別に研究されてきたこれらの能力について、筋活動の原動力となる3種類のエネルギー供給系の関与の仕方という視点から包括的に捉え、より簡素な理論体系と普遍性の高いトレーニング・コンディショニング体系の構築を目指している。

3.登山やアウトドアスポーツの運動生理学やトレーニング科学に関する研究→一般的な登山はもとより、高所登山やスポーツクライミングといった尖端的な分野に至るまで、より安全に、あるいはより高度に行えるような方法論を確立するための実践的研究を行っている。


みかんの丘

2016年10月21日 | 映画

エストニアとジョージアの合作映画で、みかん畑で働く2人のエストニア人が敵同士の傷ついた兵士を看病する姿を通じ、戦争の不条理さを描いた。アブハジア自治共和国のエストニア人集落。この集落ではみかん栽培が盛んだったが、ジョージアとアブハジア間の紛争により、多くの人が帰国してしまった。しかし、みかんの収穫が気になるマルゴスと、みかんの木箱作りのイヴォの2人は集落にとどまっていた。ある日、マルゴスとイヴォは戦闘で負傷した2人の兵士を自宅で介抱する。1人はアブハジアを支援するチェチェン兵、もう1人はジョージア兵で、彼らはお互い敵同士だった。同じ家に敵兵がいることを知った兵士たちは殺意に燃えるが、イヴォは家の中では戦わせないことを告げ、兵士たちは戦わないことを約束する。数日後、事実上アブハジアを支援するロシアの小隊が集落にやってきた。


「グラン・トリノ」2008

2016年10月20日 | 映画

『ミリオンダラー・ベイビー』以来、4年ぶりにクリント・イーストウッドが監督・主演を務めた人間ドラマ。朝鮮戦争従軍経験を持つ気難しい主人公が、近所に引っ越してきたアジア系移民一家との交流を通して、自身の偏見に直面し葛藤(かっとう)する姿を描く。イーストウッド演じる主人公と友情を育む少年タオにふんしたビー・ヴァン、彼の姉役のアニー・ハーなどほとんど無名の役者を起用。アメリカに暮らす少数民族を温かなまなざしで見つめた物語が胸を打つ。

 

あらすじ

妻に先立たれ、息子たちとも疎遠な元軍人のウォルト(クリント・イーストウッド)は、自動車工の仕事を引退して以来単調な生活を送っていた。そんなある日、愛車グラン・トリノが盗まれそうになったことをきっかけに、アジア系移民の少年タオ(ビー・ヴァン)と知り合う。やがて二人の間に芽生えた友情は、それぞれの人生を大きく変えていく。


国連気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)

2016年10月19日 | 社会

「パリ協定」の採択

 新たな法的枠組みとなる「パリ協定」を含むCOP決定が採択された。「パリ協定」においては、

  • 世界共通の長期目標として2℃目標のみならず1.5℃への言及
  • 主要排出国を含むすべての国が削減目標を5年ごとに提出・更新すること、共通かつ柔軟な方法でその実施状況を報告し、レビューを受けること
  • JCMを含む市場メカニズムの活用が位置づけられたこと
  • 森林等の吸収源の保全・強化の重要性、途上国の森林減少・劣化からの排出を抑制する仕組み
  • 適応の長期目標の設定及び各国の適応計画プロセスと行動の実施
  • 先進国が引き続き資金を提供することと並んで途上国も自主的に資金を提供すること
  • イノベーションの重要性が位置づけられたこと
  • 5年ごとに世界全体の状況を把握する仕組み
  • 協定の発効要件に国数及び排出量を用いるとしたこと
  • 「仙台防災枠組」への言及(COP決定)

が含まれている。


天狗岳

2016年10月18日 | 

天狗岳は東西二峰からなり、東天狗岳にある天狗岩と呼ぶ岩塔を天狗の鼻に見立てた山名と考えられる。東天狗岳は、長野県茅野市と同南佐久郡小海町の境に位置している。縦走路上にある東天狗岳は男性的にそびえ立っているが、縦走路から外れた西天狗岳は2646mの二等三角点をもつものの、その山容はずんぐりとしており、西尾根が唐沢鉱泉へと下っている。また、北側の黒百合平との間にある天狗ノ奥庭は、摺鉢池をはじめ点在するいくつかの小池とハイマツやコケモモ、ミネズオウなどに彩られた別天地である。
 佐久側に東壁と呼ばれる大断崖をもつ東天狗岳の展望は、硫黄岳の火口壁、北アルプスをはじめ北八ヶ岳の山と森のうねりを、太古の眠りそのままに望見することができる。また、周囲には根石岳、箕冠山、稲子岳がある。東天狗岳と根石岳の鞍部は、白い砂に緑のハイマツが映える広々とした所で、南東に「白砂新道」が本沢温泉へ延びている。

 渋ノ湯から4時間弱、唐沢鉱泉からも4時間弱、稲子湯から4時間強、本沢温泉から白砂新道を経て4時間の行程。東西二峰の往復は各20分である。
 
 

気骨の判決

2016年10月17日 | 社会

1942年におこなわれた第21回衆議院議員総選挙では、各地で翼賛政治体制協議会の推薦を受けなかった候補に対する露骨な選挙干渉がおこなわれ、その結果落選した多くの候補者から選挙無効の訴えが選挙後、大審院におこされた。鹿児島2区から立候補し、落選した兼吉征司もまた大審院に選挙無効の訴えを起こし、大審院判事・吉田久がこの事件を担当することとなった。吉田は事件を担当する他の判事と共に、調査のために鹿児島県へと向かうが、判事団に対して県民たちは敵意をむき出しにした。

やがて、吉田が滞在する旅館に、何者かが、鹿児島県知事・木島浅雄が県下の教育関係者に対して出した、翼賛政治体制協議会の推薦候補への支持を呼びかける手紙を投げ込む。これを重要な証拠と見た吉田は国民学校長・伊地知健吉の反対を押し切って、木島を証人として裁判所に呼び出す。鹿児島を離れる前、吉田は伊地知と話し合い、実は伊地知が子ども思いの教師であり、教え子や地元の人びとを思って、翼賛政治体制協議会に協力したことを知る。

東京に戻った吉田は、やがて、警視総監に昇進した木島と再会する。木島は伊地知が自殺したことを伝え、自分の意志を貫こうとする吉田のやり方が周囲の人間を不幸にしていると暗に責める。それ以来、吉田や周囲の人びとに有形・無形の圧力が加えられていく。