一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

福田 恆存ノート

2012年10月31日 | 文学者

福田 恆存(ふくだ つねあり(有職読みで「ふくだ こうそん」とも)、1912年大正元年)8月25日 - 1994年平成6年)11月20日)は、日本評論家翻訳家劇作家演出家1969年(昭和44年)から1983年(昭和58年)まで京都産業大学教授を務めた。1981年から日本芸術院会員。

平和論への批判をした保守派論客であり、またウィリアム・シェイクスピア戯曲翻訳で知ら1947年(昭和22年)に『思索』春季号に発表された「一匹と九十九匹と」は、政治文学の峻別を説く内容で、「政治と文学」論争に一石を投じた。この一文をもって福田の代表作とみなす声も多い。

昭和20年代後半ごろから、文学への関心は次第に個別の作家論や文芸批評を離れていった。この時期の代表作は、芸術をより根本的に論じた1950年(昭和25年)の『藝術とは何か』(要書房)に加え、人間論にまで展開した1956年(昭和31年)の『人間・この劇的なるもの』(新潮社)などの著作である。

福田恆存の名を世間で有名にしたのは、進歩派全盛のなかでの保守派の論争家としての活動であった。1954年(昭和29年)に『中央公論』に発表した「平和論の進め方についての疑問」で、進歩派の平和論を批判。また戦後の国語国字改革を批判し、1955年(昭和30年)から翌年にかけての金田一京助たちとの論争で「現代かなづかい」・「当用漢字」の不合理を指摘した。その集大成が歴史的仮名遣のすすめを説く『私の国語教室』(新潮社、初版1960年(昭和35年)、読売文学賞受賞)である。著書は全て歴史的仮名遣で書かれたが、出版社の意向で文庫の一部等は現代かなづかいを用い出版された。れる。昭和戦後20世紀を代表する思想家として名高い。

イトケン>「平和論の進め方についての疑問」「常識に還れ」を読んだが、福田恒存のいわゆる保守派の言動という先入観から、解き放つ必要がある。いわゆるレッテルはなんら解決にはならないばかりで、むしろ違和感があることの方が真実を多く含んでいるのかも知れない。

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『キティ颱風』
著 福田恆存
1950年

資産家・大村浩平とその妻・大村咲子の邸宅は多くの人が集まりサロンとなっている。咲子を中心に回るサロンの人物関係はある事件をきっかけに崩壊の一途をたどる。

4幕構成。3幕で、タイトルにもなっている「キティ颱風」が上陸、その幕の終わりにたたみかけるように事件が起きる。4幕ではひたすら時間が流れる。
チェーホフの『三人姉妹』を読んでいるような感覚になる。
登場人物がやたらと多く、一度読んだだけでは人間関係を拾いきれなかった。


千夜一夜物語

2012年10月30日 | 世界文学

千夜一夜物語(: ??? ???? ??????,ペルシア語: ???? ? ?? ??? )は、アラビア語でまとめられた説話物語集である。

シャハリヤール王と弟シャハザマーン王との物語

昔々、インドとシナを支配する王に二人の息子がいた。兄のシャハリヤールと弟のシャハザマーンはそれぞれの国を治めていた。あるとき兄は弟に会いたくなり、使いをやって呼び寄せた。出発してすぐ兄への贈り物を忘れた事に気付いたシャハザマーンが宮殿へ取って返すと、妃が一人の奴隷と浮気の最中であった。彼は妃と奴隷を殺してから兄の国を訪れたが、傷心のためひどく塞いでいた。しかし兄の留守の間、シャハザマーンは兄の妃が二十人の男奴隷と二十人の女奴隷を相手に痴態の限りを尽くすのを目撃し、自分に起きた出来事はこれに較べればましだと思って元気を取り戻した。帰ってきたシャハリヤールは弟がすっかり明るくなったのを見て理由を尋ねた。弟が目撃した事を聞き、さらに自分の眼でそれを確かめると、シャハリヤールは衝撃のあまり弟と共に宮殿を後にして流浪の旅に出た。

ある海辺の一本の木の下で二人が休んでいる時に魔神がやってきた。二人が木に登って見ていると、魔神は頭の上の櫃から非常に美しい乙女を出し、その膝枕で眠り始めた。木の上の兄弟に気付いた乙女は二人に自分と性交するよう言い、しなければ魔神を起こして二人を殺させると脅した。怯えた二人は言うとおりにした。済むと乙女は、自分は婚礼の夜に魔神にさらわれきて今に至ること、しかしこれまで魔神が眠っている隙に五百七十人の男たちと性交したこと、なんとなれば女が何かをしたいと思えば何者もそれを抑える事など出来ないことを語って聞かせた。魔神でさえ自分達よりも酷い不貞に遭っていることに驚嘆した二人はそれぞれの都へ帰っていった。

宮殿に戻った兄のシャハリヤールはまず妃と件の奴隷達の首を刎ねさせた。そして大臣に毎晩一人の処女を連れて来るよう命じ、処女と寝ては翌朝になると殺すようになった。三年もすると都から若い娘は姿を消してしまったが、それでも王は大臣に処女を連れて来るよう命じた。この大臣には娘が二人いたが、恐怖と悩みにやつれた父を見て、姉娘のシャハラザードは自分を王に娶合わせるよう父に言った。王のもとに参上したシャハラザードは妹のドニアザードを呼び寄せた。王とシャハラザードの床入りが済むと、ドニアザードはかねて姉に言い含められたとおり姉に物語をねだった。古今の物語に通じているシャハラザードは国中の娘達の命を救うため、自らの命を賭けて王と妹を相手に夜通し語り始めた。千夜一夜の始まりである。


ベルサイユ条約1919年6月28日

2012年10月29日 | できごと

第一次世界大戦後の1919年6月パリ講和会議の結果として連合国ドイツとの間で締結された講和条約1919年6月28日にベルサイユ宮殿で調印。1920年1月10日批准。

ドイツは全植民地と本土の10%以上を失い、軍備の制限を受け、多額の賠償金を課せられた。

この条約ドイツ民族意識を高揚させ、ナチス政権誕生を導いた原因となった。以降の戦争ではその反省から敗戦国に多額の賠償金を課すことはなくなった。

1935年ヒトラー政権がこの条約を破棄。

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The Treaty of Versailles (French: le Traité de Versailles) was one of the peace treaties at the end of World War I. It ended the state of war between Germany and the Allied Powers. It was signed on 28 June 1919, exactly five years after the assassination of Archduke Franz Ferdinand. The other Central Powers on the German side of World War I were dealt with in separate treaties. Although the armistice signed on 11 November 1918, ended the actual fighting, it took six months of negotiations at the Paris Peace Conference to conclude the peace treaty. The treaty was registered by the Secretariat of the League of Nations on 21 October 1919, and was printed in The League of Nations Treaty Series.

Of the many provisions in the treaty, one of the most important and controversial required Germany to accept responsibility for causing the war (along with Austria and Hungary, according to the Treaty of Saint-Germain-en-Laye and the Treaty of Trianon, respectively) and, under the terms of articles 231?248 (later known as the War Guilt clauses), to disarm, make substantial territorial concessions and pay heavy reparations to certain countries that had formed the Entente powers. In 1921 the total cost of these reparations was assessed at 132 billion Marks (then $31.4 billion or £6.6 billion, roughly equivalent to US $442 billion or UK £284 billion in 2012), a sum that many economists at the time, notably John Maynard Keynes, deemed to be excessive and counterproductive. The argument by Keynes that the terms were too harsh?too "Carthaginian"?convinced many British and American leaders, but left the French unmoved.

The result of these competing and sometimes conflicting goals among the victors was compromise that left none contented: Germany was not pacified or conciliated, nor permanently weakened. This would prove to be a factor leading to World War II.


IMDの国際競争力ランキング

2012年10月29日 | つぶやき

IMDの国際競争力ランキングは1989年から始まったが、その年は日本が世界1位だった(1992年まで日本は1位を守り続けた)。約20年で27位まで後退した訳である。この意味でも、失われた20年、という言葉が重くのしかかる。

 このランキングは、経済のパフォーマンス、政府の効率性、民間ビジネスの効率性、インフラ、の4分野に大別された329の項目から算出されているが、わが国はインフラが昨年の11位から17位に、民間ビジネスの効率性が27位から33位に、それぞれ順位を下げたことが響いた。

これは2007年と2009年に、各事業活動拠点ごとにアジア地域で最も魅力を感じる国・地域を調べたものであるが、わずか2年の間にわが国の魅力が著しく低減していることが読み取れよう。

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菊水 純米酒「節五郎元禄酒」

2012年10月28日 | 

菊水「節五郎元禄酒」より

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元禄と言えば、江戸時代中期のはじめ、町人文化が発達した時代で、松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門などの名前がすぐ浮かんできます。

が、食文化の発展もめざましく、鯉のあらい、うなぎの蒲焼、いかや貝類の焼物は言うに及ばず、高野豆腐ほかさまざなな野菜類の煮物、吸物が登場しました。また、柚子や山椒などの香辛料も食膳に顔を見せています。料理に砂糖が使われるようになったのもこの時代です。

酒も、室町時代に奈良の僧坊で現代の酒造りの原型がつくられてから、江戸時代に入ると摂津の池田、伊丹、灘で清酒が造られるようになり、江戸へも大量の酒が送られて、酒文化も多様に花開きました。


イスラム科学

2012年10月27日 | イスラーム

イスラム科学とは、8世紀から15世紀イスラム世界において発達し、アラビア語によって叙述されていた科学の総称をさす。

歴史

イスラム帝国が形成されアラビア語が学問の言語として広い地域で使われるようになる以前の、エジプトメソポタミアといった古代オリエントの文化や古典古代ギリシャペルシアインド中国などで発展していた科学をもとに発展した。

法学神学語学文学などのアラブ人伝来の「固有の学問」があったが、これに対し、上記のようにしてイスラム世界にもたらされた学問には哲学論理学幾何学天文学医学錬金術などがあり、博物学地誌学などとともに「外来の学問」と呼ばれた。ただし、外来の学問であっても正確な知識を求めることはハディースに照らしても神の意思を知るためのイスラムに相応しい行為とされ、「固有の学問」を修める学者が「外来の学問」を兼修することはまったく珍しいことではなかった。

ムスリムの治める地域において、ムスリムを中心とする人々が科学の研究へと進み始めたのは、8世紀に成立したアッバース朝のもとであった。アッバース朝ではカリフや宮廷のワズィールたちの保護と学術振興の意思に基づいて主にギリシャ語の翻訳が始まり、特に第7代カリフマアムーンが創設した研究施設バイト・アル=ヒクマ(智恵の館)には多くの科学者が集まり、ギリシャ科学のアラビア語への翻訳が進められた。マアムーンに仕えた科学者のひとり、フワーリズミーは、インドの天文学数学を取り入れて、代数学や数理天文学に関する著作を残した。

9世紀にはこの成果がアッバース朝の隅々にまで行き渡ったアラビア語による学問のネットワークに乗せられて知識人たちに広く受け入れられ、イスラム哲学の祖として知られるキンディーのように、同時に数学、天文学、医学、論理学、哲学など様々な学問に通じた学者が多くあらわれた。

10世紀から11世紀には、アッバース朝の政治的な衰退とは裏腹に、アラビア科学は空前の発展を遂げ、プトレマイオスの天文学を改良したバッターニー、数学・天文学に通じ光学に関する重要な著書を残したイブン・アル・ハイサム、哲学と医学の分野でヨーロッパに大きな影響を与えたイブン=スィーナーらが活躍したが、中世以降のヨーロッパにおいて科学が劇的に発展し、14世紀から15世紀にかけて、アラビア科学は廃れた。

21世紀になってイスラム科学の復古運動とも言うべきものが始まっている。20世紀のアラブ諸国は欧米文明を吸収する形で近代化をすすめていたが、イスラム社会とキリスト教社会、ユダヤ社会との関係悪化とアラブ社会の教育水準や工業基盤の成熟などに伴い、欧米の技術に頼らないイスラム社会の科学技術の確立を目指す方向へ向かい始めている。 欧米と断絶関係にあるイランは独自の科学と工業による兵器や原子力などの研究開発を進めている。 製薬や食品などの分野ではハラール品の開発に力を入れている。

特に原子力の分野においては日本や欧米が原子力廃止に向かう中で積極的に導入を行う国が多い。 このまま進めば欧米諸国で原子力技術が無くなり、イスラム諸国で発達するという現象がおきかねない。


倉本總「昨日、悲別で」(1984)

2012年10月26日 | テレビ番組

「昨日、悲別で」
日本テレビ系列で1984年に放送された倉本聰脚本のテレビドラマです。
1度だけ再放送されましたが、ビデオ・DVD化されていない幻の名作です。
仕事を求めて東京に出た若者 中込竜一(天宮良 愛称:リュウ)と小沼ゆかり(石田えり 愛称:おっぱい)、故郷に残って地元で働く若者 佐々木和美(布施博 愛称:駅長)と二口伸夫(梨本謙次郎 愛称:与作)の心の交流を描いたストーリー。物語の舞台は、東京、北海道・悲別町(上砂川町がモデルの架空の町)

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夏目漱石「文学論」

2012年10月26日 | 文学者

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一九〇三年苦しいロンドン留学から帰国した漱石は帝大で教壇に立つ。後の文豪の世界文学との邂逅は近代日本に何をもたらしたか。一見難解な外観、厖大な引用、苦渋とユーモアの口調に漲る文学修行の精華。西洋と日本をつなぐ迫力満点の講義録。


gospel

2012年10月26日 | 宗教

A gospel is an account, often written, that describes the life of Jesus of Nazareth. The most widely-known examples are the four canonical gospels of Matthew, Mark, Luke, and John. However, the term is also used to refer to the apocryphal gospels, the non-canonical gospels, the Jewish gospels and the gnostic gospels. Christians may additionally use the term "gospel", otherwise known as the "good news", in reference to the general message of the biblical New Testament.

World religions differ in their treatment of documents classified as gospels. Christianity traditionally places a high value on the four canonical gospels, which it considers to be a revelation from God and central to its belief system. Christians teach that the four canonical gospels are an “accurate and authoritative” representation of the life of Jesus.

In Islam the Injil (Arabic: ??????) is the Arabic name for the original gospel of Jesus, and is one of the four Islamic holy books that the Qur'an records as having been revealed by God. Islam holds that over time it became corrupt and God sent the prophet Muhammad to reveal the last book.

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第51回芥川賞「されど われらが日々―」(1964年)

2012年10月25日 | 芥川賞

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「されどわれらが日々」より 別れの詩
太平洋商事のタイピストである斉藤康子は、優しく思いやりのあるエリート官僚の山口伸夫との結婚を秋に控えた婚約期間を送っていた。それは誰の眼から見ても理想的なカップルとして映る平和で楽しい日々だった。一方、康子の同僚である岡島京子は、妻子ある男福井と激しい恋愛関係にあった。それは、康子と伸夫の安定した関係とは対象的な、せっぱつまったものだけに、康子には強く美しい愛に見えた。そんなある日、康子は、学生時代に同じ大学で学生運動のリーダーであった安部の自殺を知った。彼が死の場所として選んだ余呉湖は新緑の林に囲まれた静かな湖である。そして康子と安部が初めて愛情を確認し合った場所でもあった。康子は、安部の純粋さと若々しい情熱に魅せられて愛したのだが、彼が運動に挫折し、仲間を裏切った時、「卑怯者」の声を残して別れた。康子の心を乱したものは、遺書に書かれた「俺は卑怯者だ」という言葉だった。その頃、あれ程激しく愛し合っていた京子と福井の関係は、福井の妻の出現によって破局を迎えようとしていた。しばらく後、会社をやめ、東京を去った京子の手紙には「あらゆるものは茫漠たる彼方に消えて逝く……では、あんなに愛し合った愛とは……この世にあるものは時の流れだけ……」と書かれてあった。このふたつの事件は、康子に男と女の愛についての疑問を呼び起こした。“男と女が愛し合っているとしても、それはある一部分に触れているに過ぎないのではないだろうか"その気持を伸夫に訴えても、彼女が近ずき得ない彼の過去の残像のようなものが康子をひるませた。伸夫の過去。一枚の海をバックにした水着姿の女の写真。その女、葉子は伸夫を激しく求めたが、決して心をのぞかせない伸夫に絶望して自殺した。伸夫は、この事件を語りながら、この青春も時の流れとともに消え去る過去だといいきるのだった。伸夫のアパートから駅にたどりついた康子に大きく激しくのしかかる白い海、伸夫と葉子の幻影に体を押された康子は走り込んできた電車の影に消えた。命はとりとめ、病床にふす康子に対する伸夫の優しい看護。しかし、康子の心は重かった。怪我がなおった康子は、足を引きずりながら伸夫のアパートに行き、いつものように食事をとり、愛情を交した。翌朝、アパートで夜を明かした康子は部屋に置手紙を残し、上野駅へとタクシーを急がせた。「東北のある高校で、英語の教師を求めています。さようなら、伸夫さん。今お別れするのは、あなたと私の本当の意味で再び会うそのためかも知れません。あなたが、あなたのみが私の青春でした」。

日本共産党 第6回全国協議会とは、1955年7月、日本共産党がそれまでの中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争方針の放棄を決議した会議である。「六全協」(ろくぜんきょう)と略して呼ばれることも多い。