稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№97(昭和62年10月29日)

2020年03月12日 | 長井長正範士の遺文


〇隋ということについては本年8月28日の朝、お話致しましたが、忘れぬよう記録しておきます。この者にかかるのに全力を尽くしても少しも当たらず、止められ、はずされ、押えられ、手も足も出なくなる一方、上の者から、わが隙を難なく打たれ、突かれ、どうすることも出来ないものです。そして、そこが悪い、ここはこうせよと教えられる。その時、教えに従(隋)わず、我(が)をはって自己流に固執したのでは幾ら数をかけて稽古しても上達しない。とどのつまり、変剣や難剣になって、それで固まってしまい、本人はそれで強くなったと誤解し、人の頭を叩いて喜んでいる。

こうなると最早(もはや)堕落してしまい救いようがありません。思いあがりも甚だしいと言わなければなりません。そこで以前(№87)に申し上げましたように、剣聖内藤高治先生が還暦を迎え仰ったように「赤ずきん、三つ子となりて太刀わざ磨かん」と詠まれたことを思い、内藤先生さえも、これから益々赤子に帰って修行して行かねばならないと言っておられることを我々は恐懼(きょうく)感激して素直な赤ちゃんのような気持ちになって、先生の教え通り、そのまま我意をはさむことなく努力修行していかなければなりません。よくいう守、破、離の守であります。

この守の精神を一刀流で髄というのです。この「守」を生涯、心に体し、修行していけば自ら意識しなくても自然にいつしか「破」に到着することが出来るでしょう。これから考えますと「離」など、とんでもない深遠なものであることと頷けるでしょう。そこで先ずわれわれ一刀流を学ぶ者は「柔」であることと教えられてます。この「柔」は心身共すべて柔でなければなりません。一刀流の組太刀の稽古で隋の本旨を表現してあるのは即意付、乗身、浮木、巻霞、巻返し、順皮、抜順皮、等であります。

これ等の形は「柔よく剛を制す」で、これも以前に申し上げた大鵬が手の力を抜いて、よく相手をあしらい、巧くみに剛に出るその伸びきったところ、尽きた所を難なく勝どころとしている。ここが大変勉強になるところであります。すこし廻りくどい事になりますが大事なことなので「即意付」について申し上げておかなければなりません。

〇一刀流組太刀の五本目、脇構之付(即意付)
もう皆さんの大方は出来るようになりましたが、改めて詳細に申し上げておきます。但し、打方仕方の形のやり方は省略して大事なところだけ述べておきます。先ず打方が先に咽喉を突きにくるのを、向かい突きに突き出し、双方鎬で受けつけ、力が相均衡して離れない漆膠(しっこう=うるしやにかわで両剣をひっつけたように)の状態になることです。

その瞬間、仕方は打方の剣になずまず、その心を見きわめて圧迫し、互いの鎬の合うところの強弱変化、微妙な機を感じ合い乍ら、手の内の味わいを逃さず、固すぎず、柔らかすぎず、打太刀に仕太刀の心の糊をピッタリと続飯をもってつけたようにつけます。この続飯(ぞくはん=めしつぶでひっつけた有様をいう)→更に進んでは、そくいい=そくい=即意=相手の意に即し(即応し)乍ら、右にも左にも、上にも下にも、出ても引いても、強くても弱くても、微塵も、ずれることなく、くっつけて放さない。どこまでも打方の意に即して、つきまとい理詰めに攻めるのです。昔は各流派もそうですが敢えて片仮名や平仮名で書いて(漢字で書くと意味を察知されるから)他流に判らないようにしたのです。即ち、しっこうの付、そくはん(続=つらなる意あり)と書いたのです。(続く)
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