稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№99(昭和62年10月31日)

2020年03月17日 | 長井長正範士の遺文


〇浮木の補註
前回、相手が竹刀を叩いた時、右手の親指と人さし指の二つが主役で竹刀を握り、くるりと反動で廻すと述べましたが、この時、竹刀の廻る動きにつれて右手首を出来るだけ軟らかくして宅蹴るようにすることと、左手首は右手首より一層軟らかくして、これに従うのです。

尚、左手は己れを守る大事な手であるから、絶対中心から離れてはいけないから浮木の場合、ぐるぐる廻るということは良くないのじゃないかと疑問が生じますが、左手は竹刀の先がくるっと廻る円の大きさよりも遥かに小さく、へそ下を中心に廻るので、左右に極端に動くのではないですからかまいません。自分の中心を小さく、くるっと廻り、すぐ、ぐっと中心にして手を締めるのですから何等差支えありません。以上補足して申し上げました。

〇なお、漆膠の付、即意付は日本剣道形の中に含まれていること。
1)先ず初めに互いに抜き合わして蹲踞した時、打、仕共、剣先をピタッと着けなければなりません。これにはお互いに両手首を軟らかく、剣先をお互いに左へ軽く押さえます。くすることによって、剣先を通じ(※印を参考に)お互いの手の内を感じとり、ピタッと呼吸を合わせるところから形を始めなければなりません。

即ち打太刀が蹲踞から立ち上がるのを、ひっついた剣先を通じ仕太刀が感じとり打太刀に応じて立ち上がるのです。勿論指導の師の位の打太刀は仕太刀に呼吸を合わせる気も大切であります。これに対し、仕太刀も打太刀の呼吸を合わせて貰う、その心を感じとり乍ら打太刀に呼吸を合わせて立つのです。

それから構えを解いて後へさがるまでが、昔、真剣勝負をする前の儀式であります。生死を決する勝負であっても、お互いに礼をして前に進み、蹲踞或いは片ひざをつき(槍や薙刀のような)互いに会釈し、「いざいざ」と言うが早いか、お互いにサーッとさがった距離は地形、場所の広さ等の関係上一定しませんが、形はこの距離を九歩と決めて作ったもので、決斗は既に九歩から始っているわけで、竹刀剣道も稽古前に儀式としてお互いに礼をして前に進み蹲踞して立ち上がり(この時は竹刀の先が互いに触れない程度に)構えて稽古を始めるのでありますが、ここで考え違いしないように念のため申し上げておきます。

蹲踞から立ち上がるなりお互いに前に出て、竹刀と竹刀を交叉し、ひどいのになると中結革の辺までの近か間で攻め合いし、どこを打とうとか、こういけば、ひょっとして打たれやせんかとか迷い乍らポンポンとやっているのをよく見かけますが、これは剣道ではなく、しない競技であります。

なぜなら剣道には大切な間合があります。即ち攻めの間合から生死の間合に入るまでの攻め合いが剣道であり、それを生死の間合で攻め合って叩き合いするのは全くしない競技であります(しない競技なら間合がいらない、当てるポイントを稼げばよいのです)ですから本当を言うなら立ち上がるなり、サッと一歩ぐらいお互いに後へ引き、そこからジリジリと攻めると真剣身味が出て来、形の九歩とまではゆきませんが本物の剣道に入ることが出来ると思うのであります。

幸い今は蹲踞の時から剣先が触れない程度から始めるようになっており、誠に結構なことと思っております。近頃の時代劇の立ち回りを見ると、理に叶った剣法で我々は逆に教えられるのであります。新吾一番勝負で、いざ!と言ってスッと後へ引いてから(続く)

※戦前の軍歌に「とった手綱に血が通う」という名句がありますが、人馬一体の愛情の呼吸が手綱を通じて感じとるように。

番外)

〇真剣勝負の時、いざといってサッとあちへ引くのは人間の本能であります。恐いから下がるわけでもなく、自然に思わず身を守る本能が体全体を動かして無心で思わずさがりそこから勝負に出るものであります。

註)中結革が切れるのは本物の剣道ではないと言われている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする