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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

『子連れ狼』のカラクリ

2022年07月17日 | open
貴方は劇画『子連れ狼』
に隠され
謎とカラクリ
を知っているか。
主人公拝一刀の差料は「胴太
(どうたぬき)であり、
実在する
日本刀肥後熊本
菊池の同田貫(ど
うだぬき)
ではない。
肥後同田貫は実用戦場刀であ
り、
戦国時代の菊池同田貫の
一派は豊後
高田刀と並んで利
刀として知られ
た。
 
さて、劇画の架空刀であるド
ウタ
ヌキの作者とは誰なのか。
これは実在する日本刀の押形。
尾張柳生、柳生家の本貫地は
大和
だが、新陰流の本家宗家
は宗矩以
降の大名の江戸柳生
ではなく、
尾張大納言の家臣
の尾張柳生だ。
尾張徳川家の剣術指南番であ
る。
その柳生の新陰流の不世出の
名人、
柳生厳包(としかね。江
戸柳生読み
では「よしかね」)
蓮也齋の愛刀を
写した物がこ
れだ。
原本は肥後守秦光代。注文
主であ
る柳生兵助厳包の
神経質なダメ連続注
で、作者の光世は逐電
図ろうとした程だった
と伝わる。
 
さて、こちらは劇画『子
連れ狼』
に出てくる元公
儀介錯人拝一刀殿
差料。
有名なドウタヌキだ。


なんと光代の鬼包丁を写した
尾張
の清水甚之進作が拝一
刀の有名な
ドウタヌキなの
である(笑
歴史事実としては、原本の
光代の
鬼の包丁(脇差)は、柳
生の刀なの
だ。拝一刀と対
立して互いに一族
の存亡
をかけて戦った柳生の。
なぜ拝一刀が柳生の刀を?
実在の清水甚之進が「胴太
貫」なる
刀を作った事例は
ない。架空設定だ。
だが、劇画では拝一刀のドウ
タヌキ
は、作者が明らかにな
っている。
柳生の刀を作った光代の写し
を打っ
た尾張の清水甚之進
あるのだ。
 
この人間相関リンク。
なぜ拝一刀が柳生の刀を。
実は、それは原作に答えが
隠されて
いる。
第二部以降は刀も人物も何
もかもが
出鱈目なので論外。
『子連れ狼』は拝一刀と柳
生烈堂が
江戸の八丁河原で
死ぬところで終了
だ。
その後に出てきた同原作者
別劇画
作家による同名作品
は、全くのア
ナザー奇天烈
駄作であり、見るに
耐えな
い。戦国時代の人間や幕末
の人間が同時に出てきたり、
オカ
ルト話になったり、ひ
どい作。
 
さて、劇画『子連れ狼』で
はなぜ
拝一刀が柳生の刀を
持っているの
か。
それは一刀の死んだ妻あざみ
の出
自はどこなのか、という
ことに繋
がる。これは、従者
である竹丸
仕草、そぶり、存
在位置から類推
できる。
また、拝大五郎に槍で刺させ
柳生烈堂が何故「孫よ」と
言って
最期に大五郎を抱きし
めたのか。
一刀の妻は柳生烈堂の娘であ
った
のだ。
そして、公儀介錯人拝家と公
儀刺
客人柳生家は、幕府要職
を担う共
存せる同族血脈の一
門であったの
である。
『子連れ狼』の物語とは、実
はそ
の柳生一門の御家騒動
であったの
だった。
 
一刀のドウタヌキ、竹丸の魂
表現からこれらは読み取れ
る。
そして、『子連れ狼』では、
役目を果たしてから自死した
竹丸
に最大のヒントあり。
彼は柳生の草だったが、あざ
みの
従者として働くうちに
完全に心も
拝家の者として
溶け込んだのだろ
う。
あるいはあざみが幼い頃から
保護役だったか。
とにかく、大五郎は烈堂にと
って
「孫よ」と言って抱きし
める存在
であるのだ。
 
拝一刀の胴太貫が柳生の刀で
ある
というこの事実。
これはかなり衝撃的だ。
そして、幕府から刺客として
派遣
された山田朝右衛門と拝
一刀は対
決する。石仏三体を
試し切りした
後に。
途中、裏柳生が山田朝右衛門
の行
手を妨害した。山田が勝
てば一刀が持つ柳生の不正を
証明
する柳生風廻状を取り
戻せなくなるからだ
った。
だが、山田を止められない。
こうなればどちらかが死ねば
いい
として、裏柳生は石仏に
鋼の輪を
仕込んだ。
山田朝右衛門の刀は鬼包丁。
拝一刀の刀は胴太貫斬馬刀。
だが、鬼包丁は柳生の刀。
胴太貫は尾張の清水甚之進
作。
つまり、柳生の刀同士が斬り
合い
をするという構図になっ
ている。
そして、大五郎は柳生烈堂の
孫で
ある。烈堂(列堂)は宗矩、
宗冬の
弟だ。
 
『子連れ狼』、奥深し。
劇中、私がよく知る家の先祖
出て来て拝一刀に暗殺され
てい
た。有無を言わせず無言
で刺殺。
その家の江戸期幕末の鍔を見
せて
もらった事がある。これ
は現実
世界で。
柳生鍔だった。
つまり、幕府の要職とは別に
陰流の家だったのだ。
その先祖は架空劇画では1600
代最末期に拝一刀に暗殺さ
れる。
拝一刀と烈堂の死亡は1702
年。将軍綱吉の時代。
大五郎の年齢から逆算すると、
裏柳生が拝家に押し入って家
人を
斬殺したのは1699年、
元禄12年
になる。
奇しくも寛永生まれの私の先
祖の某が没した年だ。


 
 
 
 

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