先週の木曜日に観たばかりだが、昨日の木曜日に、ふたたび映画「ドライブ・マイ・カー」を観てきた。
先週と違ってこの映画は、現在市内3カ所の映画館で上映されているが、いずれも徒歩40分圏内とウォーキングの範囲内にある。昨日は、昼からの179分間、初回とは別の大型シネコンでこの映画を観てきた。いくつもある部屋の中でも350席以上もある大きな劇場だったが、平日の昼だったので、50人も座っていただろうか。9割以上がオイラと同じシルバー料金派みたいだが、密接という感染リスクの気兼ねもなく、まるでオイラ一人のために上映されたような感覚で、おしまいまでこの映画に向き合うことができた。またしても尿意を感ずることもなく、3時間は瞬く間に過ぎた。
1週間前は、アカデミー賞ノミネートというニュースに踊らされて、何の予備知識もなく観たのだが、それでもこの作品の言い知れぬ深みにはまった。そして、もっとこの作品の意図するところや映像の語るところを知りたくなった。もう一度、観たくなった。細かな話だが、ラストシーンの韓国で、車の中にいたワンちゃんが、日本の韓国人夫妻の家にいたワンちゃんと同じ犬か、確かめたくなった。(これにより、ラストの解釈が変わるのではないかと思った。)
もう一度見る前に、基礎知識を仕入れておくべきだと思い、ネットによる複数の作品解説や濱口監督のインタビューを視聴した。さらに原作となっている村上春樹さんの短編集、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」を二度三度読み込んだ。ベケットの「ゴドーを待ちながら」のゴドーの解釈などもネットで学習した。
結果、先週の木曜日は、ちょぴり靄のかかって視界不良、風景を見渡す視野は90度程度というところだったが、この1週間の学習により、靄は晴れかかって、風景の視野は360度中180度程度の広がった感がある。
やはり、この作品のキーは「ワーニャ伯父さん」であって、映画のストーリーと劇中劇がマトリョーシカ人形のような入れ子構造になっていて、外側の人形(映画)では、主人公の家福がワーニャ、ドライバーみさきがサーニャ、エリーナ的存在として妻、エリーナを巡り家福と対峙する浮気相手の高槻という男がアーストロフの役回りを演じていたことが分かってきた。そして、内側の人形(劇中劇)では、演出家としての家福は、この高槻という男にワーニャ役を命じている。家福自身演じることが実人生のように辛くなっていたワーニャ役をあえてこの男に指定したことに殺気を感じたが、案の定、高槻は破滅に向かっていく。
また、劇中劇の「ゴドーを待ちながら」や「ワーニャ伯父さん」は、アジア各国の多国籍言語(日本語・韓国語、中国語、英語、韓国手話)で演じられているが、これは、春樹さんの原作には出てこないもので、濱口監督のオリジナルな発想によるシナリオで、映画を読み解くもう一つのキーでもあるようだが、映画や演劇の専門家でもないので、この意図がオイラには二度見ても難解であった。
映画の1/3近くは、劇中劇「ワーニャ伯父さん」の多国籍言語での台本読みなど劇の準備に費やされているが、それも、台本読みでは「感情を入れずにゆっくり読み上げ」という行為を何度も繰り返していた。「文字を体に入れる」という作業なのだそうだが、これは、何を意味するものだろう。そのような台本読みの成果として、家福は、秋色の公園の一角で、(演劇の練習を見てみたいと言っていた)みさきが座っている近くの場所をわざわざ選んで、エリーナ役のジャニス(中国語)とサーニャ役のユナ(韓国手話)に立ち芝居を演じさせる。そして「今、何かが起こった」と評した。言語が異なっても、役者と役者が共鳴する瞬間に劇が生まれるということか。言葉では通じ合わなくても、通じるものがあるということか。オイラには、まだまだ難解だが、このシーンが美しく、このシーンを転機に家福とみさきとも心が共鳴して、ふたりの閉ざされた心が開放されるのを暗示した映像だったような気がする。
ああ、2回見ても、まだまだ映画の全貌は見えてこないが、家福と死んだ娘と同い年のみさきという女の心の痛みは、入れ子構造の「ワーニャ伯父さん」によって癒されていく物語であることは間違いない。
この二人が、その後どうなったか。
映画のラストシーンには、買い物袋を家福の所有だった真っ赤なサーブ900に詰めて、韓国の海岸沿いの道路を走らせるたった一人のみさきがいる。その顔は見違えるように温和な表情をしている。後部座席には、ユナさん宅にいた時のような大型犬が乗っている。ただし、ユナさんと同じ犬ではない。
サーブは、韓国ナンバーとなっていて、みさきは、韓国で暮らしているようだ。
家福は、緑内障を患っていたというから、もう自らサーブは運転することはないだろう。みさきに車を譲ったのか、それとも拠点を韓国に移して二人で韓国暮らしか。いかようにも解釈できるラストシーンだ。
いかようににも解釈できるラストシーンだが、「ドライブ・マイ・カー」文字が現れ、エンドロールに変わった時、「おれの車を運転せよ」から、オイラ的には「自分で運転していけ」と意味合いが違っていた。
なんとも、美しく、深く、いかようにも解釈できるような芸術的な映画だ。三度目・・・行くか。
エンドロールで確認しきれていないが、映画で流れていたレコード音楽は・・
① 家福音(妻)が浮気時にかけていたレコード音楽(演奏者不明)
モーツァルト ロンドニ長調K485 ホロビッツ
② 家福がヤツメウナギの映像をパソコンで見ていた時に、レコードの針が飛んで先に進まなかった音楽(演奏者不明)
ベートーベン弦楽四重奏曲3番 OP.18-3 バリリ弦楽四重奏団
③ 高槻とバーで飲んでいた時かかっていたジャズ音楽は不明