かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

顫えるマンサクの花

2022-02-22 18:41:06 | 日記

たまたま1年前のブログの記事を読んで思い出した。

2021年2月なかば、仙台国際会議場の庭に植えられたマンサクの花が開花していたので、青葉山にも何度か出かけたが、あのお星さまのような黄色い木の花は「未だし!」の状況だったこと、

いったい冷たい季節に咲くこの花は、まだ飛翔を認めないムシに受粉を頼る虫媒花なのか?と疑念が湧いたこと、

が記されていた。

 

2022年、本日の仙台地方の最高気温は、かろうじて真冬日をクリアした程度。

半信半疑で、国際会議場の庭に足をやると、たしかに花弁が巻いてあるようではあるが、マンサクは花開いていた。粉雪が舞っていて、何かしら寒さに顫えていたようであった。

どんな寒さに強い羽虫であっても、飛んでは来まい。

ただ、花弁を縮こませているということは、体力を温存しているともとらえることができる。

「三寒四温」という言葉や日脚の長さを、あるいはマンサクという意識体は熟知しているのかもしれない。

あと、二日の寒波ののち、仙台地方も8℃以上に気温がもどるのだという。

寒さに強い、気の早いムシが飛んでくるのかもしれない。

 

 

 

 

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山でワカメごはんを食べよう

2022-02-21 12:22:18 | 日記

ワカメごはんの美味しいいただき方を研究中。

このところ、トップバリュのPBブランドである「三陸産カットわかめ」が気に入って、みそ汁やワカメスープにしていただいているが、国産にはめずらしく35ℊとたっぷり入っていて、1週間程度のテント生活には十分な量で、携帯性、栄養価などからぜひ山に持って行ってラーメンやみそ汁の具材にしようと思っている。

ワカメの具材といえば、NHKBSの「こころ旅」のお手紙だったか「子供のころ母が作ってくれたワカメおにぎりをもう一度食べたい」とか、「給食で出たワカメごはんの味が忘れられない」などの話をきいていたので、ワカメごはんってそんなに子供のこころをくすぐるものかと疑問がわいたので「ドレ、そんなにおいしいのなら作ってみようか」という気持ちになった。じつはワカメごはんなんて、オイラにとっては子供のころの母の味ではないし、世代がちがうのでゴハンの給食なんて食べてこともない。(コッペパンと脱脂粉乳世代)

それで、ネットをのぞくと、YouTubeなどに「ワカメごはんの作り方」がたくさん投稿されていた。子供のころの美味しい記憶が忘れられない料理人や視聴者がそんなに多いということか。

そんなネットのレシピをいろいろ試してみた。その結果、下記レシピがいいと思った。

①生ワカメでなくと乾燥ワカメでも水に戻せばよいこと、1合あたり3ℊ程度が適当量。

②ごはんといっしょに炊くのではなく、炊いたごはんに水に戻し細かく刻んだワカメを混ぜ少し蒸らすこと

③ワカメを戻した水でご飯を炊くと磯の香が残ってよいこと

④ご飯を炊くとき白だしか和風だしの素、酒、みりんなどを少々入れれば美味しくなること

⑤お好みで塩の量を調整し、ゴマをふりかけたり、ごま油をすこし加えるとまた格別の味になること

簡単そうに見えて、美味しいワカメごはんをつくるには、結構奥が深いことが分かった。

レシピに従って、こないだはメスティンでご飯を炊いて作ってみたら、なるほどワカメのぬめりと食感が感じられてかなり美味しいと思ったが、「こんなんで子供の心をくすぐるのか?」と疑問は解消されなかった。むしろ、オジサン・オバサン世代が美味いと感じるのではと思った。学校の栄養士さんたちは、いったいどんなにおいしく作っていたのだろう。

きのうは、家に保存しているアルファ米にお湯を注ぐと同時に細かく指でつぶした乾燥ワカメそのものを入れて15分後に食べてみたがワカメのぬめりと食感はいまいちだった。今度、山に行ってアルファ米をワカメごはんで食べる時には、面倒だがワカメを水に戻し、戻し水を沸騰させ、戻したワカメと熱湯をパック内のお米に同時に注ごうと反省した。

今朝は、小さな土鍋で白米を炊いてワカメごはんをいただいた。鍋で炊いたご飯は、粘りがあって一層美味しいが、これに野草や山菜をいれ「ワカメ菜飯」したら、山海の息吹きをあわせて感じられるごはんになると想像した。

乾燥ワカメ、塩、顆粒和風だしの素、白ごま、山に持っていこう。春が待ち遠しい。

 

   

         ワカメはもっと細かく刻んだ方がいいよ

 

 

   

              お気に入り乾燥ワカメ

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二度見て視界が広がった映画「ドライブ・マイ・カー」

2022-02-18 18:12:54 | 日記

先週の木曜日に観たばかりだが、昨日の木曜日に、ふたたび映画「ドライブ・マイ・カー」を観てきた。

先週と違ってこの映画は、現在市内3カ所の映画館で上映されているが、いずれも徒歩40分圏内とウォーキングの範囲内にある。昨日は、昼からの179分間、初回とは別の大型シネコンでこの映画を観てきた。いくつもある部屋の中でも350席以上もある大きな劇場だったが、平日の昼だったので、50人も座っていただろうか。9割以上がオイラと同じシルバー料金派みたいだが、密接という感染リスクの気兼ねもなく、まるでオイラ一人のために上映されたような感覚で、おしまいまでこの映画に向き合うことができた。またしても尿意を感ずることもなく、3時間は瞬く間に過ぎた。

1週間前は、アカデミー賞ノミネートというニュースに踊らされて、何の予備知識もなく観たのだが、それでもこの作品の言い知れぬ深みにはまった。そして、もっとこの作品の意図するところや映像の語るところを知りたくなった。もう一度、観たくなった。細かな話だが、ラストシーンの韓国で、車の中にいたワンちゃんが、日本の韓国人夫妻の家にいたワンちゃんと同じ犬か、確かめたくなった。(これにより、ラストの解釈が変わるのではないかと思った。)

もう一度見る前に、基礎知識を仕入れておくべきだと思い、ネットによる複数の作品解説や濱口監督のインタビューを視聴した。さらに原作となっている村上春樹さんの短編集、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」を二度三度読み込んだ。ベケットの「ゴドーを待ちながら」のゴドーの解釈などもネットで学習した。

結果、先週の木曜日は、ちょぴり靄のかかって視界不良、風景を見渡す視野は90度程度というところだったが、この1週間の学習により、靄は晴れかかって、風景の視野は360度中180度程度の広がった感がある。

やはり、この作品のキーは「ワーニャ伯父さん」であって、映画のストーリーと劇中劇がマトリョーシカ人形のような入れ子構造になっていて、外側の人形(映画)では、主人公の家福がワーニャ、ドライバーみさきがサーニャ、エリーナ的存在として妻、エリーナを巡り家福と対峙する浮気相手の高槻という男がアーストロフの役回りを演じていたことが分かってきた。そして、内側の人形(劇中劇)では、演出家としての家福は、この高槻という男にワーニャ役を命じている。家福自身演じることが実人生のように辛くなっていたワーニャ役をあえてこの男に指定したことに殺気を感じたが、案の定、高槻は破滅に向かっていく。

また、劇中劇の「ゴドーを待ちながら」や「ワーニャ伯父さん」は、アジア各国の多国籍言語(日本語・韓国語、中国語、英語、韓国手話)で演じられているが、これは、春樹さんの原作には出てこないもので、濱口監督のオリジナルな発想によるシナリオで、映画を読み解くもう一つのキーでもあるようだが、映画や演劇の専門家でもないので、この意図がオイラには二度見ても難解であった。

映画の1/3近くは、劇中劇「ワーニャ伯父さん」の多国籍言語での台本読みなど劇の準備に費やされているが、それも、台本読みでは「感情を入れずにゆっくり読み上げ」という行為を何度も繰り返していた。「文字を体に入れる」という作業なのだそうだが、これは、何を意味するものだろう。そのような台本読みの成果として、家福は、秋色の公園の一角で、(演劇の練習を見てみたいと言っていた)みさきが座っている近くの場所をわざわざ選んで、エリーナ役のジャニス(中国語)とサーニャ役のユナ(韓国手話)に立ち芝居を演じさせる。そして「今、何かが起こった」と評した。言語が異なっても、役者と役者が共鳴する瞬間に劇が生まれるということか。言葉では通じ合わなくても、通じるものがあるということか。オイラには、まだまだ難解だが、このシーンが美しく、このシーンを転機に家福とみさきとも心が共鳴して、ふたりの閉ざされた心が開放されるのを暗示した映像だったような気がする。

ああ、2回見ても、まだまだ映画の全貌は見えてこないが、家福と死んだ娘と同い年のみさきという女の心の痛みは、入れ子構造の「ワーニャ伯父さん」によって癒されていく物語であることは間違いない。

この二人が、その後どうなったか。

映画のラストシーンには、買い物袋を家福の所有だった真っ赤なサーブ900に詰めて、韓国の海岸沿いの道路を走らせるたった一人のみさきがいる。その顔は見違えるように温和な表情をしている。後部座席には、ユナさん宅にいた時のような大型犬が乗っている。ただし、ユナさんと同じ犬ではない。

サーブは、韓国ナンバーとなっていて、みさきは、韓国で暮らしているようだ。

家福は、緑内障を患っていたというから、もう自らサーブは運転することはないだろう。みさきに車を譲ったのか、それとも拠点を韓国に移して二人で韓国暮らしか。いかようにも解釈できるラストシーンだ。

いかようににも解釈できるラストシーンだが、「ドライブ・マイ・カー」文字が現れ、エンドロールに変わった時、「おれの車を運転せよ」から、オイラ的には「自分で運転していけ」と意味合いが違っていた。

なんとも、美しく、深く、いかようにも解釈できるような芸術的な映画だ。三度目・・・行くか。

エンドロールで確認しきれていないが、映画で流れていたレコード音楽は・・

① 家福音(妻)が浮気時にかけていたレコード音楽(演奏者不明)

モーツァルト ロンドニ長調K485 ホロビッツ

② 家福がヤツメウナギの映像をパソコンで見ていた時に、レコードの針が飛んで先に進まなかった音楽(演奏者不明)

ベートーベン弦楽四重奏曲3番 OP.18-3 バリリ弦楽四重奏団

③ 高槻とバーで飲んでいた時かかっていたジャズ音楽は不明

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青山の小さなバーで流れていたジャズレコードを聴きながら

2022-02-16 15:09:45 | 日記

「ロシアは、現地時間で16日中にもウクライナに侵攻する可能性が高い。」

一昨日あたりから、このような報道が流れている。ウクライナが西側(NATO)に与したいという意思があるだけで、現段階でウクライナ側から何の攻撃や挑発を受けていないのに、他国を我が物顔に「侵攻」するということが、今の時代に許されるのだろうか。それもすべての紛争の一時休戦が求められて、自国民も(ROC委員会という名前であっても)参加している北京オリンピックの最中だというのに、まったく不可解な話だ。あらゆる報道に接しても、プーチンがウクライナに侵攻する真の理由が分からない。侵攻した際の西側の反発があまりにも大きいと想像するし、その先行きの何か暗澹たる気配を感じる。

不穏で、不条理で、ますます生きにくい世の中となっていくのだろうか。

ロシアの文豪アントン・チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」は、希望を失った中年オジサン、ワーニャの「喪失と再生」の物語で、濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」の劇中劇でも演じられるが、映画そのものの物語とも重なる作品だ。

この戯曲のラストシーンは、映画のラストシーンでも演じられるが、姪のソーニャが、絶望するワーニャに向かって語る言葉を新潮文庫(神西清訳)に鉛筆でなぞりながら何度も読んでみた。

「ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。今のうちも、やがて年を取ってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら。素直に死んでいきましょうね。(以下略)」

映画「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹さんの同名小説ほか「シェエラザード」、「木野」という2作品を原作としているということだが、小説「ドライブ・マイ・カー」も、ワーニャ伯父さんを引き出しながら、家福という主人公の俳優が、死んだ妻の心の奥に入り込めなかったことへの苦悩を、妻の浮気相手だった高槻という俳優や、ソーニャとも重なる渡利みさきというドライバーとの会話を通して乗り越えようとする物語だが、みさきの「ただやっていくしかない」、家福の「そして僕らはみんな演技する」とやや投げやりな結末になっている。だが、チェーホフの結末には、なにか神聖な祈りを捧げているような安らかさがあり、濱口監督の映画を見終えた安らかさと重なる。だから、もう一度劇場に出かける準備をしている。

映画「ドライブ・マイ・カー」は、意識的に音楽を最小限に抑えたような静かな作品だったようだし(妻の浮気の現場ではモーツァルトのピアノレコードがけたたましく流れてはいたが)、小説「ドライブ・マイ・カー」も、出てくる音楽は、車の中で聴いたとされるベートーベンのカルテットやアメリカンロックぐらいで、いつもの春樹さんのようには、あまり音楽が聴こえてはこない。

ただし、この小説の核心となっている高槻との最後のやり取りの酒場は、「青山の根津美術館の裏手の路地の奥にある小さな目立たないバー」という設定になっているが、これは、まさに「木野」という作品で、妻に浮気されて家を飛び出した木野という中年男が、第二の人生として開いたバーと同じだ。そして「木野」という作品には、バーに持ってきたオーディオ装置でならされるアナログレコードの古いジャズがたくさん出てくる。

それらのジャズに不案内なオイラでも、今の時代、YouTubeを立ち上げて、それらのジャズメンを検索すれば、すぐにでもそれらの古き良きジャズに出会うことができる。その便利さが果たして幸せなのか分からないが、映画をもう一度観に行く予習として読んでいる村上作品に登場したジャズ音楽をYouTubeで聴きながら「青山の根津美術館の裏手の路地の奥にある小さな目立たないバー」の一角にオイラも座った気分になって昨日は飲んだ。さすが、春樹さんは、もともとジャズ喫茶をやっていたということで、どれもこれもがいい音楽で、涙ながらも晴れ晴れとしてくる。

麦焼酎よりはウイスキーか。今夜は、その古いジャズを聴きながらそれでやろう。これらの「見事なまでにオプティミズム」な音楽を聴きながら、不穏で、不条理で、パンデミックも加わった孤独と沈黙と寂寥の時代を生きていこうではないか。


客が全く来ない店で、木野は久しぶりに心ゆくまで音楽を聴き、読みたかった本を読んだ。乾いた地面が雨を受け入れるように、ごく自然に孤独と沈黙と寂寥を受け入れた。よくアート・テイタムのソロ・ピアノのレコードをかけた。その音楽は今の彼の気持ちに似合っていた。

                                   短編「木野」より抜粋


アート・テイタムのソロピアノ「アイ・ガット・リズム」


店は暇だったから、木野はスツールに腰掛け、『ジェリコの戦い』が入っているコールマン・ホーキンスンズのLPを聴いた。メジャー・ホリーのベース・ソロが素晴らしい。

                                     短編「木野」から抜粋


コールマン・ホーキンス「ジェリコの戦い」


テディ―・ウィルソン、ヴィック・ディッケンソン、バック・クレイトン、そういう古風なジャズが無性に聴きたくなった。堅実なテクニック、シンプルなコード、演奏することそれ自体の素朴な喜び、見事なまでのオプティミズム。今の木野が求めているのはそのような、今はもう存在しない種類の音楽だった。

                                  短編「木野」から抜粋


テディ―・ウィルソン 「オール・オブ・ユー」

ヴィック・ディッケンソン「ロシアン・ララバイ」

バック・クレイトン「わが心のジョージア」

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冬野菜にお別れしながら

2022-02-14 21:08:42 | 日記

仙台朝市の八百屋さんから、仙台産の「縮みほうれん草」と「仙台セリ」を買ってきて、ほうれん草のおひたし、セリのナムル、セリ鍋の卵とじなどをつくり、冷蔵庫に保存していたさんまの水煮缶詰でさんまゴハンをメスティンで炊いて、酒の友とす。もう、これらの愛すべき地物の冬野菜ともお別れの季節か。

朝市の八百屋には、コゴミ、フキノトウ、ウルイ、葉ワサビなどの山菜陣もパック売りされていて・・・思わず手が出そうになったが、「これらの仲間は、野生のものをいただこう」とガマンした。もう1か月の辛抱だ。

    

あっけからんと明るすぎる日本のカーリングチームの活躍を見ながら、日曜日に届いた、文春文庫・村上春樹「女のいない男たち」から、「ドライブ・マイ・カー」、「シェエラザード」、「木野」という短編、新潮文庫「かもめ・ワーニャ伯父さん」から、戯曲「ワーニャ伯父さん」を、読んで過ごす。

映画「ドライブ・マイ・カー」の原典になったとされる作品で、いずれもどうしようもなく不幸な男たちの物語だが、映画の「開かれた結末」は、たしかに「ワーニャ伯父さん」結びのソーニャの台詞と重なっていると理解できた。どんな辛い一生でも、生きていくしかないのだ。そして、ヒトのために働く・・か。

それにしても春樹さんの作品は、どんなエッチな描写を描いても、読後感は神話やファンタジーになるから不思議だ。どんな短編であれ、作家のリアルな表現力は見事なのだが、リアルとリアルを掛け合わせても、かならず読者を異界を彷徨うような非現実世界に立たせてくれるのが春樹ワールドだ。そして、読み始めてすぐにその物語の世界に引きこませられていく感覚は、若いとき読んだドストエフスキーに似ている。「ドライブ・マイ・カー」がオスカーなら、春樹さんも、そろそろノーベルでもいいのではないか。

さあ、もう一度映画「ドライブ・マイ・カー」を見にいこう。いつの間にか、仙台では、上映映画館が三館に増えている。

     

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