かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

深田久弥・太宰治・宮澤賢治の重なり具合

2022-11-08 17:59:29 | 日記

 久々に深田さんの百名山を読み進めていたら、津軽平野に聳える岩木山の章で、深田さんは太宰の「津軽」書かれてある岩木山の表現が「見事」だとして引用している。

このまったく「資質」の異なる作家同士ではあるが、深田さんは太宰よりも長く生きたのだから太宰の作品の文学的素養と国民的人気を熟知したうえで太宰を引用したのだろう。

後で触れるが、深田さんは岩手山の章で賢治さんの詩「岩手山」も引用しているが、深田さんと賢治さんもまったく「資質」の異なる文学者同士だが、深田さんは賢治さんよりさらに長く生きたのだから、賢治さんの詩人や童話作家としての国民的、いや国際的な評価の拡散をを目の当たりにしていたのだろう。

賢治さんは、高村光太郎さんらの功績もあって死後急速に評価が上がったのは周知のことだが、太宰全集の月報を読んでいたら、賢治研究家として著名な天沢退二郎さんが太宰が賢治童話を読んでいたということに触れており、このまったく「資質」の異なるもの同士も作品を通して重なり合うところがあったので面白い。

ただし、賢治さんが太宰の作品にはまったく目を触れてはいないだろう。亡くなった昭和8年には、まだ太宰が文壇デビューとはいかなかったのだろうし、詩人と小説家というジャンルの違いもあっただろう。ただ、東北の裕福な家庭に育ち、その「家」との確執が文学的覚醒をもたらしたという共通点はある。

 

ちなみに、この三人、誰が先輩で、誰が誰の後輩なのか、疑問が湧いたので整理してみた。

① 深田さん 1903年(明治36年)3.11~1971(昭和46年)3.21 享年68才

② 太宰さん 1909年(明治42年)6.19~1948(昭和23年)6.13 享年38才

③ 賢治さん 1896年(明治29年)8.27~1933(昭和8年)9.21  享年37才 

賢治さんが、深田さんの7つ先輩、太宰さんが深田さんの6つ後輩ということになろうか、ほぼ同時代の人々でまったく資質も体力も向かった方向も異なったヒトビトだが、オイラはこの3人が3人ともに愛着がある。たまらなく懐かしい明治から昭和を輝いたヒトビトたちだ。

 

     

     

秋の深まりとともに、トチの木もオオモミジの木々らも輝きを見せている。(野草園)

 

 


深田百名山MAYSONG  10 岩木山

 

【深田百名山を読んで】

(百名山本文の一部引用)

弘前から眺めた岩木山は津軽富士とも呼ばれるだけあって、まことに見事である。

(中略)

私は北側から見た岩木山を知らない。幸い太宰さんの長編『津軽』の中に、その見事な描写があるから、それを借りることにしよう。

「や!冨士、いいなあ、と私は叫んだ。冨士ではなかった。津軽富士と呼ばれている岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮かんでいる。実際、軽く浮かんでいる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて、左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟たる美女ではある。」   *嬋娟(せんけん)=あでやかでうつくしいこと

 

石坂も太宰も望みしお岩木を貴(あて)に浮かべる津軽ののづら

 

【MYSONG】

(深田百名山登頂の思い出より引用)

1961年に9合目まで伸びる津軽・岩木スカイラインが開通し、リフトもつくられ、いまや40分足らずで山頂に達することができる山となっていて、大衆登山をきらった深田さんなら苦言をまくしたてたのだろうが、「日本百名山」には、その記載がない。「岩木山」の項を書いたころ(1959年「山と高原」)にはまだスカイラインが開通していなかったからのだろう。

深田イズムの後輩(と勝手に思っている身)としては、秀麗な岩木山は、もう眺めるだけの山で終わるかもしれない。青森に行ったら、足は八甲田や白神方面に向かうのだろう。

 

金木行 津軽電車の窓に入る 山という字のお岩木 真蒼(まさお)

 

    

       r.f

 

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