すくなくとも、たしか前回2018年はの皆既月食のときには、石垣島の宮良の海岸に三脚とレリーズをセットして、欠け始めから食のおわりまでしっかり観察して、ぶれないお月様を撮ったと記憶している。それと、当時はニコンのp90くんという、月撮影にめっぽう強い見方がいてくれたので、大きな赤い月食のお月様を撮った。なんだか、目の前に月の女神さまがいてくれたような心地にもなった。
それだのに、今回は、「秋の世は寒い」、「ちょっとだけ撮ってくるか」「天王星の食はネットで観察しよう」などと、まるで不真面目にお月様とかかわってしまった。
これは、18時56分、歩いて3分の近所に行き、G3Ⅹを手持ちで撮ったもの。
これはいかんと自宅に戻り、三脚をセットして、ピントが合うところを何枚か撮ったが、家に帰り拡大してみるとみな少しボケていた。レリーズを怠り、手でシャッターを押したことが原因。何しろシャッタースピードが5,6秒なんてとてもスローだったため。暗い月食は、やはりレリーズが必要だった。
19時12分
19時42分、完全に食に入った。
家に戻って、国立天文台のライブ中継で天王星が月に隠れるシーンをいただいた。
あるいは、p90くんでレリーズをセットしたら、この目でも天王星を確認できたかも。
やはり月に強いコンデジ君を傍らに置きたいな。
というよりも、いい加減な撮影姿勢が、結果につながったということ。
暗くて、あったかくて存分に星ぼしと対話ができた石垣島が恋しい。
次は、2025年? 反省して、まじめに・・・・
深田百名山MAYSONG 11 八甲田山
【深田百名山を読んで】
深田さんの八甲田山を読んで、なぜだか印象に残るくだりが、3回登った八甲田で2回であったという八甲田のぬし鹿内(しかない)辰五郎老の印象についてである。引用すれば、
「私はこの頂上に前後三回登り、二回は快晴に恵まれた。そして偶然二回とも八甲田のぬし鹿内辰五郎老にあった。日露戦争時代の下士官だったというこの名物男は、いつも軍装をして、胸に勲章をかけ並べ、右肩にラッパ、左肩に水筒といういでたちであった。笛を吹きながら登山者の先頭に立ち、いろいろな注意や説明を与え、頂上では陸軍のラッパ曲を吹く。自分で好んで八甲田山の案内人となってか五十年。この山のことなら地形でも植物でも知らぬものなしという篤志な爺さんである。もう八十は越えていよう。」
と。日露戦争が1904年だとすれば、1950年代に活躍した翁か。あの当時だったら居そうな人物で、にぎやかで静かな登山を愛する者にとってはいい迷惑だが憎めなかったのだろう。今なら、クマ除けの篤志家というところか。
八甲田 耳をすませば彼方より 翁のラッパ響き渡れり
【MAYSONG】
(深田百名山登頂の思い出より抜粋)
八甲田山は、1984年から4年間滞在した青森県八戸の山岳会のホームグランドにしていた山域で、厳冬期を除いて月1日ペース、残雪期の春山は、週末にはテントを張つて下手なりにスキー三昧で過ごした。
残雪に描きしシュプール顧みつ 暮れ色に染む 春・八甲田
Wikipediaより