生きる道 見えない力に支えられ
見えない力になりたい自分
以前、樋田小学校での出来事を、この季節になると思い出します。
10年前に書いた、エッセイ集「たいせつなもの」(かったか著)の一部からです。
ちょっと長いけど、初夏の写真を見ながら、暇な時にふれてみて下さいね。
『~~~~~~~~略~~~~~~~樋田小学校時代、手術をしなければならないことになりました。
それは、4月の最初のころです。4月といえば、始業式があります。
学校は、4月になるとすぐに、職員会議を開いて、クラス編成などをしていきます。
子どもたちは春休みでも、学校では、始業式に備えて、いろんな準備をしていきます。
この春休みの中で、新校舎の落成式も行われました。
職員会議では、クラスの決定をしたりしました。会議が終わったその次の日、病院に行きました。
担当の病院の先生から、手術を勧められました。
復帰するまでは、1ヶ月かかるということです。
しかし、担任ということで、病院から帰ったらすぐに、とりあえず学級通信を書きました。
次の日は、始業式です。朝から、会議が開かれました。
「体を大切にするということで、代わったほうがいいんじゃないかな。」
「一ヶ月だから、担任の分は、帰ってくるまでみんなでがんばっているので、その分あとでとりかえせばいいよ。」
いろんな議論が朝からかわされました。
しかし、当事者の自分は、何も言葉はありません。
議論が延々続きました。
朝行われるはずだった始業式の時間も遅れました。
先生方が自分の体のことを考えてくれていることにうれしさを感じました。
一方では、手術をするにあたって、今では大げさかもしれませんが、生きて帰ってこられるのかなど心配になりました。
日田の病院に入院。そして手術です。
先生は、
「盲腸くらい簡単な手術だから。」
そう言われても、不安いっぱいに手術の日を迎えました。
手術は、日を分けて、2回行われました。
手術にのぞみました。
家を出るときには、自分の壁にかけてあった服をすべて洋服ダンスの中に入れて入院をしました。
自分の生活のものが周囲に見えないようにと少しの配慮でした。
病院のスタッフの方の治療を受け、50日後に復帰できました。
それでも薬を手に握っての授業でした。
健康ということが自分の生活の中でないがしろにされていたけれども、認識するきっかけとなりました。
たくさんの子どもたちや先生が、お見舞いに来てくれたことが恥ずかしくもあり、うれしく感じました。
また、この思い出として、ちょうど、6年生の修学旅行のときです。
修学旅行は、長崎・熊本に行きます。
日田を経由して長崎に入ります。
バスは、病院の前を通過していくのです。
まさしくんから手紙が来ました。
「病院の前を通るとき手を振るからね。」
修学旅行の当日、その時間がくるずっと前から、窓から来る方向を見つめていました。
ベランダが見やすいので、出てはいけないことになっていましたが、ベランダに出てバスが来るのを待ち続けました。
バスが来ました。病院の外は、つつじがきれいでした。
その向こうをバスがやってきます。
わくわくした気持ちとなんともいえない緊張感。
するとどうでしょう。
バスの中からいっせいに思いがけなく赤いハンカチが出てきました。
みんなで手を振ってくれています。
「せんせーい。」
という大きな声とともに、
「先生、早く学校に来てね。」
バスの中からにぎやかな声が聞こえてきます。
また、かったかくんもベッドのシーツを一生懸命ふりかえしました。
「楽しく旅行に行ってきてね。」
という思いとともに、拭いても拭いても涙が頬を滝のように落ちてきます。
バスが見えなくなるまで、必死にシーツをふりました。
子どもたちからの最高のお見舞いでした。
この出来事は、一生忘れることができません。
50日後、学校に復帰しました。
無事、生きて帰れました。
温かく子どもたちは迎えてくれました。
この子どもたちと、理科の授業を通して、接することができました。
楽しい実験をいっぱいしました。
また、昼休みは、ソフトボールなどをして、うんと楽しく遊びました。
先生方もいろいろ子どもたちとの関係を配慮してくれました。
始業式の日に渡すはずだった学級通信は、子どもたちに渡すことのないまま、今でも残っています。
いろいろ気配りをしてくださった多くの先生方と子どもたちに感謝をしています。』
つつじの咲く、この季節にあの思い出はよみがえってきます。
見えない力になりたい自分
以前、樋田小学校での出来事を、この季節になると思い出します。
10年前に書いた、エッセイ集「たいせつなもの」(かったか著)の一部からです。
ちょっと長いけど、初夏の写真を見ながら、暇な時にふれてみて下さいね。
『~~~~~~~~略~~~~~~~樋田小学校時代、手術をしなければならないことになりました。
それは、4月の最初のころです。4月といえば、始業式があります。
学校は、4月になるとすぐに、職員会議を開いて、クラス編成などをしていきます。
子どもたちは春休みでも、学校では、始業式に備えて、いろんな準備をしていきます。
この春休みの中で、新校舎の落成式も行われました。
職員会議では、クラスの決定をしたりしました。会議が終わったその次の日、病院に行きました。
担当の病院の先生から、手術を勧められました。
復帰するまでは、1ヶ月かかるということです。
しかし、担任ということで、病院から帰ったらすぐに、とりあえず学級通信を書きました。
次の日は、始業式です。朝から、会議が開かれました。
「体を大切にするということで、代わったほうがいいんじゃないかな。」
「一ヶ月だから、担任の分は、帰ってくるまでみんなでがんばっているので、その分あとでとりかえせばいいよ。」
いろんな議論が朝からかわされました。
しかし、当事者の自分は、何も言葉はありません。
議論が延々続きました。
朝行われるはずだった始業式の時間も遅れました。
先生方が自分の体のことを考えてくれていることにうれしさを感じました。
一方では、手術をするにあたって、今では大げさかもしれませんが、生きて帰ってこられるのかなど心配になりました。
日田の病院に入院。そして手術です。
先生は、
「盲腸くらい簡単な手術だから。」
そう言われても、不安いっぱいに手術の日を迎えました。
手術は、日を分けて、2回行われました。
手術にのぞみました。
家を出るときには、自分の壁にかけてあった服をすべて洋服ダンスの中に入れて入院をしました。
自分の生活のものが周囲に見えないようにと少しの配慮でした。
病院のスタッフの方の治療を受け、50日後に復帰できました。
それでも薬を手に握っての授業でした。
健康ということが自分の生活の中でないがしろにされていたけれども、認識するきっかけとなりました。
たくさんの子どもたちや先生が、お見舞いに来てくれたことが恥ずかしくもあり、うれしく感じました。
また、この思い出として、ちょうど、6年生の修学旅行のときです。
修学旅行は、長崎・熊本に行きます。
日田を経由して長崎に入ります。
バスは、病院の前を通過していくのです。
まさしくんから手紙が来ました。
「病院の前を通るとき手を振るからね。」
修学旅行の当日、その時間がくるずっと前から、窓から来る方向を見つめていました。
ベランダが見やすいので、出てはいけないことになっていましたが、ベランダに出てバスが来るのを待ち続けました。
バスが来ました。病院の外は、つつじがきれいでした。
その向こうをバスがやってきます。
わくわくした気持ちとなんともいえない緊張感。
するとどうでしょう。
バスの中からいっせいに思いがけなく赤いハンカチが出てきました。
みんなで手を振ってくれています。
「せんせーい。」
という大きな声とともに、
「先生、早く学校に来てね。」
バスの中からにぎやかな声が聞こえてきます。
また、かったかくんもベッドのシーツを一生懸命ふりかえしました。
「楽しく旅行に行ってきてね。」
という思いとともに、拭いても拭いても涙が頬を滝のように落ちてきます。
バスが見えなくなるまで、必死にシーツをふりました。
子どもたちからの最高のお見舞いでした。
この出来事は、一生忘れることができません。
50日後、学校に復帰しました。
無事、生きて帰れました。
温かく子どもたちは迎えてくれました。
この子どもたちと、理科の授業を通して、接することができました。
楽しい実験をいっぱいしました。
また、昼休みは、ソフトボールなどをして、うんと楽しく遊びました。
先生方もいろいろ子どもたちとの関係を配慮してくれました。
始業式の日に渡すはずだった学級通信は、子どもたちに渡すことのないまま、今でも残っています。
いろいろ気配りをしてくださった多くの先生方と子どもたちに感謝をしています。』
つつじの咲く、この季節にあの思い出はよみがえってきます。