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拝啓、世界の路上から

ギター片手に世界を旅するミュージシャン&映画監督のブログ(現在の訪問国:104ヶ国)

拝啓、世界の路上から 第5話「夢の先にあるもの/オーストラリア」(前編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第5話「夢の先にあるもの/オーストラリア」(前編)

 「痛い!マジかよお前!」
 ここはオーストラリアの東海岸にある町、ブリスベン。街の中心部にあるアデレードストリートを歩いているときに、縦列駐車しようとした車が後も見ずに急にバックしてきた。ドンという鈍い音と共に激しい衝撃が走る。
 僕がうずくまって痛がっていると、ようやくそれに気付いた運転手のヒゲオヤジが窓を開けて顔を出した。しかし僕の顔を見ると、何も無かったかのように一言「ソーリー」といって走り去る。幸い大してスピードも出ていなかった為すぐに痛みは引いたが、まったくソーリーじゃないちゅうの。あのヒゲオヤジ、車から降りもせず走り去ったぞ。ひき逃げじゃねえかと、その場でぶつぶつと独り言を呟きながら怒る。
しかし周りの通行人も、何事も無かったような顔をして通り過ぎて行く。ほらアンタ達も今の見たでしょう。これはどういうことなのよ。ホント勘弁して欲しいよまったく。

前話のタイ北部の旅から首都バンコクに戻った僕は、調子の悪かった日本から持ってきたミニギターを一緒に旅してくれたお礼にと、タイ人の大学生ポムにプレゼントする。その代わりとしてバンコクの中心街にある、サヤームディスカバリーセンター内の、偶然立ち寄った楽器屋で見つけた、約1万5千円の新品のアコースティックギターを購入。
このギターはオベーションアプローズのエレアコで、値段の割になかなか良い音をしていて、よく見るとメイド・イン・ジャパンと書かれている。
本当に日本製なのか?またバンコク特有のコピー商品なのではと、一瞬そんな思いが過ぎったが、音が良ければ全て良しと即決で購入してしまった。予定外の出費は痛いが、これで当面ギターのことで悩まなくても済みそうだ。
その後僕はオーストラリアのシドニーに入り、そこからさらに列車で14時間北上して、今朝方このブリスベンに到着。

 ブリスベンはオーストラリアで2番目に大きな州、クイーンズランド州の州都で、日本の沖縄とほぼ同じ緯度にある緑豊かな町だ。
またここクイーンズランド州の面積は日本の約5倍に相当し、世界遺産にも指定されている大珊瑚礁グレートバリアリーフや、オーストラリア随一のリゾート地、ゴールドコーストもここクイーンズランド州にあり、日本人にとっては馴染みのある州の1つ。そのクイーンズランド州を列車で縦断し、グレートバリアリーフの島々などを見ながら最終目的地、ケアンズまで行こうと思っているのだが、その途中にあるこの町に立ち寄ったところで、イキナリ手痛いもてなしを受けたのだった。

相変わらずブツブツ文句を言いながら、この近くにあるというバス乗り場を探す。
オーストラリア入りして以来ずっと雨に降られていたのだが、この日の午後にようやく上がったので、せっかくだから少し観光でもしようと外に出たのだった。しかしイキナリ車にひき逃げされて、幸先悪いったらアリャしない。

 幾ら探してもそれらしきモノが見つからないので、人づてに聞いて回りやっとの思いで自分の行き先のバス停を見つける。そしてしばらく待って、やってきたバスに飛び乗る。 

 今僕が向かっている場所は、ブリスベンから南西に11km離れたフィグ・ツリー・ポケットという郊外の町にある、ローンパイン・コアラ・サンクチュアリという動物園で、ここは1927年開園の世界最大最古のコアラ園だ。120頭を越す園内のコアラの数は、オーストラリア中のコアラの数より多いとさえいわれおり、まさにその名の通りコアラの聖地と呼べる場所。
 動物園など子供の頃遠足で行って以来だが、オーストラリアといえばコアラとカンガルーでしょうと、単純な発想で行く先を決めたのだ。

ローンパインに着くと、また小雨が振り出してきた。南半球にあるオーストラリアでは今は秋にあたり、この時期は雨が多い。

 小雨が降り続く中しばらくコアラを見ながら歩いていると、そのうちの一角でコアラを抱いて記念撮影しませんかと、園内で働くキャンペーンガールらしき女性に声をかけられる。
 コアラじゃなくてあなたを抱いてみたいです!ナドトいうと、ゲンコツ・グーで顔面パンチされそうだったのでさりげなく、コ、コアラを抱いてみたいのですが料金は、いかほどかかるのでしょう?と、裏返った声で聞いてみる。すると写真撮影とセットで11オーストラリアドル、約700円という。少し高い。
写真など別に欲しくはなかったのだが、必ずセットになっていてその値段だとのこと。まあそんなものかなと抱かせてもらうことにする。なんでもコアラを抱ける動物園は、オーストラリアでもここローンパインと他に数箇所程しかないらしく、せっかくだから一度抱いてみたいという気持ちもあったからだ。

 雨降りということもありお客はそれほど多くなかったが、やはり皆コアラを抱きたいと思うようで、10分程順番待ちすることに。他の人がどのようにコアラを抱いているのか気になり、その様子を見ていたのだがやはりコアラはおとなしい動物なのか、されるがままじっとして抱かれている。

 しばらくすると僕の番になり、係員のお兄さんに抱き方をレクチャーされる。そうしていざコアラを抱くと教わった通りに抱いているにも関わらず、さっきまでおとなしかったコアラが、なんだが急に不機嫌になり嫌がりだした。オマケに爪までたてられてチョット痛い。

 それを察したのか係員はさっさと写真の撮影を済ませ、はいオシマイとコアラを取り上げられる。僕の前の若いお姉さんはかなり長い間抱いており、しかもコアラはうっとりしたような表情すらしていたのに、これは一体どういうことなのだろうか。そうだきっとあのコアラはオスだったに違いないと、自分に都合のいいように状況を整理して自己完結する。

それからしばらく歩くと、カンガルーを放し飼いにしている一角があったので、餌を買ってそれを手の平に乗せてカンガルーに餌をあげる。
最初はカワイイなあとノンキに餌をあげていたのだが、天候のせいか他に人もあまりおらずすごい勢いでカンガルーが集まってきて、あっという間に20頭近いカンガルーに囲まれてしまう。体も結構大きいのでスゴイ迫力。さすがに少しびびる。アッこら俺は餌じゃない。それは手だ、手だよぉ食べないでくれえ。

 その後ウォンバットやタスマニアデビル、エミュなどを一頻り見てむずがるコアラとの2ショット写真を受け取り、来た時と同じようにバスに乗ってブリスベンの町に戻ると、もう夕方だった。

 宿泊しているユースホステルのドミトリールーム(部屋ではなくベッド貸し)に帰り、2階にある自分の部屋に入って電気をつけると、台湾人の青年が部屋で寝ていた。すると起してしまったようで、眠そうな顔でドウモヨロシクとアイサツされる。朝は僕と入れ違いに白人男性がチェックアウトして部屋を出ていったが、今日は彼と相部屋らしい。
 しばらく世間話をするが共通の話題も無かったのか、食事に行ってくると青年は部屋を出て行ってしまった。僕もお腹が空いたので、1階へ降りて食堂でサンドウィッチとコーラの簡単な夕食をとることにする。

 食事の後共同のホットシャワーを浴び、特にする事もなかったので1階のロビーに降りて行くと、日本人の男女2人組がいたので話かけてみる。
 すると彼達はワーキングホリデーでオーストラリアに滞在しており、このユースを基点に現在、語学学校に通っているという。他にも2人、今このユースには長期滞在している日本人がいるらしい。するとちょうどその2人も帰ってきて、一緒にしばらく話し込む。

 中でもJリーグのユースチームでプレーしていた、元サッカー選手のジン君とは、僕が大のサッカー好きということもあって、ヨーロッパのクラブチームの話で盛りあがる。

少し仲良くなって互いの身の上話をする。なぜオーストラリアでワーキングホリデーをしようと思ったのか聞いてみると、なんでも彼はケガなどもあってプロを目指してずっと頑張ってきたサッカーの夢を、断念しなくてはならなくなったそうだ。
今までずっとサッカー一筋でやってきたので、その大きな目標を失ってから自分がこの先どうやって生きて行けばいいのか、わからなくなってしまったのだという。
一時は落ち込んで自暴自棄になったらしいが、少し時間がたっていつまでもこのままではいけないと思い、新しい自分を探す為にここオーストラリアにやってきたのだと話してくれた。
自分も音楽一筋でこれまでやってきたが、色んな辛い出来事があって一時は音楽をやめてしまおうかと思ったこともあること、でもやっぱり音楽が好きで夢を諦めることが出来なくて、新しい自分のカタチを探そうとこの旅に出たことなど話す。

夢に向かって必至に頑張っている時は、とにかく無我夢中でがむしゃらに突っ走っているから、あまり色んなことをじっくり考える時間もなかったりする。
考えることといえば自分の夢がかなった姿や、それを楽しんでいる自分といったポジティブな部分。そして目の前に立ちはだかる、越えなくてはいけない様々なハードルのこと。与えられたチャンスをモノに出来なかったらどうしようとか、ツライとか逃げ出したいといったネガティブな部分。色々なことを考えたりしたけど、でも全ては自分の追い求める夢のことばかりで、いつも自分の中心にはその夢があった。

でもある日突然その夢の存在が無くなると、自分の中に大きな穴がぽっかり空いたようで、どうしたらよいかわからなくなってしまう。その夢の存在が自分にとって大きければ大きい程、自分が空っぽになった気がしてまるで抜け殻のようになってしまう。

愛とか情熱と同じように、夢なんか無くたって生きてはいける。でもこれらは自分の人生を、とびきり素晴らしく輝いたものにしてくれる。
愛とか夢とかといったものによって輝いている自分を、生きる喜びを知ったものにとって、それを失うことはある意味死ぬこと以上に辛いことだ。

愛とか夢など無くたって生きていけると書いたが、本当はそうは思わない。人はパンと水のみによって生きるにあらずという言葉があるが、生きてさえいればそれでいいという気持ちにはなかなかなれない。生きる為の目標というか、自分の胸の中に何か1つ大きな存在がいて欲しいと思ってしまう。

夢の先にあるものっていったい何だろう。

成功と栄華か?絶望と哀しみなのか?それともいったい?

まだ僕にはわからない。もしかしたらこの旅が終わる時、うっすらとその先にあるものが見えるのかもしれない。でも僕は夢の先には、やはりまた新たな素晴らしい夢が続いていて欲しいなって思う。いつも輝いている自分でいたいとそう思うから。

しばらくすると食堂のTVでヨーロッパのクラブチームナンバー1を争う、チャンピオンズリーグの試合が始まったので、ジン君と一緒に観戦してこの日は眠りについた。

 翌日は天気も良く、予定している夕方6時の列車まで時間があったので、ギターを持って公園でのんびりと過ごす。  
 せっかくだからと夕方この街の中心にある、クイーンズストリートで路上ライブをすることに。ストリートライブはバンコクやシンガポールでも時折やっていたのだが、オーストラリアに入って以来ずっと雨だったので、これがオーストラリアでは初めてだ。

 一曲目が終わったところで、隣のベンチに座っていたおじさんが頑張ってなと、60セントを入れてくれた。しかしそれっきり30分以上たってもまったく金が入らない。
この日はビートルズやU2のナンバーなど、英語の歌を中心に歌ったのだが、やはりネイティブスピーカー達には通じないのだろうか。少し不安を覚える。
4~50分もしたところで、あまり気持ちも乗ってこないので引き上げてきてしまった。 

 アジアでは毎回、1日の食事代程度にはなっていたので、ジュース1本も買えない成果に少し悔しい思いをしながら、ユースに戻ってその事を昨日のワーホリの皆に話すと、ジン君と彼と仲の良い女の子が私も聴きたかったと、嬉しい事をいってくれた。

 列車の出発時刻が近づいたので、荷物を持って皆に別れを告げ駅に向かおうとすると、ジン君と先程の女の子が、同じ方向なのでと見送りについてきてくれた。お礼とお別れを兼ねて駅前のホームに続く階段で1曲、心を込め自分のうたを歌う。

歌い終わると最高です!と2人は握手を求めてきた。またいつかどこかで会いましょう、元気でと手を振って別れる。この日のストリートライブは散々だったが、少なくとも小さな友情という名のコインは、得ることができたかなと思う。
 

拝啓、世界の路上から 第4話「極貧ヒッチハイクの旅/タイ」(後編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第4話「極貧ヒッチハイクの旅/タイ」(後編)

 翌日メーホンソン行きのバスに乗り、1時間半程行ったタムロッドという巨大な鍾乳洞の近くでまたもや途中下車し、車をチャーターして行ってみようということになった。
 そこは中に入るとかなり広大な鍾乳洞で、中にはワニや象といった動物の形をしたものから、無理やりこじつけたとしか思えないUFO、また古代人が書いたという壁画も残っていた。そしてそこには川が流れており、鯉に似た無数の魚が泳いでいた。
 筏もありそれでラフティングのように、鍾乳洞を流れる川を下れるとのことだったが、料金が高く当然僕達には手の届かない代物。

 鍾乳洞を見た後、またヒッチハイクで3時間程かけてようやく本来この旅で2番目の目的地である、メーホンソンへ移動する。
途中1件の町外れにあるお寺に寄ったのだが、そこのお坊さんはいい人で水やら豆やらを食べなさいと持ってきてくれた。タイのお坊さんは親切だねとポムに話すと、あのお坊さんはミャンマーの人だという。ミャンマー人は皆こんなに親切なのだろうか。
またこの辺りの田舎のお寺になると、日本の檀家制度にも似たより地域に密着した風習があるらしく、お寺が近隣の皆が集まる集会所も兼ねているようだ。そこでマラリア注意の張り紙を見てびっくり。
 ポムにこの辺りはマラリアがあるのかと尋ねると、この辺りは少しだけだがミャンマーの国境近くのジャングルでは、気をつけなくてはいけないという。
本当はその界隈に住む首長族、パダウン族の村に行くトレッキングツアーが、このメーホンソンのトビキリ1番の目玉で、ぜひ僕も行ってみたいと思っていた。だがタイ人にとって首長族はただのイナカモンで面白くもなんともないらしく、外国人観光客じゃあるまいし、あんなもの何でワザワザ見たがるのだ、ちっとも良くないぞと皆の大反対にあい諦めることに。いや、だから僕はその外国人旅行者なんだって。ねえ忘れてないかい?

 街のホテルにチェックインした後、長い山の階段を登ってワットプラタートドイコンムーという、長ったらしい名前のお寺に行く。
ここは標高424mのコンムー山の頂上に建つ寺院で、ここからはメーホンソンの街はもちろんのこと、西側にはミャンマー(ビルマ)の山々がはっきりと見渡せる。
しかしここまで延々と続く階段をひた上ること30分弱、皆ハアハアと息を切らしてやっとのことで寺院に辿り着いたのだった。それでもそれだけの労力に見合って余りある程、そのミャンマーの山々に沈んで行くサンセットがたまらなく綺麗で、言葉も無くしばしただ見とれる。
だがそのようなウンチクは事前に知らさせておらず、ただお寺行くからお前も来るか?といわれて付いてきただけだったので、カメラをホテルの部屋に置いてきており写真は無し。もっとも正直この旅はカメラを持って歩く程、精神的に余裕が無いのも事実だった。とりあえず心の1ページに刻んでおくことにしよう。

 この日の夕食は少し豪勢に皆で外国人が行くような、といっても僕が外国人なので僕達ツーリストが行くような、小洒落たレストランで食事をする。
6人でタイ料理を頼み500バーツ、1500円。1人あたりにすると250円だったが、僕達のこの旅の食費は1食あたり2~30バーツ、6~90円だったので、これでもかなり豪華だったといえる。明日は朝6時のバスで移動するというので、朝5時ロビー待ち合わせにしてこの日は早めに就寝。
 
 翌朝4時過ぎに起きて荷物をまとめ、時間通りに5時にロビーで待っている。だが誰も来ない。15分待ったところで皆の部屋をノックするが返事が無い。何度かノックするが返事が無いので、そのままもう少しロビーで待つことにする。
さらに15分経つが、誰1人として降りてこない。何度も部屋をノックするが、物音一つしない。
別にこっちは洗剤付けるから新聞3ヶ月とってもらおうとか、NHKの視聴料金納付は国民の義務ですなどと言いたい訳ではないのだけれど、幾らノックしても反応が無い。
山田さん宅急便でーすとか、そこにいるのはわかってるんだ、諦めておとなしく出て来い!とバリエーションを変えて続けてみるが、ネタがお気に召さないのかウンともスンともいわない。
そのうち疲労がピークに達すると、僕はネガティブ化というか被害妄想神経?(そんな神経があるかどうか知らないが)が活性化して、皆僕を置いて先に行ってしまったのではないかとか、実は本当の待ち合わせより1~2時間先に知らせておいて、皆で僕をからかっているのではないかと半精神病状態に陥ることが時々あり、この時もきっと皆に意地悪されたのだと勝手に思いこみ、ジョーダン顔だけっ!と1人で腹を立てて、部屋に戻って来てフテ寝してしまう。相変わらず思い込みの激しさだけは超一流だ。
しかし冷静になってそんなことが果たしてあるだろうかと思い直し、もう一度今度は皆が起きるまでやってやろうと、半ば殴りつけるようにして部屋のドアを思いっきりドンドンと強打し続ける。するとやっと何やら中から物音がして、皆眠そうな目を擦って出てきた。そして時計を見て騒然とし始める。
 ポムの話によると、ゴメン目覚まし時計をセットし忘れたとのこと。思わずコケる。
勘弁してくれえ。君達が朝6時のバスに乗るといったのだろうと、思わずボヤキたくなったが苦笑い1つで我慢する。既に時計は6時近かったので、次の8時半のバスに乗ることにして、7時に荷物を持ってロビー集合に変更になった。

 僕はもう荷物もまとめてしまっていたので、朝の街を散歩することに。でも小さな街なので1時間もしないうちに中心部を1周してしまう。ワットチョンクラ―ンとワットチョンカムという、ビルマ様式の池のほとりに双子のように並ぶ寺院等を見てホテルに戻ると、7時少し前だったのでそのまま荷物を持ってロビーで待つ。
 しかしやはりというか、皆が出てきたのは7時15分過ぎだった。それも荷物を持ってバス停へという話だったのが、いつの間にか荷物は置いて市場を見に行こうに変更されていた。ガックリ肩を落とし、少しこの旅を後悔し始める。

 市場を見て回った後、8時頃ホテルに戻り荷物を持ってバス停へ急ぐ。それでも10分前にはバスに乗ることができた。

 それから8時間程かけてバスは、行きに来た道と逆周りのメーサリアン経由で、359km離れたチェンマイへと向かって走り出した。途中でまたもやポーンが山に寄りたいと言い出し、途中下車させてくれるようバスの車掌と何やら話をしていたが、駄目だといわれたらしくそれは中止となったようだ。こんな感じでその日の予定が当日の朝に決まるどころか、数時間後にどんどん変更されていくのはザラだ。
 しかし写真への情熱からなのかポーンはそれでも諦めずに、チェンマイの郊外で予定より1時間程早くバスを降りて、車で山へ向かうことになった。しかも今日はまたテントとのこと。
 先日の事があったので、今日はちゃんと防寒対策ができているのかと何度も念を押すと、ブランケットが借りられるとのこと。先日と違って今日の山は、標高が低いというのでとりあえずOKする。ただライトだけはどうしても用意したかったので、僕が自費で買うことにした。これが80バーツ、240円。

 キャンプ場へ向かう車の手配をしていると、チェンマイ大学の学生2人が同じ場所に行くという。この2人の女の子はティアップとラオですと自己紹介をする。
せっかくだからとこの2人もしばらく一緒に行動することになり、僕達は8人のグループに膨れ上がる。

 キャンプ場に着くとなかなかしっかりとした近代的なキャンプ場のようで、食堂や売店もあり、ここなら先日のようなことはなさそうだと安心する。
 ただテント代が1人40バーツなのに対し、ブランケット代が1人50バーツなのは少し笑える。僕達が例によってテント3つ、ティアップ達も1つ借りて同じ場所にテントを張る。
テント近くにはカマドがあり、エー達が僕にライターを貸してくれというので貸すと、それを使って焚き火をつけようとしている。ただやり方あまりにも素人的で、それではすぐ消えてしまうのでと僕が手直ししようとすると、余計な事はするなといわんばかりに、お前には無理だと制される。
これでも野営に関してはエキスパートのつもりなので、少しプライドを傷つけられたが、まあやってみなさいとほっておくことにして、お先に共同の水シャワーを浴びることにする。

 戻ってくるとやはりというか火は消えていた。しかしティアップ達が代わって、火をおこそうとしているところだった。
さすが北の子達は、都会の子と違って勝手がわかっているらしく、合理的に火をおこしている。また準備も万全で、防寒具からライトまで一通り揃えているようだ。この子達と一緒なら大丈夫そうだと安心する。

 夜になると僕の懐中電灯が大活躍。当初そんな無駄なものを買ってまったくこの子は、ホラお店行って返しておいでと、今月も赤字だと呟きながら家計簿と格闘する母親のような、突き刺さる冷たい目で見られていた。
だが僕の経験上、明り、火、防寒具、水および食料は、山では絶対的な必需品と確信に近いものを持っているので、それが確保できない限りはもう山でのテント生活は嫌だといって、あえて無理を言って自腹で買ったのだが、やはり無いと困るものだというのが彼女達にもわかったみたいだ。
 事前に備えるという感覚は日本人特有のモノなのか、タイ人がたまたま持ち合わせていないだけなのかは分からないか、カルチャーギャップというものを強く感じる。
 ただこの日はティアップ達が良いクッションになって、ポム以外の皆ともトランプをして遊んだり、僕のギターでうたを歌ったり、僕が皆に日本語を教えたりして多いに盛りあがる。
 トランプは前に1度大貧民(大富豪ともいう)に似たゲームで、タイ語で奴隷(富豪は王様)という意味のゲームをやった際少しルールが違ったので戸惑ったのだが、今日はババ抜きならぬ「ジジ抜き」(ジョーカーを入れず52枚のカードから適当に1枚抜いて遊ぶババ抜き)で遊ぶ。
 ルールはほぼ日本と同じだが、違うのがタイ語でこのゲームを「お婆さんの飲む水」というらしく、負けたものが水をイッキ飲みしなくてはならないそうだ。
 前回はルールの違いで戸惑ったが、今回は勝手知ったるゲーム負けはしないと大人気無く勝たせてもらう。(普通唯一の大人?である僕は、わざと負けてあげていいものだが)
 また日本語を教えてくれといわれたのだが、ただそのまま教えたのではつまらないだろうと、フリツケをしてできるだけ汚い言葉を教えてあげることに。
 たとえばグッドは「やるじゃん」と親指を1本立ててダンディにニッと笑うとか、ナイスは「いいねえ」と親指と人指し指2本でLの字を作りアゴにあて、怪しげな業界人風に下から上に斜めヒザ運動をして覗き込むようにとか(細かい)、やあ!は「オイッス」とドリフのいかりや長さんの物真似で、似てないとほらもう1度と何度もやり直させる。そして厳しい猛特訓の末?全員がみごとマスター。最後には皆から先生とか師匠とか、父ちゃん?と呼ばれる。
 以来何かにつけてエーとジーンが漫才コンビのように、それを面白おかしくやるものだからその度に皆で腹を抱えて笑う。
今回のタイ北部の旅に出てからというもの、どうもどこかチグハグな感じがして気持ちが消化不良を起こしていたのだが、この日はタイ人も日本人も同じ人間として1つになれた気がする。また夜は少し寒かったものの、この日は無事に眠りについた。

 翌日はまたヒッチハイクで近郊の山にある国立公園へ行き、午前中は3時間程かけトレッキングをする。アップダウンの激しい山道で少しハードだったが、途中川や小さな滝があったり、展望コースがあったりと自然を満喫する。

 午後からは少し遠いがタイ人の間では有名な景勝地、メーサー滝を見に行く事になっていた。しかしまた例によって、予定に無い寄り道が急に2つ増えたため中止になる。タイにはまったく計画性とか、プランニングという言葉が無いのだろうか。
 チェンマイに戻るのも例によってヒッチハイクだったのだが、この乗せてくれた車の家族連れがピクニックの途中らしく、水遊びをするといって川に立ち寄る。ここでこの家族は、服を来たまま着替えもせずに川で泳ぎだす。
 僕が驚いてポムに皆服着たまま泳いでいる!と言うと、何か彼女の機嫌を損ねたのかポムはその人達の方へ向かって歩き出し、彼女も一緒になって服を着たまま泳ぎ始める。
 僕は少し責任を感じて、ジーンに貴重品を預けてその後を追う。できるだけ濡れない様にと思っていたが、やはりというか滑りやすい岩場だったので、足をとられて結局一緒に服のまま泳ぐ羽目になった。

 どうしたの?とポムに聞くと、何でもないただ暑いだけといっていたが、日本語の通じるポムですら時々わからなくなるときがある。知れば知るほどタイ人はわからない。

 ティアップ達とは昼過ぎにトレッキングの後別れたのだが、彼女達が探してくれたというホテルにこの夜は泊まる。
 1泊380バーツと今回の旅からするとかなり高額ではあったが、エアコンとバスタブにホットシャワーがついてこの値段だったので、かなり割安感があった。またこの日はジーンのリクエストでデパートに寄り、ポムの提案でMKというタイでポピュラーなチェーン店のタイスキを食べる。久々に文明的な時間を過ごし、僕もホッと一息つく事ができた。

 旅も残り僅かだったので、ポムと帰り道この旅について振り返りながら少し話す。
 タイの学生の旅は皆こんなにハードなの?と聞くと、いやこれはポーンスタイルだと笑う。ポムは元々体があまり丈夫では無く、持病があって長距離の旅はいつもお父さんと一緒とのこと。ヒッチハイクのこともバレたら殺されるらしい。
 一方ポーンはバンコクからプーケットまで、往復すべてヒッチハイクで車を何台も乗り継いで行ってしまうというツワモノで、彼女はカメラマンの血が騒ぐのか撮りたいものがあると、周りの事などお構いなしになってしまうところがある。元々タイ人には自己中心的な所があるなと思っていたが、他の皆も今回はさすがにハード過ぎるというのが本音のようだ。
 
 翌朝市場へ寄った後、ポンのおじさんがトラックで迎えに来る。今日はこのランパ―ンに住むポンのおじさんの家に泊まるという。
 さすがにこれには僕も一緒というわけにはいかないので、何度も辞退を申し出るが、タイでは大丈夫と諌められ結局一緒についていくことになる。

 トラックの荷台に2時間程揺られると、ランパーンの郊外のひっそりとした農村の一角にある、ポンのおじさんの家に到着する
 このおじさんもすごくいい人で、僕達の突然の訪問にも大歓迎でもてなしてくれる。
おじさんご自慢の手料理で夕食もごちそうになり、おまけにビールも勧められ久々にアルコールを口にする。しかしおじさんはこの後ビンビールを3本も空け、ひどく酔っ払って皆に絡み非難轟々。どこの国でもヨッパライとセクハラオヤジはお約束のようだ。
またこの日は見たいドラマがあるからと、皆テレビに釘付けになる。どんなものかと思いきや、なんと反町隆と江角マキコ主演の日本のドラマ。ただタイ語の吹き替えがとってつけたように異常にズレており、その上棒読みでひどい違和感を覚える。それでも画面に食い入るようにしてドラマを見る彼女達を見て、どこの国でも皆大して変わらないなあと微笑ましく思う。

 翌日最終日はタイ保護象センターというところで、洗練された十数頭の象のショーを観る。ここは世界で唯一の象の病院や象使いの学校が併設されており、何でも王様の象も選ばれるという由緒正しい施設とか。また象にも10分50バーツ、約150円で乗る事ができたので、僕とポム、そして前回乗っていないポーンとポンの4人が象に乗る。

 その後さらに車に揺られてランパーン郊外にある滝を見に行く。ポムが歌ってくれというのでトラックの荷台でギターを取り出し、ものすごいスピードと風に振り落とされそうになりながら、自分の歌やベンEキングのスタンド・バイ・ミーを歌う。このシチュエーションが自分でも気に入ったこともあり、調子に乗って延々と30分以上も歌う。

 滝に着くと例によってポムはまた服を着たまま泳いでいる。今回はエーも巻き添えを食って水浸しだ。急に大雨に降られしばらく雨宿りをした後、近くに温泉があるというので行ってみる。皆は1人5バーツのホットシャワーを、僕は20バーツだして浴槽付の温泉の方に入る。実は結構温泉には日本にいるときから目がなかったりする。お湯は少しぬるめだが、久々の温泉はなかなか気持ちいい。

 それからまた列車に乗るためランパーンの街に移動するが、駅で空席を確認すると今日列車は満席だといわれる。ただ長距離バスには空きがあるらしく、明日の朝にはバンコクに着けるという。これが料金315バーツ、約945円。
 まだ出発まで2時間以上時間があったので、屋台でタイ風フライドライスなどの定番の夕食を済ませてから、皆で馬車に乗りランパーンの町を一周する。
 ランパーンの街は思った以上に都会でかなり広く、ぐるっと周るのに30分以上かかる。夜の街を馬車で走りながらぼんやりと、もうすぐこのタイ北部の旅が終わるのかと考えていたらなんだが少し寂しくなった。

 バンコクへ向かう夜行バスの中で、今回の旅を振り返る。
 僕はタイという国が好きだ。食べ物は美味しいし、何でも揃っていて物価も安い。でもタイ人については正直あまり良い印象を持っていなかった。もう1ヶ月以上このタイにいるというのに、今だタイ人というのがさっぱり判らないでいたせいもあった。
 そんな時今回ひょんな事からタイの学生と一緒に旅をするチャンスを得て、ひょっとしたら何かわかるかもしれないと期待したのだが、やはり何もわからなかった気がする。
 やっと何かがわかりかけてきたところで、ふっとすり抜けるようにまたわからなくなってしまう、そんなことが多かった。ただその中で1つだけわかったのが、やはり日本人とタイ人はまったく違う人種だということ。
 見た目もよく似ていて、ポムなどは日本語でコミュニケーションが取れたりするものだから、時々彼女がタイ人であることを忘れてしまう時がある。でもやはり僕達は違うのだという事を、まざまざと見せつけられたそんな旅だった気がする。
 でもその反面同じ人間なのだと感じることも幾つかあって、それを見つけられただけでも僕はハッピーだった、それだけでも皆と旅ができてよかったとそうポムに話すと、嬉しそうに笑っていた。
 今回の旅で初めて腰を落ち着け滞在したタイ。物価も安く居心地の良い国であったが、僕はそろそろ次の国に移動する頃かなと、窓の外を流れる夜景をぼんやりと見つめながら皆と別れる寂しさの上に、新しい明日の1ページを重ねることを決心していた。

拝啓、世界の路上から 第4話「極貧ヒッチハイクの旅/タイ」(前編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第4話「極貧ヒッチハイクの旅/タイ」(前編)

何だ?いったい何が起こったのだ?
ここは東南アジアにあるタイの首都、バンコクのファランポーン駅。先日、日本の友人から紹介された、タイ人の大学生と会った際、話が盛り上がり一緒にタイ北部のチェンマイに遊びに行くことになった。
それで今日はこのバンコクの中央駅で、夕方6時に待ち合わせをしているのだが、6時になるといきなり駅構内に国歌が流れ出し、辺りにいる全員が一斉に起立して直立不動。
 偶然僕はその時立っていたので、そのままあっけにとられて立ち尽くしていたのだが、国歌が終わって皆が着席した後も、何が何だかわからない僕は独り、口をポカンとあけて呆然と立ったままだった。
 後で知った話だが、駅やバスターミナルなど公共の場では、朝8時と夕方6時になると毎日必ず、国歌が流れるとのこと。映画館なども同様に、本編前に国王の映像が映し出され、国王賛歌が流れて全員起立なのだそうだ。さすが王室不敬罪が存在する国だけある。

前話のアフリカからバンコクに戻った僕は、韓国で盗難にあったトラベラーズチェックの再発行手続きの為、発行元であるアメリカ企業に国際電話を入れた。しかしそこで驚くべき事を告げられる。
なんでも僕の持っていたトラベラーズチェックは、既に使用されており、盗難の状況もこちらに過失があるので再発行はできないというのだ。
盗難にあった即日にチェックはストップをかけており、ストップも間に合ったと1ヶ月以上も前に、そちらから連絡を受けているではありませんか、なぜです!と猛抗議するも、ストップをかけたからといって完全ではないのでこういうこともある、とにかく再発行はできない、これが最終決定だと冷たくあしらわれてしまった。
4800USドル、日本円にして50万円以上の大金、ハイそうですかと簡単にこちらも引き下がれる額では無い。
こちらからアメリカ本社の担当者に国際電話すると、名前を告げるなり電話をガチャ切りされるなど、かなり随分な対応をされながら、金属バットをハラマキに隠して殴りこみカケタイ心境を抑えて、必死に穏やかな口調で何度も抗議をし、1ヶ月以上に渡って今日まで交渉を続けてきた。
だが裁判で訴えてもらっても結構、この決定は覆らないとまでいわれては、もう打つ手が無い。
今回盗難にあったトラベラーズチェックの金額は、この旅の資金の約3割にあたる。それが戻らないとなると、1年間予定していたこの旅も、大幅な軌道修正が必要になりそうなマズイ事になっていた。

 相変わらずポカンと口を開けたまま中央駅で待っていると、約束の時間から15分程遅れて、前述のタイ人大学生ポムがやってきた。今度のチェンマイへの旅行は、彼女の大学の友達が4人一緒らしく、さらにそのまま駅でその友達が来るのを待つことに。そして全員揃ったのは、結局約束の時間から約45分後。タイではこういった時間感覚は、ごく日常的な情景みたい。

 夜の7時25分、定刻通りに僕達6人を乗せた夜行列車は、今回の最初の目的地チェンマイに向かって走り出した。この旅のメンバーは僕以外全てタイ人で、皆タイのエリートが集うバンコクのタマサート大学の学生。
僕の友人のEメール友達で日本語が話せるポムに、今回の旅の主催者でアマチュアカメラマンのポーン、少しおっとりしたポンに、細身で長身のいつも鼻歌を歌っている男勝りなエー、そしてああデパートに行きたいが口癖の、いつも陽気なギャクで笑わせてくれる小柄なジーンの計6人。
チェンマイまでは一晩かけての移動だが、寝台車は料金が高いので、少し狭いが普通座席の2等席を購入。これで500バーツ、約1500円。

 バンコクのファランポーン中央駅を出発して約12時間後、朝7時過ぎに僕達を乗せた列車はチェンマイに到着する。

チェンマイは首都バンコクから北へ710km離れた、ピン川のほとりにある山々に囲まれた古都で、100を越える寺院が立ち並ぶタイ北部最大の町。そして今回の旅はここチェンマイを起点にして、タイ北部の山岳地帯にある、自然に囲まれた村々を巡るのが目的だ。
とりあえずまずは今晩の宿探しと、駅前に停まっていたソンテウというピックアップのタクシーに乗り込む。
チェンマイを訪れるのは僕は今回が初めてであったが、他の皆は何度もチェンマイに来ているらしく、宿は探せばどこかあるというので安心していた。
 だが手頃な宿はなかなか見つからず、道行く人に何度となく訪ねながら1時間以上も探しまわって、ようやく空室のあった1件のホテルにチェックインする。
男は僕1人なので当然1部屋別にしたが、彼女達はツインルーム1部屋に5人で泊まるという。ベッド2つに5人も寝られるのか?と思いそれを告げると、宿に許可はとってあるから大丈夫だという。
そのような意味で言ったのではなかったのだが、この後も彼女達はこのスタイルをずっと貫いていくつもりらしい。

 部屋に荷物を置いた後、ソンテウを1日貸し切り郊外へと繰り出す。何処か行きたい所はあるか?と聞かれたので、タイ北部の観光名物である象に乗りたい旨を告げると、ポムが何やらタイ語で運転手と話し始めた。すると郊外にエレファントキャンプがあるらしく、そこへ行こうという。

 山道を一時間半程走ると、ようやくそれらしき建物が見えてきた。駐車場に車を停めて降りると、キャンプのゲート横に受付があったので料金を聞いてみる。すると象1頭に2人ずつ乗るなら、1人あたり30分で300バーツとのこと。
日本円にして約900円。僕はそんなものかなと思ったのだが、やはり観光客値段らしく、タイ人にとってはすごく高いといって何やら他の皆はもめている。結局カメラマンのポンとおっとりポーンは象に乗るのを諦め、僕とポムの日本語スピーカーコンビで1頭、長身エーとおチビなジーンの凸凹コンビで1頭の、計2頭の象を借りることに。

 このエレファントキャンプではちょっとした山道と、敷地内の溜池に流れる川とで周遊コースが作られており、そのコースを1周してちょうど30分くらいだという。
建物の2階程の高さに作られた、木の上の見晴台といった趣の象乗り場から、僕達は元気よく象の背中につけられた木製のイスに乗りこむ。
象の背中を触ってみると、肌がザラザラとしていて硬い。また体全体に硬くて長い毛が生えており、象にも毛があるのだと妙な感心をする。

 しばらく象の背中に乗っているとポムが、象の首にまたがって乗っている、編み笠のようなものを被った小柄な騎手の兄さんと何やら話し始めた。すると何を思ったか、その騎手は大きく頷いて象から飛び降り、僕に象の首に乗れという。
 何を言っちゃってるんだこの人は?と思ったが、ポムもほらほらというのでここで怯んでは日本男児の名折れと、日本男児などと縁遠いヘタレの心臓をなだめすかして、エイ・ヤーと掛け声だけイッチョ前、動きはオッカナビックリの及び腰で象の首にまたがる。どうやらポムは僕を象の首に乗せてくれないかと、騎手の兄さんに交渉していたみたいだ。

 当初こそ、えっ?マジっすかぁ?と、情けない作り笑いを小刻みに震わしながらビビっていたのだが、馴れてくるとコレがなかなか楽しい。
ただ象の髪の毛がズボン越しに、チクチクとお尻に刺さって痛い。また適度な揺れが自然と上下運動となり臀部を刺激するものだから、アラヨッと何度も座り直すことになり、傍から見るとまるでお尻をぷりぷりと振っているかのよう。かなりみっともない。

後ろを振り返るとエーも同じく首のところにマタガッテおり、口を鶏のくちばしのように尖らせ、キエエーと何やら怪しげな奇声を発している。暑さにやられたのだろうか。

 30分もすると元の象乗り場に戻ってきた。騎手の兄さんの話によると、象の名前はメノマーといい8歳のメスとのこと。サンキュー、メノマーと彼女にお礼を言って、背中をポンポンと叩いて降りる。

 エレファントキャンプを後にし、車はさらに1時間以上かけて山道を走りプーピン宮殿に到着する。ここはタイ王室の避暑地として利用されている、1962年に建設された離宮で、王室が滞在していない間は、美しい花々が咲き乱れる庭園を一般公開している。
しかし僕達は皆、半ズボンとサンダルというイデタチだった為、入園を拒否されてしまった。首都バンコクにある第一級寺院ワットプラケオもそうだが、王室に関連する場所ではキチンとした服装でないと、参拝が許可されないみたいだ。

せっかく郊外に来たしとプーピン宮殿から程近い、ワットプラタートドイステープという、山の上に聳え立つ金ぴかのお寺を参拝することにする。
1383年、標高1080mのステープ山の頂上に建てられたこの寺院は、チェンマイ随一の名所とかで、仏舎利が納められているということで有名らしい。熱心な仏教国で知られるタイなので、当然この寺院に対する地元の人の信仰も厚い。
仏教といってもタイのそれは、日本や中国などで信仰される念仏を唱えれば極楽浄土に行けるといった、他者救済の大乗仏教とは違い、スリランカやミャンマーなどの南方の国で信仰される、自己の悟りをひらく為に修行する従来の伝統仏教である上座部仏教だ。

僕はあまり信心深い方では無いのだが、郷に入りてはナンチャラと他のタイ人のメンバーにならって参拝方法を教わり、必需品だというので参拝セット?なるものを購入し、皆で一緒にお参りする。
参拝セットとは蓮のつぼみ、紙にはさまれた金拍、ロウソク、日本の花火セットに入っている手持ち花火みたいな線香の4つで、まず靴を脱いで仏像の前に座りロウソクに火をつけ、他の並んだロウソクに平行して自分のロウソクを立てる。それから線香に火をつけ、花と金箔も一緒に持って、額の前にそれを擦りつけるようにして合掌。
そのタイミングで何かお祈りをしろと言われたので、お金をくださいタクサンください、もう充分だイラナイヨって一度言ってみたいのですと3回念じてから、先程のロウソクと同じように線香と花を、並んだ他のものと平行して置く。それからもう1度正座して合掌。その直後に土下座で平伏するようにオジキして、合掌と平伏を3回続けて終了。

日本のお参りはシキタリが少なくて楽でいいなあとか、これでもかという程金ピカなこのお寺の建物は純金なのだろうか、それともメッキなのか?純金だったら寺ドロボウが絶えないのでは?でもメッキで出来たお寺ってあんまり有り難くないなあなどと、不謹慎なことを思いながら、小一時間程寺院内を見て回り宿に戻る。

 夜になって皆で食事を取った後、チャンクラン通り沿いのナイトバザールに繰り出す。ここは毎日夕方から深夜までずらりと露店が並び、海賊版のブランドモノや、民芸品等が売られている。ここでしばらくぶらついていると、絵描きの工房がありしばし見とれる。また民族楽器店もあったので少し冷やかしてから、この日は宿に戻って就寝。
 
 翌朝はまた街を走るピックアップのソンテウに飛び乗って、ワットウモ―ンへ行く。このお寺は瞑想修行を中心とした宗派の寺院なのだが、緑深い山の中にトンネルを堀ってその中に仏像を安置してあるのが特徴で、ひっそりとした雰囲気がどことなく、古代に栄えた廃墟の遺跡のような神秘的な感じがする。
その後チェンマイで最も格式が高いといわれるワットプラシンや、体育館のように広い本堂の中にこれまたデカイ青銅の仏像が安置されている、ワットスアンドークなどを参拝しホテルに戻る。まだまだチェンマイには多くの有名な寺院があるらしいのだが、もう充分お腹一杯という感じだ。本当にタイはお寺がものすごく多い。

 ホテルをチェックアウトし、タイのヌードル屋台で昼食を取った後、僕達はこの旅の2つ目の目的地である、ミャンマーとの国境近くにある山間の町、メーホンソンに向かって出発する。ただチェンマイからバスではダイレクト便が無く、北周りでも南周りに行くとしても、どちらも乗り換えが必要のようだ。そこで今回は北周りを選択し、その経由地であるパイ行きのバスに乗る。そして通常なら4時間程でパイに着く予定だったのだが、そうはトンヤが卸さなかった。ナント道中でこの旅のリーダであるポーンが、景色が綺麗だからといってチェンマイから3時間程走った山中で、途中下車しようと言い出したのだ。

 予定と違うということは他のメンバーはわかっていたらしいのだが、今回の旅はカメラマンであるポーンに皆でクッツイテ行く企画らしく、誰も異論を唱えなかった。
だがタイ語のわからない僕は事情を知らないまま、ポムにバスを降りるので一緒に降りましょうといわれて、そうなのかと停留所も何も無い場所でそのまま降りてしまった。
何が何だかわからぬまま僕は、ただナニナニ?イッタイ何が起こったの?と、マヌケ面して皆の後を付いて行く。
そしてこの日はさらにヒッチハイクしたトラックの荷台に飛び乗って、15分程行ったトコロにある国立公園の中のキャンプ場で、テントを借りて泊まることになった。

テントをはりながらふと辺りを見回すが、僕達以外人っ子一人いやしない。
他には誰もテントをはっている人がいないねとポムに話すと、普通の人はまずこんなところで野営しないとのこと。私達が変と呆れている様子。大丈夫なのだろうか。
 
今回テントによる宿泊の事を何も聞かされておらず、寝袋も持ってきていなかった僕は、防寒具や寝具をレンタルできるがどうか聞いてみるが、そんなものは無いらしくテントだけとのこと。
他の皆も何も持ってきておらず彼女達は大丈夫だからというが、見たところかなりの標高に位置し昼間すら涼しい場所なので、幾ら南国タイとはいえTシャツ1枚の僕達は、あまりにも無謀に思える。
僕はこれでもボーイスカウト出身なのでテント生活には馴れているが、これだけ何の準備も無い状態での野営は初めてだ。しかし店の1つも無いこんな山の中では、もうどうすることも出来ず、結局このまま僕達はここで1泊することになる。
彼女達用のテントが2つ、僕用に1つで計3つのテントをレンタルする。これで1人1泊30バーツ、約90円。

 日が沈む前にシャワーを浴びるというので、共同浴場だという木製の仕切りがポツンと2つ並んだ場所に移動。そこで木の扉を空けると、ホースのついた水道の蛇口とバケツが1つずつあるだけ。これでどうしろと?と言いたくなったが、とりあえず服を脱いで自分に向けて勢いよく水を出す。
水は冗談も休み休み言え!と思わず叫んでしまう程冷たかったが、所々休みつつ冗談を言われても困るので、とりあえず体中に石鹸を塗りまくって、再度水で流して体を拭き慌てて服を着た。

 テントに戻るとまさに真っ赤な夕日が沈むところ。最高の雰囲気だ。
僕は旅中の移動による激しい気温差で、バカになってしまったショートネックのギターを取りだし、夕日に向かってスローバラードを1曲歌う。今回の旅用に日本で購入したこのミニギターは、まだ少し調子が悪かったが、それでも柔らかい弦に張り変えたりドコゾデ覚えた怪しげなお祈りを捧げたりと、試行錯誤の応急処置を施した為幾分マシになっている。
 しばらくしてチェンマイを出るときに、弁当を買って持ってきていたのを思い出し皆で晩御飯にする。ここでは食堂どころか薪も釜戸も無く、僕達は調理器具どころか食材すら持っていない。この弁当は僕達が持つ唯一の食べ物だ。万が一遭難でもしようものなら後は自生している葉っぱや、生のままの虫を食うしか無い。うーんサバイバル。

 すっかり日も沈み、皆で星を見ようというので更に夜が更けるのを待つ。ライトは用意してあるのかと聞くと、小さいペンサイズのライトが1本。後はロウソクだという。ライターはあるの?と聞くと持ってきていないとのこと。火が無かったら使えないじゃないかこのオバカさん!と一瞬固まったが、ひょっとしたらと思いバックを探ると、いつも持ち歩いている非常用のライターが1つあった。ああなんて私はエライのでしょう。
誰も何もいってくれないので自分でイイコイイコと誉めてあげた後、さあ皆火をつけるからね注目!と、視線を一身に浴びながらそのライターでロウソクに火をつけるが、あっという間に風で消えてしまう。ちょっと気まずい雰囲気。
ふと時計に目をやるとまだ8時前。だがこの時点で既に寒くて体がガタガタと震えていた。嫌な予感がする。
 しばらく一緒に星を見ていたが、彼女達はまだ星を見ているというので、お先にと僕はロウソクを1本受け取って失礼する。

 1人テントの中で特にすることも無いので9時過ぎには眠りについたのだが、夜中の12時過ぎにあまりの寒さで目を覚ます。ロウソクに火をつけその温もりでしばし凌いだが、1時間もたたないうちに溶けて無くなろうとしていた。おそらく気温は体感で1桁台、しかし僕達は薄いテントの中でTシャツ1枚、寝袋はおろか毛布1枚も無い状態。さらに気温が下れば冗談抜きで、命の危険すら考えなくてはいけないような状況下にある。

 他のテントからも力無い悲鳴にも似た声が聞こえる。彼女達も寒くて眠れないのだ。
とりあえずまだロウソクがあったはずなので、ポムやポーン達のテントに行き2本程分けてもらう。ライターも僕の持っているものだけだったので、彼女達の分のロウソクにも火をつけ、僕の受け取ったロウソクのうちの1本をエーとポンのテント用にと渡す。
 僕も自分のテントに戻ってこれでしばらく暖をとっていたが、これも2時間もするとなくなってしまった。時間はこの時まだ3時半。

 その後はいらない領収書や持ってきた小説を破いて燃やし、なんとかそれから2時間程やり過ごす。しかしとにかく寒い。ライターの無い他のテントではもっと悲惨な状況になっているであろう。時間にルーズなのはまだ良いとしても、このプランニングはあまりにもいい加減過ぎるとかなり頭にきていた。
でもそれを怒ろうにも唯一日本語の話せるポムですら、今日一日の予定すらわからない状況。すべては主催者であるポーンのその日の気持ち1つで、予定が変わる旅なのである。

 とりあえず太陽が出るまでの我慢と寒さに堪えていると、ポムが僕のテントにやってきて、突然今からテントをたたんで下山するという。
 ライトすら無い状況で真っ暗闇の中どうしろと!とあまりにも無茶な要求に、完全に僕はキレていた。
 それでもどうにか撤収して歩いて1km程下った所にある、テントを借りたインフォメーションの山小屋まで移動する。ポムがあまりにも寒いので、下山の予定を早めたのだと後で説明してくれた。それで僕もようやく状況を理解する。
 山小屋で夜明けまで凌いで、なんとか朝を迎えることができた。ポーンはこんな状況にもかかわらず、何事も無かったように日の出の写真を取り捲くっている。君ははたくましい。

 テントを返却した後、僕達はヒッチハイクで1時間半計4台の車を乗り継いで、昨日宿泊する予定だったパイの町まで到着する。
しばらく町を歩きまわり、1件の格安のバンガローを見つける。今日はここで1泊するという。彼女達はまたツインの部屋でベッド2つに5人で寝るようだ。
僕にはシャワートイレ共同の、ドンとマットレスが1つ置かれた部屋に案内されるが、共同トイレのすぐ上にある部屋なのでさすがに少し臭う。
これまでは皆でお金を集めてワリカンの形だったのだが、僕は自分の部屋代ぐらいは自分で払うからと、皆の部屋のすぐ上にある同じ間取りの部屋を1つ借りた。それでも300バーツ、約900円。
 
 荷物を降ろし、昨夜ほとんど寝ていないので昼頃まで就寝。それからレンタサイクルを借りて滝まで行こうと皆で繰り出すが、言い出したポーンが1時間後にリタイアして皆引き返すことになった。昨夜の件と睡眠不足で僕の機嫌が悪かったので、ポムが気を使ってもし嫌だったら先に1人で帰った方がいいと進めてくれた。でもこの時ポム以外の他の皆とは、あまりうまくコミュニケーションが取れておらず、他の皆も機嫌が悪かったので僕はその言葉を聞いて、自分がてっきり他の皆に歓迎されていないのだと思いこみかなり落ち込む。
 今思えば皆も疲れていたのだと思うが、この後彼女達はまた行き先を変えて、お寺に行くと言い出したので、じゃあ僕は宿に戻るよと言って、僕だけ先にバンガローに帰ってきてしまった。

 そこで一眠りした後この旅のスタイルには正直ついて行けないと思い、夕食の時に明日1人で先に帰ることをポムに伝える。
 ポムは判ったといって皆にそのことを話すと、皆が驚いてどうしてだ?と問いただしてくる。僕はてっきり皆がそう望んでいるものだとばかり思っていたので、戸惑ってだって皆はその方が都合いいでしょう?とバカ正直に答えてしまう。
 この時ちょっと用事が出来てとでも取り繕っておけば、自分だけ先に帰っていたのかもしれないが、皆がせっかくだから一緒に旅をしようというので、結局そのまま一緒に旅を続けることになった。

拝啓、世界の路上から 第3話「星降る島での出来事/タンザニア」(後編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第3話「星降る島での出来事/タンザニア」(後編)

バンガローに戻って荷物をまとめ食堂で朝食をすませた後、サオリさんの車でタウンへと向かう。
この車にはサオリさんと僕の他に、アサナテという調理場担当である、20歳ぐらいのアフリカ人の女の子が一緒だ。サオリさんのバンガローでは、現地のアフリカ人が数人働いているのだが、いつも遠出するときはお供に誰か1人連れていくという。特に今回は本土のダルエスサラームに行くということで、島から一歩も出たことの無いアサナテを、研修旅行も兼ねて連れていくのだと教えてくれた。
 サオリさんがいなくてもバンガローは大丈夫ですか?と聞くと、ハジさんがいるから大丈夫と笑っている。ハジさんというのはアフリカ人のおじさんで、パラダイスの番頭さんだ。でもアフリカの人にしては珍しく?すごくしっかりとした人で、応対もすごく丁寧。食事の時の給仕も、大きなホテルのウェイター並で、初めて会った時に驚かされたものだ。
 その事をサオリさんに話すと、ハジさんにはしっかりと研修を受けてもらっているからねと、得意げに話していた。小さなバンガローなのになかなかしっかりしているなと感心する。

 ガタガタ道を20分も走ると、ようやく舗装された道路に出た。サオリさんの車はずいぶんとオンボロで最近調子が悪いらしく、タウンに着いたらしばらく修理に出すという。途中1度エンストしてしばらく足止めを食ったが、それでもなんとかサオリさんの友人が勤める電話会社のオフィスに到着した。
なんでもそのジンバブエに住む、知り合いのミュージシャンのアドレスをどこかへやってしまったらしく、彼を紹介してくれた元々の友人であるアメリカ人女性のところへ、彼の住所を教えてもらうために立ち寄ったのだ。
 そのアメリカ人女性は、大柄なパワフルウーマンという感じだったが、すごく良い人で初対面の僕に快く紹介状まで書いてくれ、笑顔で気をつけていってらっしゃいと送り出してくれた。
 お礼を言って駐車場に停めてあった車の所へ戻ってくる。しかしここでハプニング発生。いくらやっても車のエンジンがかからないのだ。キーをいくら回してもスタータ音が聞こえない。バッテリーがイッテしまっているのかもしれない。
このオフィスはタウンから離れた郊外にあるのだが、幸い修理工場までさほど遠くないというので、アサナテに車を見ていてもらい、サオリさんと2人で修理工場を目指すことにする。
 しかしいくら歩いてもそれらしき建物は見えてこない。バス停らしきものなく、タクシーも通らない。おまけに気温は体感で30度近くある。相当暑い。

 しばらく歩いていると1台の車が通り掛かる。サオリさんが車に駆け寄り、現地人の運転手と何やらスワヒリ語で話していたが、話がまとまったようでこちらへ小走りに戻ってきた。どうやら修理工場まで乗せていってくれるらしい。
10分程ジャリ道を走ると、サトウキビのだだっ広い畑に囲まれた中に、ぽつんと1つ大きな工場がある。建物の中に入ると、日本で見かける田舎町の整備工場といった趣で、送ってくれた車にお礼を言って別れた僕達は、さらに奥の事務室のような所に向かった。そして木の扉をあけると、やあこんにちはという日本語が聞こえてきた。

 その声の主はサトシさん。青年海外協力隊で車の整備士として、2年前からザンジバルに在住とのこと。サオリさんとも顔馴染みのようだ。
 事情を説明するとわかりましたといって、サトシさんはすぐさまバイクで現場へと向かってくれる。僕達もそれに続いて整備工場近くのバス停から、ダラダラというピックアップのローカルバスに乗って現場に向かう。
 バスといってもトラックの荷台に帆を張って、そこに向かい合うようにして木のベンチを2つ並べただけのもの。またバス停といっても、日本のような決まった停留所があるわけではなく、いつもバスが止まるあたりにたむろしていると、途中でバスが拾ってくれるシステムのようだ。また降りるときも自分の降りたい場所が近づくと、荷台の最後尾に立ち乗りしている、ローカルバスの助手に降りたい旨を伝え、その助手が鉄の棒でガンガンと車体をたたいて、運転手に知らせるといった仕組みのようだ。

 車を止めてある電話会社のオフィスに近づくと、サオリさんがスワヒリ語で降りますと助手に伝え、ガンガンという鉄の棒の金属音が鳴り響いた後車が止まる。そして僕達が駐車場に向かうと、サトシさんが一足先に来て待っていてくれた。
車のキーを渡し、ボンネットをあけて状態を見てもらう。高温でバッテリーがあがってしまっている可能性もあると、偶然通りかかった別の車に手伝ってもらい、その車のバッテリーをつなげてエンジンをかけてみるがダメ。
押しがけしたらかかるかと思い、サイドブレーキをおろして車を後ろから押しながら、エンジンをかけてみるがこれもダメ。これはてこずりそうだ。

サトシさんは再びボンネットを開けて、エンジンの様子を見ている。しばらくその状況を見守っていたが、刻々と時間が過ぎていく。ふと時計をみるとウツノミヤ君との待ち合わせの時間が過ぎていた。しかし彼と連絡をとる手段がない。
彼の様子が心配だったが、彼も旅馴れた人だったので、多分機転をきかせて一人で船に乗っていてくれるだろう。悪いことをしたと思うが、ここはアフリカ仕方ない。
 日本にいた頃は、約束の時間など数秒ごとに腕時計を眺めて、1分1秒にイライラしたものだが、ここではショウガナイものは仕方ないで割り切れてしまう。割り切らないとやっていけないのだから、これまたショウガナイのであるが、人は変われば変わるものである。穏やかな海の様に、大らかな気持ちになれて良いのかもしれない。でも帰国したら確実に日本人の友達は、減るかもしれない。

サトシさんにどうですかと聞いてみると、電気系統が焼ききれているようで、しかもその配線がつぎはぎだらけでどうにもならないらしい。工場まで持って帰って修理しないとダメみたいだという。
仕方なく先程のバッテリーを貸してくれた運転手に頼んで、車同士をロープで繋いで工場まで運んでもらうことにした。しかしそのロープが古かった為か、運んでいる途中でロープが切れてしまう。

またさらにしばらく足止めを食うことになったが、サトシさんが工場まで鉄のチェーンを取りに戻ってくれ、それで車同士を繋いでなんとか工場までたどり着く。
サトシさんに車の修理をお願いして別れ、僕達はここまで車を運んでくれた親切なアフリカ人のおじさんの車で、ストーンタウンまで送ってもらう。

 30分も走るとタウンにあるカテドラル教会の前で車は止まる。ここでお礼を言ってサオリさんと僕とアサナテの3人は、車を降りおじさんと別れた。
 教会のすぐ近くにサオリさんはアパートを借りているらしく、アパートからパスポートとお金を取ってくるというので、僕達2人はそのままそこで待つことに。
 しばらくしてサオリさんが戻ってきたので、僕達3人はウツノミヤ君との待ち合わせの場所である船着場のゲートに急ぐが、当然のことながら彼の姿はそこになかった。さすがに3時間も遅れたら僕だって待ってはいない。
またその足で公衆電話から、チケットをお願いしてあるダルエスサラームの旅行代理店に連絡を入れる。時計を見ると午後2時半。ちょうど約束の時間だが、トラブルで足止めを食ってしまったことを伝えなくてはいけない。
 僕は今回現金をあまり持ってきていないので、カードでチケットを買う必要がある。しかしその為には今日の5時までに、ダルエスサラームの代理店オフィスに行かなくてはいけない。しかし船の時間を調べると次の便は午後4時。ダルエスサラームまで2時間はかかるので、とてもじゃないが間に合わない。
 電話で代理店の方に事情を説明し、次のジンバブエ行きのフライトを尋ねると、4日後の便になるという。もし仮に4日後の便に乗ると、バンコクに戻るフライトを大幅に書き換えなくてはいけない上に、乗り換えの関係で戻ってきてからさらにダルエスサラームで2泊、ナイロビで1泊しなくてはいけない。そしてまだ昨日からの体調不良が続いていて、マラリアにかかっている可能性もある。もし万が一マラリアにかかっているにもかかわらず、このまま強行移動した場合、ジンバブエに着くなり僕は命の危険にさらされることになる。
 せっかくのチャンスなのでと迷ったが、よく考えてみればトントン拍子で話が進み、いつの間にか行くことになったジンバブエ行き。何か不思議な縁があるなと行ってみようと思ったのだが、トラブル続きで道が塞がってしまうならばそれは縁が無いということ。今回は残念だがあきらめることにしよう。また縁があるならきっといつか訪れる日もあるだろうと、電話越しに代理店の方にお詫びを言って、チケットをキャンセルすることにした。
 
 サオリさんにジンバブエ行きを取りやめにしたことを話すと、この後どうするのと聞かれる。まだ決めてないと言うと、もしよかったら一緒にダルエスサラームに行かないかと誘ってくれた。止めるのも縁そして行くのも縁と、せっかくなのでご好意に甘えてご一緒させてもらうことに。そこに道があるのなら、運命の赴くままに歩いてみようと思う。

 船着場近くのお店でザンジバル風という、ココナッツミルクで炒めた甘いピラフを食べる。ちょっと変わっているが、食べた後ふんわりとしたココナッツの風味と甘味が、口の中一杯に広がりなかなか美味い。そしてその後、午後4時の便でダルエスサラームに向かう。
 チケットを買う時にものすごい数の客引きにつかまったが、サオリさんとアサナテの後について、なんとかその場をやり過ごした。サオリさんの話によると、客引き達は勝手にしゃべって不当なお金を要求したり、チケットを買ってやるとか、宿を紹介してやるといって金を請求するらしい。またこういう場所にはスリも多いという。こちらの人は体が大きくて力があるだけに、襲われたらひとたまりも無いので気をつけないといけない。

ザンジバルからダルエスサラームには、多くの会社が1日何本も船を出しており過当競争気味らしい。それに比例して客引きの数や、対応の激しさも加熱してきているという。また普通の客船の他に高速艇などもあり、こちらは時間が一般客船の半分の、2時間弱ぐらいでダルエスサラームに到着する。その分料金もほぼ倍の3000円~4500円ぐらい。
僕達が乗ったのは午後4時発の高速艇で、6時少し前にはダルエスサラームに着くことができた。途中少し揺れたが、眠っていたのでほとんど気にならなかった。

 ダルエスサラームは、ケニアの南に位置するタンザニア連合協和国の首都で、アラブ色の強いザンジバルと比べ、19世紀から第二次世界大戦まではドイツの占領下、そして1964年の独立まではイギリスの統治下であったことから、アラブよりも欧風色が強い。また独立前までタンザニア本島は、ザンジバルとはまったく別の国であった為、文化だけで無く住民の意識も、自分達は本土の人間とは違うという思いが強く、ザンジバルの人にとってタンザニア本島に行くことは、外国に旅行することと同じ意味を持つらしい。
サオリさんのバンガローの従業員である、アサナテのようにザンジバルから外に出たことの無い人は多いと、サオリさんが船の中で教えてくれた。

ダルエスサラームに到着して港からほど近い、サオリさんの知り合いが経営するホテルにチェックインする。サオリさんは僕を従兄弟ということにしてくれ、通常60USドルぐらいのシングルルームが、半額の30USドルで泊まることができた。
古いホテルだったが、なかなかしっかりとした建物で清潔だ。僕にとって決して安いホテルではなかったが、これなら悪くない。
 シャワーを浴びた後、サオリさん達と一緒にホテルのオープンカフェで夕食をとるが、やはり体調がすぐれずほとんど食が進まない。
 明日病院でマラリアチェックを受けることにして、この日も部屋に戻って早めに眠ることにする。

 翌朝起きるとすぐに、ホテル近くの病院でマラリアチェックを受ける。この日は大分体調も良くなっていたが、シロならばそれで安心するので、念のために見てもらうことにしたのだ。
 小さな町の診療所といった赴きの医院で、ひっそりとした3畳ほどの待合室の長椅子に腰掛け順番を待つ。1時間ほど待って名前を呼ばれたので、こじんまりした診察室に入ると、白衣を着たアフリカ人の医師が1人椅子に腰掛けていて、どうしました?と聞いてきた。
一昨日から体調が優れないこと、マラリアかもしれないと思っていること、メフロキンを飲んでいることなどつたない英語で事情を説明する。タンザニアではケニアと違ってあまり英語が通じず、スワヒリ語しか話せない人も多いが、さすが都会の病院だけあってここの医師には英語が通じる。
他に何か話すことは無いかと聞かれたので、マラリアチェックには新しい針を使ってもらうようお願いする。アフリカではエイズなどの感染症の病気も少なくないからだ。

それから熱を測ってくださいと体温計を渡されるが、計ってみると36度8分、どうやら熱はないようだ。
その後小さな針で指を刺し、ガラス板に血を数滴垂らしてそれを医師に渡す。結果が出たら名前を呼ぶから、少し待ってくださいといわれたので、また先程の待合室に戻り、長椅子に腰掛けしばし待つ。

15分も待っただろうか。名前を呼ばれ医師の元に行くと、大丈夫マラリアではないよと笑顔でいわれる。医師の話によるとどうやら体調が悪かったのは、マラリアの予防薬であるメフロキンの副作用の為だとのこと。
とりあえず服用を止めて、しばらく様子を見てほしいといわれる。ただ予防薬を飲んでいると検査に出ないことがあるので、もし3日程しても体調が戻らない場合は、再度検査を受けるようにいわれた。しかしとりあえずマラリアでは無いと判って、ホッと一安心する。
メフロキンの代わりにと薬局で、サオリさんに教わったコテキシンというマラリアの「治療薬」を買う。これは何でも最近中国で開発された薬らしく、他の薬と違って副作用が無いという。ただ予防薬ではないので、マラリアにかかった時だけこれを1日1錠ずつ飲むようにといわれた。使うことが無ければ無いにこしたことはないが、一応お守りにと1箱購入する。これが日本円で約700円。

マラリアの疑惑も晴れ気分も晴れやかになった後は、しばらくサオリさんの買い物に付き合う。途中でどこか寄りたいところはないか聞かれたので、音楽とかアートなものがあればそれをお願いしますと言うと、ティンガティンガという、タンザニア美術の工房に寄ることになった。
ダルエスサラーム郊外の、ムササニという地域にある僕達が行った工房では、十数人のアーティストが筆や絵の具を片手に、大きな布やら食器やら椅子やらに、カラフルな絵を書いている。
ただテーマは人によって様々で、動物や自然をモチーフにする人や、人間の生活、歴史上の物語を描く人など千差万別だ。
基本的にティンガティンガの作品には、それぞれストーリーがあるとかでよく見ると戦争や恋愛など、シリアスなドラマが描かれていたりするのだが、絵の雰囲気がほのぼのとしていてコミカルタッチなものだから、どうしてもニマニマと微笑んでしまう。
何だか面白い絵ですよねと言うと、本人達は別に面白くしようとしている訳ではないのだけど、どうしてもこうなっちゃうのよねと笑っていた。
 
ひとしきり見学した後、サオリさんがバンガローの従業員であるアサナテに、接客などのサービスの勉強をさせたいといって、シェラトンホテルのティールームでお茶をすることになる。
すると不思議な偶然で、昨日電話で話した旅行代理店の方とバッタリ会い、サオリさんもちょうど用事があったとかで、同じテーブルでお話する機会が持てた。
この方はネモトさんといい、タンザニアの大学でスワヒリ文化を勉強した後、そのままタンザニアに住んでもう10年になるとのこと。
 昨日は残念でしたねという話の流れから、どうしてジンバブエに行こうと思ったの?と聞かれ、僕が音楽をやっていて、サオリさんの知り合いのミュージシャンがハラレにいると伺って、尋ねてみようと思ったことを話す。するとアフリカの音楽ならジンバブエもいいけど、やっぱりセネガルがお勧め、特にリズム音楽はナンバー1ですよと教えてくれる。セネガルといえば西アフリカにある、パリダカで有名なダカールを首都に持つ国だ。音楽と共にファッションもアフリカで1番とのこと。ぜひチャンスがあれば行ってみたいと思う。

 ネモトさんと別れて、ホテルのカフェを出ようとしたところで急に雨が降り出す。こちらの雨は日本の夕立のように、しばらくすると止むというのでホテルのおみやげ物のショップで雨宿りしていると、民族楽器のコーナーを見つける。
 面白そうなので覗いてみると、その中に周りを動物の毛皮で覆われた、大小のドラム(太鼓)がある。どうやら牛の皮で出来ているようだが、乾いた良い音がする。
 荷物になるのでお土産の類は買わないことに決めていたはずなのに、あまりにもこの太鼓が良い音を奏でるので、思わず2つ程買ってしまう。
 値段は日本円であわせて4000円ちょっと。とりあえずこの後、タイまで持って帰りそこから船便で送ることにする。

 雨が止んだので、20分程歩いてホテルに戻る。そして3人でホテル近くのレストランで夕食を食べた後、部屋に戻ってベッドにもぐり込む。

 ハーッと大きくため息をつき、真っ白な枕に顔を埋める。アフリカに来てからいろんなことが慌しく過ぎていったが、明日ザンジバルのストーンタウンに戻って、明後日の飛行機でこのアフリカを後にするのかと思うと、ホッとした安心感と何とも言えない寂しさが同居した、ちょっぴり複雑な気持ちになる。
 病気や犯罪も少なくないアフリカ。怖くないといえば嘘になる。しかしどこか人間としての原点を教えてくれる、そんなアフリカ。まだ今ははっきりとわからないし、病気や犯罪に怯える生活から、開放される喜びの方が大きいと思う。それでも、きっといつかこのアフリカでの日々を、大切な時間を思い出すかのように懐かしむ、そんな予感がする。
アフリカの水を飲んだものは、またアフリカへ帰るということわざがあるが、なんとなく少しだけわかるような気がすると、この数週間のアフリカでの日々を振り返ってそう思う。
 また運命に導かれるようにして来ることになった、サオリさん達とのダルエスサラームへの小旅行。
本当ならザンジバルのバンガローでゆっくりと過ごすはずだったが、急にジンバブエ行きが決まり、それがいつの間にかその目的地はダルエスサラームになっていた。

そういえばザンジバルのバンガローで、サオリさんとこんな話をしたことがある。

 僕が音楽の世界でいろいろな出来事があって、一旦音楽から遠ざかろうと思ったこと。それでもやはり音楽が好きで、この旅に出たことなどを話すと、サオリさんも同じような境遇で、このアフリカに来ることになったと、自身のエピソードを話してくれた。
 元々サオリさんは、和歌山で放送関係のお仕事をされていたそうで、やはりいろいろな出来事があって心身共に疲れ果ててしまい、1年間自分にお休みをあげるつもりで仕事を辞め、ケニアでスワヒリ語の勉強を始めたという。
 それがどんな運命のいたずらか、いろいろな人との出会いやアドバイス、励ましをもらっているうちに、いつの間にかタンザニアのザンジバルという、日本ではあまり馴染みのない島でバンガローを始めることになり、はや8年の年月が経ってしまったと笑っていた。

 僕はまだ自分の人生にあった、多くのツライ出来事を忘れられずにいること、この旅を通してそれを乗り越えたいと思っていることなどを話す。すると昔サオリさんが自身の半生を乗り越えることができた、あるアフリカ人のおじいさんからいただいたという、その言葉を僕に教えてくれた。そしてその言葉は僕の胸をも強く揺さぶった。
「1番大切なものを失うとき、それはもっと素晴らしい何かをこれから手にいれようとしている時。だからけして悲観することは無い。きっともうすぐ素晴らしいものに出会えるはずだから」その言葉を思い出し、繰り返すようにつぶやく。
 僕はこの数年、自分にとって多くのかけがえの無い大切なものを失い、そして傷ついてきた。おじいさんの言葉が本当なら、僕はこの後いったいどんなものに出会えるのだろうか。また自分のこれまでの人生を乗り越えたとき、どんな新しい人生が待っているというのだろうか。
 今はまだわからない。だが僕も近い将来、まだ見ぬ素晴らしい何かに出会えたらいいなと思う。

 静かに目を閉じると、ゆっくりと眠りの中に落ちてゆく。アフリカでの日々が、もうすぐ終わろうとしていた。

拝啓、世界の路上から 第3話「星降る島での出来事/タンザニア」(前編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第3話「星降る島での出来事/タンザニア」(前編)

 スゴイ!空中星だらけだ。天の川って言うけれど、本当に川みたいだ。うーん。何?え?
 コケコッコーという鶏の鳴き声で目を覚ます。時計を見るとまだ朝の5時半。どうやら僕は夢を見ていたみたいだ。

ケニアでサファリを満喫しナイロビに戻った後、日本人経営の旅行代理店でさらに航空券を購入。それからケニア随一の高級ビーチリゾート、モンバサを経由して今僕はインド洋に浮かぶ美しい島、タンザニアのザンジバル島に来ている。そして空港から1時間程車で走った東海岸のパジェというビーチにある、日本人女性が経営するパラダイスという小さなバンガローに、昨日から泊まっているのだ。

 建物は少し年季が入っており、リゾートペンションのイメージからはかなり離れたもの。それでも経営者であるおかみさんの人の良さと、ここがアフリカだということを忘れてしまう程美味い、採れたての魚介類をふんだんに使った、日本風アレンジのザンジバル料理は絶品だ。また宿代もお手軽ときており、どこかホッとするなかなか居心地の良い場所である。

 網戸越しに外の様子を覗いてみると、まだ薄暗かったのでもう一眠りしようと思ったが、すっかり目がさめてしまい眠れない。だがTVなどの娯楽も無い場所なので、日没と共に就寝というここの生活では、朝5時といってももう8時間以上眠った計算になる。

 マラリア蚊対策に、ガムテープで穴をあちこち塞いだ蚊帳を出ると、僕の体から発せられる汗に吸い寄せられてか、プーンと蚊が寄ってきた。慌てて体中に虫除けスプレーを大量に吹きかける。部屋にいてもすることが無いので、バンガローのすぐ目の前に広がる、砂浜の海岸に出てみることにした。

外に出ると、日本人の女の子2人組みが一足先にビーチに出ており、おはようございますと明るく挨拶してくれる。昨日はどうもと、僕も一通りの挨拶を交わす。彼女達も昨日、このバンガローにやってきた日本の女子大生で、他にもう1人日本人の大学生の青年がこの日はパラダイスに宿泊していた。
昨夜はこの4人で食事の後星空を眺めていたのだが、手が届きそうな距離におびただしい数の星があって、今にも空からこぼれ落ちてきそうで、僕達は子供のようにはしゃいでしまった。星の降る島!そんな言葉がピッタリの島だ。
そしてその光景があまりにも強烈にこの胸に刻み込まれたせいか、今朝は夢にまで見てしまったようだ。何もない。しかしありのままの自然が生み出す何かが、ここでは味わえるそんな気がする。
 
 彼女達に早起きだねと言葉をかけると、夜の星も綺麗だけど、水平線から登ってくる朝日もすごく綺麗らしいですよと嬉しそうに話す。そういえばこのパジェのビーチは、日の出の方角に水平線が続いている。周りに他の島もなく、絶好のサンライズポイントなのだ。
 じゃあご一緒させてくださいと、彼女達が座る砂浜に並べられた木製のビーチチェアの1つに腰を下ろす。

 30分もしただろうか。少し肌寒く感じる海風に馴れた頃、赤というよりは白に近い、まばゆい光を放つ太陽がようやく顔を見せ始めた。
 ゆっくりゆっくりと太陽が登ってくる。その光に照らされた海岸近くにある、1隻の木製カヌーがゆらゆらと波に揺れ、まるでモノトーンの夢の世界にいるような、そんな幻想的な雰囲気が辺りに漂う。
 そして太陽がはっきりとその姿を見せると、太陽の光が海を真二つに切り裂くように、僕達の方をめがけて直線的に伸びてくる。それは聖書に出てくる伝説のお話のような1本の道にも見え、思わずその道に向かって足を踏み出してしまいそうになる。

 太陽は次第に上昇する速度を速め、ぐんぐんと天に向かって駆け上がる。そして30分もしないうちに幻想的な雰囲気はどこかへ消えうせ、魔法が解けたかのようにやわらかな太陽の日に照らされる、穏やかな海へと姿を変えた。ハッと我に返るとそこには静かに波打ついつもと同じ海がある。
ぼぉっと立ち尽くす僕達の前を、バンガローで飼われている3匹の茶色の犬が、ヘッヘッ、ダンナ夢でも見てたんスカ?しっかりしてくだせえよというかのように、舌を出してじゃれあい横切って行く。いつの間にか太陽はうんと高い所まで上昇し、ギラギラと眩しい光を放っている。今日も暑い1日になりそうだ。

 朝食の時間になったので、藁葺き屋根に囲われた、吹きざらしの食堂へと向かう。すると先程の2人組みの女子大生が、一足早く朝食をとっていたので、僕も隣のテーブルで朝食をいただくことにする。
 メニューはパンとコーヒーの簡単なものだが、食事をしているとパンに塗るジャムのまわりにすごい数の蜂が群がってくる。その数およそ20匹。
最初はこまめに追い払っていたが、他のテーブルでも同じように蜂が群がっており皆諦め顔。
いつまでもしつこくキリが無いので、ジャムは蜂達にあげることに。普通、蜂が集めた蜜を人間が貰うのじゃないのか?と、蜂に対し言いがかりに近いクレームをつけると、意味がわかったのか危うく刺されそうになる。すいません。どうぞご自由にお召し上がりくださいませ。

朝食を食べ終えると、一足先に食事を済ませた女子大生達が、ダラダラというローカルバスでザンジバルタウンに向かうというので見送る。ザンジバルタウンというのは別名ストーンタウンといって、アラブ支配時代の石造りの家が迷路のように建ち並ぶ、この島唯一の大きな町だ。
古くからザンジバルは、キルワやモザンビーク島などと共にインド洋交易の拠点として栄えてきた島で、18世紀にはオマーンの支配下にもなり、イスラムの影響を受けた独自の文化が育まれてきた。またかつて奴隷商人達が、アフリカ中の黒人をこのザンジバルに連れてきて、ここから西洋諸国に送った奴隷貿易時代の遺跡なども現存する。
彼女達はそのストーンタウンの石造りの町並みや、奴隷貿易時代の遺跡などを見て、明日タウンからタンザニア本土にある首都、ダルエスサラーム行きの船に乗るといっていた。

彼女達を見送った後、自分のバンガローに戻りベッドで横になる。別に眠い訳ではなかったが、なぜか非常に体がだるく熱っぽい。少し横になって休めば、良くなるだろうと思っていたのだが、裏腹に時間と共に症状は悪くなるばかり。風邪をひいたのかそれとも疲れなのかはわからないが、今日1日は安静にしていたほうが良さそうだ。

バンガローに1人いても気分が滅入ってくるので、食堂に戻り潮風でも浴びながら海を眺めていることにする。
木製の長椅子で横になってぼんやりしていると、昨夜一緒に星空を見た日本の大学生、ウツノミヤ君が遅い朝食をとりに食堂に顔を出した。
暇そうですね、もしよかったら一緒にシュノーケルに行きません?と彼が、僕の顔を見るなり誘ってきた。事情を話すと残念そうにしていたが、何でも彼は昼過ぎまでシュノーケリングをした後、今夜タウンで1泊し、彼も明日の船でダルエスサラームに向かうとのこと。そして明後日の飛行機でアフリカ南部の国、ジンバブエのハラレに行く予定だという。
へえジンバブエかいいねえと話していると、バンガローのおかみさんであるサオリさんがやってきて、一緒にジンバブエの話で盛り上がる。

話の中で、サオリさんの知り合いにアフリカンミュージックにのめり込んで、ジンバブエのハラレに移り住んでしまったアメリカ人がいるらしく、話題がアフリカ音楽のことになった。
なんでもその人はジンバブエの音楽をCDにして、アメリカ本国に紹介したりしているそうで、僕もミュージシャンであることを話すと、もしジンバブエに行くならその人を紹介するよといってくれる。
面白そうだなと思ったが、航空券も手配していないしと迷っていると、チケットを購入したいのならと、サオリさんが知り合いの旅行代理店に電話してくれ、飛行機の空席確認をしてくれた。
するとウツノミヤ君と同じ飛行機に空席があり、値段も往復で4万円くらいだという。チケットも明日ダルエスサラームにある、その旅行代理店に取りに来てくれれば発券するというので、これも何かの縁だと思いその代理店に手配をお願いすることに。何だかよくわからないうちにジンバブエ行きが決定!相変わらず風まかせの人生である。

明日の朝、サオリさんもダルエスサラームに行く用事があるというので、サオリさんの車でタウンまでご一緒し、タウンでウツノミヤ君と合流して、一緒に船でダルエスサラームに行くことになる。まあこんな偶然の重なりで、導かれるように旅するのも面白いかもしれない。
しばらくするとウツノミヤ君は、海にシュノーケルに行ってしまった。僕は相変わらずおとぎ話に出てくる老婆のように、長椅子に腰掛けてぼんやりと海を見つめて過ごしていたが、一向に体調が良くならないので、自分のバンガローに戻りベッドで横になることにする。

5、6時間も寝たのだろうか。夕方、タチの悪い夢にうなされるようにして目を覚ます。体に手をやると寝汗がぐっしょり。嫌な汗だ。体調も相変わらず悪い。
しかしこれ以上眠れそうに無いので食堂に顔を出すと、サオリさんが夕食を用意しているところだった。
ウツノミヤ君も昼過ぎにタウンに向かったそうで、今このバンガローに宿泊しているのは僕1人だけらしい。
お腹すいたでしょうといわれたが、どうも食欲が無く体もだるくて力が入らない。せっかく出された地元の海でとれた、美味いシーフード料理もなかなかハシが進まない。
あまり好きじゃなかった?と優しく微笑む、サオリさんの瞳の奥に殺気を感じた僕は、体の不調をサオリさんに相談してみる。するとひょっとしたらマラリアじゃない?といわれる。
でもマラリアだったら40度くらい熱が出るって聞いたのですが、熱は無いみたいなのでと話すと、ひょっとしてマラリアの予防薬を飲んでいます?と聞かれる。
シンガポールの医院で貰った、メフロキンという予防薬を3週間前から飲んでいることを話すと、予防薬を飲んでいると熱が出ないけど、マラリアにかかっていることがあるのだといわれ、まさかと体中に衝撃が走る。
こんなところでマラリアにかかってしまったら、それこそこの旅も志半ばで中止し、帰国しなくてはいけない。マラリアは死ぬ病気でもあるしそれは困る。
でもマラリアだったらかかっても4、5日くらいは死なないから、とりあえず今日は安静にして、明日タウンに行ったら、マラリアチェックを受けてみようということになった。

ついさっきまで寝ていたのですぐには眠れそうになかったが、一晩ゆっくり休めば体調も良くなるかもしれないと、無理にでもこの日は眠ることに。

 翌朝も5時過ぎに目が覚める。昨日は1日中ほとんど寝ていたので、夜明け前に目が覚めてしまった。
 体調はまだすぐれなかったが、寝過ぎで脳ミソが溶けそうだったので、とりあえず浜辺に出てみる。するとバンガローで飼われている犬達が、ヘッヘッ、ダンナ、遊んでクダセエとじゃれてきた。まだ夜明け前だったが、もううっすらと空が明るくなってきていたのでライトは必要なさそうだ。
3匹の犬を従えながら浜辺を歩いていると、砂浜でサッカーボールを相手に、1人リフティングして遊んでいる黒人の少年とすれ違う。でもあんまり上手じゃないみたいで、蹴っているボールがポーンと海の方へ飛んでいってしまい、しまったという顔で慌ててジャバジャバと海に入り、波にさらわれそうなボールを追いかけている。
さらに歩いていると、今度は自転車に乗った現地のおじさんとすれ違う。グッドモーニングと声をかけると、サワサワ(調子はどうだい)といってニッと笑って返してくれた。

少し疲れたので、砂浜にしゃがんで休むことにする。しばらくぼんやり海を眺めていると、少しずつ夜が明けてきた。この日の太陽は雲がかなり厚かったので、昨日程綺麗ではなかったが、何だか急に歌が歌いたくなったので、指を弾いてリズムを取りながらアカペラで歌ってみる。観客は3匹の犬とインド洋の海。
浜辺に響くスローバラードが、夜明けのシーンとした海岸の雰囲気にうまくマッチして少し切ない気持ちになる。
本当はギターでもあればいいのにと思うが、日本から持ってきたギターは壊れてしまい、タイのバンコクに置いてきてしまった。でも楽器なんてなくたってこうして歌うことは出来る。

10分も歌っていると犬達は飽きたのか、じゃれあいながらどこかへ行ってしまった。お前達俺の酒が飲めないのか!イヤ間違い、歌が聞きたくないのかと絡んでみたが相手にされない。若者に相手にされない寂しい年寄りみたい。砂浜に体操座りして、ヒザに顔を埋めてしばし落ち込む。

拝啓、世界の路上から 第2話 「大自然に抱かれて/ケニア」(後編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第2話 「大自然に抱かれて/ケニア」(後編)

 昼食後、まだ見ぬ肉食獣を求めてまた車を走らす。草食動物はあちらこちらで見かけるが、実はまだ肉食獣は1度も見ていない。時折肉食獣に襲われたと思われる死骸があるのだが、これ程探してもいないというのは彼達が夜行性の為だろうか。
 その中でもとりわけ僕達が執着したのがライオン。やはり百獣の王に会うまで帰れない。しかし昼間ライオンは茂みで寝ているらしいので、サファリの途中に点在するロッジの1つ、キーコロックロッジに寄って一休みすることに。
 このロッジというのはいわば高級リゾートのようなもので、僕達と違いお金のある一般旅行者の宿泊施設になっている。聞いた話によると、1泊日本円にして2万円から5万円ぐらいするらしい。中には売店やガソリンスタンド、レストランやバーなどもあるが、件並目が飛び出るくらい高い。

 でもあまりの暑さに耐え切れず中のバーでコーラを頼む。これが1本70ケニアシリング、約110円。ここの物価は日本並だ。それにしてもシックな雰囲気のバーや、真っ白な壁にオレンジ色の屋根をした宿泊施設のバンガローにしても、小洒落た作りになっていてリゾートの雰囲気がぷんぷんしている。鍋ごとゴハンと、ヤカンごと紅茶の僕達のテントとは大違いだ。
 どうせ昼間は動物達も寝ているからと、2時間程3人で雑談し、その間にコーラを3本飲んだ。別にコーラ好きという訳ではないが、何か飲まずにはいられない程、日中は暑いのだ。

 夕方になりちょっと涼しくなったので、またライオンを探してドライブする。しかし走れど走れど、ライオンは見当たらない。
 それでも美しい草食動物の群と何度も遭遇することができたので、まあ今回はこれで良しとしようと諦めて帰りかけたその時、少し離れた場所にサファリカーが4、5台止まっているのが見えた。
 行ってみよう!とピタが呟き、車をそちらへ走らせる。すると……いた!ライオンが2、3、4……6頭横になって休んでいる。慌ててカメラを構えパチリと写真を撮る。すごい一度に6頭も。ライオンはファミリーで行動するのだろうか。
 しばらくそのライオンを観察するが、かなり茂っているブッシュの中で横になっているのと、僕達の前に別のサファリカーが何台もいるのであまりよく見えない。

ちょっと移動してみようと、小高い丘を越えまたしばらく走ると、今度はさっきとは別の3頭のライオンが悠々と歩いている。ここでも1枚写真を撮る。なんと威厳のある歩き方なのだろう。でもしまった、あと残りのフィルムが1枚しかない。
 またしばらく車を止めてその様子を見ていると、急にライオン達が小走りに走り出した。このライオン達にはまだ他の車は気付いていないらしく、僕達の車だけがその後を追う。
 サバンナの平原からこのライオン達は、小高い丘を目指してどんどんと軽快に走り出す。列が乱れると先頭のライオンがしばらく立ち止まり、また3頭揃ったところで仲良くゆっくり歩き出す。散歩をしているのだろうか。
 
 少しして3頭のライオンがいきなり立ち止まった。どうしたのだろうと窓を開けて覗き込むと、いきなりそのうちの1頭のライオンが大きな雄叫びをあげた。ガウォーというライオンの声があたりに響き渡る。すると遠くでまた別のガウォーという声が聞こえたような気がした。
何だろうと思っていると小高い丘の方から、初めに見た群だろうか6頭のライオンがいっせいに駆け出してきた。するとすかさず3頭のライオン達もその方向へ駆け寄る。
え?いったい何が起こったの?としばらく頭がまったく回らない。そして2つのグループが合流するとガオー、クーと喜びの雄叫びをあげてじゃれあっている。家族なのか仲間なのかはわからないが、皆すごく嬉しそうだ。
 ハッと我に返った僕は、思わず興奮してブ、ブラボーっと、バカの1つ覚えのようにブラボーを連発する。
フィルムがまだ残っていたことに気付き、僕がゆっくりと最後の1枚のシャッターを切ると、カメラは無機質な機械音と共にフィルムを巻き戻し始めた。フーッと1つ僕は大きなため息をつく。何だかひと仕事終えたような心境だ。
 しかしまだこれで終わりではなかった。この直後じゃれあったライオン達が数十メートル離れた先から、じゃれあいながら僕達の車めがけて楽しそうに歩いてきたではないか。
 距離にしておよそわずか5メートル。すぐ目と鼻の先に9頭ものライオンがいる。しかもまるで僕達が映画か何かの撮影隊のように、ライオン達がカメラ目線?でこちらを見ている。まるで台本があるかのような劇的なハイライトシーン。夢じゃないかと思うような大自然のドラマ。真実は小説より奇なりという言葉があるが、まさかこんなクライマックスが用意されていようとは思ってもみなかった。

 もうフィルムがないよと僕が肩をすくめて見せると、バーバパパが、君はまだマシさ、私なんか最後の1枚がモンキーのジャンピングキャッチなんだからねと、お手上げのポーズをする。僕達はお互い顔を見合わせて笑う。そうかあのモンキーの1枚が、おっさんのラストショットだったんだ。しかも失敗しちゃったんだよねアレ。この人おもしろすぎる程ツイてない。ドイツ帰って現像したら怒るんだろうな。ゴメンね。

 最初2、3台しかいなかった車も、この情報を聞きつけてか、5分もすると20台近いサファリカーが集まってきた。マサイマラ中の車が集結したような騒ぎだ。さすがの僕達もそれを見て閉口する。
 するとピタが呆れた顔で、皆ライオンが好きだね、サファリには他にもたくさん動物がいるのにと呟く。それに対してバーバパパがすかさず、いいんだよ我々はツーリストなのだから、ライオンが好きに決まってるじゃないかと、ガハハハと大声で笑う。僕もおっさんにつられて笑った。

 気付くとライオン達はまたバラバラに散らばり、しゃがんで休んでいる。この後日が落ち、夜になったところでハンティングタイムなのだろうか。時計を見るともう6時を過ぎている。暗くなる前に帰ろうと、キャンプ場へ向かって引き返すことにする。

 僕達を乗せた車は、サバンナの地平線に沈む夕日を浴びながらひた走る。真っ赤な太陽の光が、雲の隙間からカーテンのように、神々しく美しい光を注いでいる。思わずここでエンディングテーマのキュー出しをしたくなるそんな雰囲気だ。
 まったく大したものを見せてもらったよと、この筋書きの無い大自然のドラマに対して敬意すら覚える。しょせん人間の頭で想像することなど、自然のドラマにはかなわないのかもな、とそんなことを考える。そして僕はまた1つ生涯忘れることのできない名場面をこの胸に刻み込むことができた。この心にしっかりと焼き付けておけば、カメラなんて必要ない。ああ自然ってすごいなあと、僕は思わず呟いていた。

 キャンプ場に戻ってから夕食までの間、バーバパパとしばし雑談をしていると、話題がチップの事になった。このツアーを申し込む際、旅行代理店でドライバーには車1台あたり1日15ドル、コックには5ドルあげてくれといわれたことを話すと、そいつは高過ぎるよ、ロンリープラネットではコックには1日1.5ドルと書いてあると、おっさんが憤慨している。
 ドイツではチップなんてものはないよ、日本ではたくさんあげるのかい?と聞かれたので、いや日本でもチップの習慣はないよ言うと、そうだろう?それが普通なのさと怒って興奮している。ドイツはヨーロッパの国なので、チップの習慣があるはずなのだが、本当に無いのだろうか。そういえば何かの本で、ドイツ人はお金にシビアな国民だと書いてあったことをふと思い出す。
 でも僕もこれまでのサービスからいっても、5ドルは確かに高いと思ったので、2人でそれぞれ3ドルずつ渡すことにした。2日間ならこれくらいでちょうど良いと思う。
 ドライバーももっと安くしないかといわれたが、ピタには本当に親切にしてもらったし、彼達もチップで生活しているようなものだろうから、あんまり値切ると可愛そうだよと話すと、さすがに彼もピタには友情のようなものを感じていたようで、しぶしぶ1日15ドルの折半で了承してくれた。

 しばらくしてまたいつものように鍋ごと入った夕食が出され、それを2人で平らげた後テントに戻って眠る準備をする。
 そしていつものように蚊取り線香に火をつけようとする。だが100円ライターがガス切れなのか、何度やってもチッチッという音と小さな火花が飛び散るだけ。ライターのボディが透明なら、ガスの減り具合もわかるのだが、青いラバーに覆われているので中が見えない。試しに2、3度振ってみるが手応えがなく空っぽのようだ。予備のライターは持ってきていないし、これは困ったことになった。いくらマラリアの予防薬を飲んでいるといっても、蚊帳も無いしちょっと不安だ。

 誰かに火をもらおうとテントの外に再び出る。すると僕の隣の隣、つまりバーバパパの隣のテント前で、マサイが1人しゃがんでいる。何だろうと思い近づいてみることに。
 今キャンプ場には僕とバーバパパの2人しか泊まっていないはずだし、まさかマサイがテントに眠るとも思えないので、何しているの?と聞いてみるが、英語はやはり通じないのか、無表情でこちらをただじっと見ているだけ。そういえば今朝ピタが、マサイはセキュリティなんだよといっていたのを思い出す。昨夜モンキーがいたずらして眠れなかったと、管理人兼コック氏にも話したので、ひょっとして彼はここで見張りをしてくれているのかもしれない。 

 ふと見ると彼の手には鉄製のランプが握られていたので、もしよかったらその火をくれないか?と身振り手振りで伝える。すると火?それならアレだと、昨日皆であたった焚き火の燃えかすを指差す。
 そんな消えた薪でどうしろっちゅうねん!と少し苛立ちを覚えたが、まずは蚊取り線香を見せてから、ランプが握られたマサイの手をつかみ、コレにキミのランプで火をつける、わかる?とゆっくりジェスチャーすると、小さく首を縦に振りランプの蓋をあけて僕の蚊取り線香に火をつけてくれた。よかった通じた。
 ポケットをまさぐると30シリング、日本円にして45円くらいの小銭があったので、お礼にと彼の手にそれを握らせる。すると彼はキョトンとした顔でそのコインをじっと見つめている。マサイにもお金はわかるはずなのだが、チップという習慣がないのだろうか。

 風でせっかくつけた線香の火が消えてしまってはと、僕もそのままテントの中に戻る。蚊取り線香を寝袋の敷かれたベッドの下に置き、しわのよった寝袋に潜り込んで目を閉じると、5分もしないうちに眠ってしまった。この日はマサイが見張りをしていてくれたせいか、昨夜のようにモンキー達にいたずらされること無く、静かに眠ることができた。
 
 その次の朝、昨日と同じようにドイツのバーバパパと一緒に、ほったて小屋で朝食をとっていると、ピタがそろそろ出発しようかと顔を出す。
だいたい食べ終わったところだったので、急いで最後に1つパンを口に放り込んで、僕達はそれぞれのテントに戻って荷物をまとめることにする。

テント内に散らかっていた荷物を、リュックに放り込んで寝袋を小さくたたむ。それをいつものピタの車に詰め込むと、皆が一斉にお別れだといって集まってくれた。バーバパパも一通り荷物を積んだようだ。
 管理人兼コック氏にありがとうとチップを渡す。するとやはり額が少なかったのか、あまり嬉しそうな顔をしていない。
 セキュリティにもチップをあげてくれないかと彼がいうので、代表としてマサイの1人に100シリング札を1枚手渡す。日本円にして160円程。もう少しあげてもよかったが、あいにく小さなお金がなかった。

 僕に続いてバーバパパもコック氏にチップを渡す。しかし5ドル札しかないらしく、そのまま5ドルあげるのかと思いきや、ちゃっかりおつりを2ドルもらっている。
その後、彼もコック氏にセキュリティにもと促され、てっきりマサイにそのおつりをあげるのかと思いきや、代表のマサイの手のひらに、10シリングコインを2枚チャリン、チャリンと渡しただけ。日本円にして約30円。マサイもムッとしている。

 コック氏が、もうちょっとマサイにあげて欲しいとバーバパパに直訴するが、セキュリティなんて頼んだ覚えはないと即座に却下する。おっさんは僕に向かって、「セキュリティにチップをあげなきゃいけないって聞いていたかい?」というので、確かに僕もセキュリティの存在すら聞かされていなかったから、いや知らないけれどとそのまま答えたが、確かにコイン2枚は少しかわいそうだと思う。まあチップというのは気持ちの問題だとは思うけど。

 いよいよ出発となり、車に乗り込む前にコック氏と握手する。僕がまた会いましょうと言うとコック氏は嬉しそうに笑ってくれた。マサイ達とも1人ずつありがとうと握手して車に乗り込む。しかしバーバパパはマサイには何もいわず、コック氏にだけバーイといってさっさと車に乗り込んだ。このおっさんよほどマサイが嫌いなのだろうか。

 2列になったワゴン車の後部座席の前列に座った僕が、車の窓から顔を出して手をふると、コック氏もマサイも皆手を振り返してくれた。普段あまり顔に表情を出さない彼達だったが、なかなか良い奴達だった。
 しかしそのマサイも、僕のすぐ後ろに座ったバーバパパには、恐い顔をして睨んでいる。きっとここのマサイはドイツ人が嫌いになるに違いない。僕はそれぞれとは良い関係を築いているだけに、この確執は少し残念だ。

 僕達3人を乗せた車が、ナイロビに向かって走り出す。マサイマラからナイロビまでは、およそ5時間の道のりだ。

 キャンプ場から3時間も走った頃、1度トイレ休憩をとることになった。といっても日本のような近代的なサービスエリアみたいなものではなく、殺風景な場所にぽつんと1件だけ建っている、ほったて小屋のおみやげ物屋の前で車は止まる。
 おみやげが並ぶ20畳くらいの店内を突き抜けると、その外に奥まった離れのような小さな1人用のトイレがあった。2人同時は無理なので、まず先にバーバパパが、そしてその後に僕がトイレに入る。
 用をたしてトイレから出ようとすると、出口の所でトイレ掃除の小柄な兄ちゃんが立ちはだかる。彼がいうにはここのトイレではチップが必要とのこと。しかしそんなことは初めて聞く。
小銭が無いからと言って断ると、両手を広げ払うまで通さないぞと恐い顔をして睨んでいる。こんなやり方に腹がたったが、他に人もおらずこんなことで喧嘩するのも馬鹿らしいので、1ドル札を1枚渡すと、大喜びでこのことは他の奴達には内緒だぞと、自分の口に人差し指をあて、シーッという仕草をしてみせる。

 屋の店内でバーバパパがおみやげを物色していたので、一緒に何か良さげなものはないかと店内を見てまわる。
 バーバパパにトイレのチップのことを話すと、そんなものはやはり必要ないらしく、同じ事をいわれたが断ったよと話していた。やはりいっぱい食わされたようだ。移動中車でずっと眠っており、寝ぼけていたのもあって、あまりよく考えず渡してしまったことを少し反省する。自分だけですめばいいが、これに味をしめたあの清掃員は、また他の旅行者に同じ事をするに違いない。これからは少し気をつけよう。

 その後マサイのお守りというカラフルな、数色の布とビーズを縫い合わせた首飾りを見ていると、店員らしき痩せ細ったガリガリの、ケニア人が寄ってきてしつこく薦めてくる。
 割合気にいったマサイのお守りが1つあったので、いくら?と聞くと45ドルという答えが返ってきた。
そんなに高額な訳がないので、バカにするなと怒って店を出ると、このガリガリ男がしつこくついてきて、いくらなら買う?ハウマッチハウマッチと食い下がる。1ドルなら買うとお札を1枚見せて言うと、たった1ドル?と怒った顔をする。それならいらないと車に乗り込むが、開いている窓から手を入れドアロックをはずし勝手にドアを開け、またハウマッチハウマッチ?と続ける。いいかげんにしてくれ。
 いらないと何度言っても、このガリガリは力いっぱい僕の手をつかんで離そうとしない。コイツはまずいと、ピタやバーバパパに助けを求めようとするが、彼達はまだ店内にいて聞こえないのか、いくら名前を呼んでも出てこない。
まあさっきのマサイのお守りは買ってもいいかなと思ったので、とりあえず持っている小銭を見てみると、200シリングがポケットに入っていた。日本円で300円くらいだが、これくらいが相場かなと200でどうだ?これしかないと話すと、その男はさっきの1ドルがあるじゃないか、200シリングと1ドルで手を打とうといってきた。

 あまりにうざったいので、わかった買うから手を離せと振りほどき、コイツにお金を払おうとすると、ちょっと待てといって小太りな別の店員をつれてきて、彼に金を渡せという。
 言われた通りに小太りに金を渡すと、今度は小太りがガリガリに1ドル札を手渡した。するとガリガリ男がヒャッホー!と飛び上がって喜んでいる。どうやらこのガリガリは店員でも何でもなく、店でたむろしていた部外者だったみたいだ。
 この男があまりにはしゃいで喜ぶので、店にいた他のアフリカンがどうした?とわっと出てきた。とりあえず僕は車の後部座席に戻って窓越しに様子を見ていると、ガリガリが何やら現地語で話し、どうだとばかり1ドル札を見せびらかしている。おそらく自慢話でもしているのだろう。
 するとそれを聞いた他のアフリカンが5、6人どっと車に押し寄せ、ハウマッチとか両替してくれと大騒ぎしはじめた。僕がいらないよと言ってもまったく聞かず、さらにハウマッチとまくし立てる。
 さすがにぶち切れ、もううんざりだ!オマエらにやる金なんて1円もねえよ!と日本語で叫んで、車の窓を閉め車内の全てのドアロックをかけてダンマリを決め込む。すると奴達は窓やらドアやらをガンガンと叩いて、さらにハウマーッチ!と続ける。まるで獲物に群がるハイエナのようだ。
 さすがの騒ぎに店内のピタも気付いて、このアフリカン達を追い払ってくれた。もうちょっと早く来てよぉ、大変だったんだからとピタに話すとアハハと笑っている。まったく笑い事じゃないよ。ホントに。
 
 ドイツのバーバパパも戻ってきて、車はまたナイロビに向かって走り出す。
しばらく走ると後ろの座席から、バーバパパのものすごいイビキが聞こえてきた。僕もまた寝ようと思っていたのにこれじゃ眠れやしない。なんて殺人的なイビキをかくのだこのおっさん!と思いながら、僕は先程の出来事を反芻する。

 初めはトイレや店でボラれたことを思い出して、ひどく腹をたてていた。だがよく考えてみると、たかが2、3百円のことになぜこんなにも腹をたてているのだろうと、自分がひどく滑稽に思えてきた。
 力ずく的なやり方にはさすがに閉口するが、よくよく思えば僕にも原因が無い訳ではない。1つは昨日サファリの途中で休憩した、高級ロッジで土産物を見ていた時、どれも2000円以上する高級品ばかりだったので、もっと安いモノがないのかと探していたところだったこと。
そしてもう1つはこのような場所で安く買おうとするならば、しっかりと作戦をたてる必要があるし、値段交渉を楽しむくらいの余裕がなくてはいけないのに、僕は移動中眠っていて、頭がぼおっとした無防備な状態だったということ。
秩序とモラルが保たれた中で安心を求めるなら、しかるべき場所でそれ相応の値段を払って買うべきである。
でも正攻法でなく、少しでも安くて良いものをと思えば、知恵や体を使ったり、駆け引きしたりといったことが必要になってくる。準備なしに得をしようとすれば、逆に良いカモとばかりに酷い目にあわされる。特に定価というものが存在しない世界ではなおさらだ。
騙されたり力ずくで奪ったりというその行為は、非難されるべきものではあるが、やられない為には自分で己の身を守らなくてはいけない。それは当たり前のことだ。
大自然は弱肉強食の世界。強いものだけが生き残る。そしてそれは人間の世界だって例外ではない。

 自分の半生を振り返り、そういえば色々なことがあったなと思い出す。騙された、裏切られたと人を恨んだこともたくさんあった。でもそれは騙される自分も悪い。
以前は人を騙すなんて、何て酷い人間なのだと怒り狂ったりもした。だがやられるのは何ら自分を守る準備をしてこなかった、自分自身が悪いのだ。草食動物が肉食獣に食べられるときに、何てオマエは酷い奴だといってみても仕方ない。自分を守ることが出来るのはやはり自分しかいないのだから。
 特にここアフリカでは、無知と無防備は致命傷になりかねない。気持ちを引き締めないといけないなと、そんなことを考えていた。

 夕方4時近くにナイロビに到着し、初日と同じホテルまで車で送ってもらい、またいつか会いましょうといってピタとバーバパパと別れる。短い間ではあったが彼達のおかげでとても楽しい時間が過ごせた。もうたぶん一生会うことはないかもしれない。でも本当にまた会えたらいいなと思う。

 大自然というものが、とても身近なものとして感じることができた、このサファリのキャンプ生活。モンキー事件やマラリア蚊の問題で、夜の暗闇がどれほど恐いものなのか、夜明けがどれほど待ち遠しいものなのか、ということを本当に思い知らされた。日本では当たり前に感じている、文明の産物のありがたさを教わった気がする。そして僕達人間も表面的こそ違いはあれ、同じ自然の法則という、不変の真理の中で生かされているのだということも。
 明日はケニアを離れタンザニアに移動する。まだまだアフリカの大自然は続く。

拝啓、世界の路上から 第2話 「大自然に抱かれて/ケニア」(前編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第2話 「大自然に抱かれて/ケニア」(前編)

「ミスター、そろそろ行こうか」ああピタ、ちょっと待って今すぐ行くから。
僕は慌てて荷物をリュックに押し込んで宿をチェックアウトし、サファリ仕様の屋根が開く、白のワンボックス型ワゴン車に乗り込む。

韓国からスタートした今回の旅。それから僕はシンガポール、マレーシアと列車を乗り継ぎタイのバンコクへと移動した。バンコクを目指したのは、他の近隣諸国より航空券が比較的安く購入できるからだ。
 バンコクにはカオサンストリートという、世界各地のバックパッカーが集まる通りがあり、そこで僕はカンボジア行きの航空券を購入し、アンコールワットを見に行った後、ドバイ経由ナイロビ行き航空券を購入しここケニアに来ていた。

ピタは現地の旅行代理店で申し込んだ、サファリツアー専属のケニア人ドライバーで、昨日ナイロビから115km、車で3時間走った所にあるナクル湖で多くのフラミンゴやペリカン、バッファロー、サイなどを多く見た後、今日はこれからマサイマラ国立保護区に向かうところだ。

 僕がサファリ用のワゴン車に乗り込んでも、ピタは後ろで何やら車に詰め込んでいる。何をしているの?と聞くと、今晩はマサイマラでテントを張るから、色々準備しないとねと笑っている。なるほどさっきから詰め込んでいたのはキャンプセットだったのだ。そしてこれで最後!と僕に2人分の昼食の弁当をポンと手渡し、彼はキーをまわしてエンジンに火を入れた。

 ナクル湖から車で走ること5時間、ナイロビから260km離れたケニア最大のサファリ、マサイマラ国立保護区に到着する。
 ここは国境を挟んで、タンザニアのセレンゲッティ国立保護区と繋がっており、その規模は東アフリカ最大、いわばサファリのメッカといった場所。
 道中のほとんどは、小さなブッシュだけが茂るアフリカの田舎道を延々と走るだけ。途中いくつか小さな町があったものの、それも数えるほどで本当に何も無い。
それでも時折一般道を、シマウマやバッファローの群れが横切ったりして足止めを食らう。最初はおおっシマウマだ、バッファローだとはしゃいでいたが、ピタにいわせるとこんなのドコにでもいるよとそっけない。日本でいうところのサラブレッドやホルスタインなみの扱いで、え?まじですか?と早くも野生の王国の洗礼を受ける。

 ピタは英語と現地語のスワヒリ語、僕も日本語とカタコトの英語だけなので大した会話はできないが、それでも気の優しい彼はいろいろと親切にしてくれ、またケニアのことやサファリのこと、自分の家族のことや、日本人観光客はケニアで歓迎されているといったことなどを色々話してくれる。思わず彼が真っ黒な地肌にスキンヘッド、身長190センチに、ムキムキボディのマッチョマンであることなど忘れてしまいそうだ。ここのところ運動不足ぎみで、ムチムチぼよよんボディの僕とは大違い。
 ケニアの首都ナイロビは、世界でも屈指の治安の悪い町で、体の大きな黒人と道ですれ違うだけで、臆病な僕はビクビクしてしまうのだが、ピタみたいに良い人もいるのだと少し嬉しくなる。日本だって悪い奴達はいる。それはどこも同じだ。

 「もうすぐだよ」とピタがいう。するとそこには小さな村があり、赤い布をまとい棍棒のような杖を持った、痩せた黒人がこちらをじっと見ている。そしてその子供であろうか、4、5人の小学生ぐらいの子供達が、僕に向かって一斉に手を振ったので、僕も笑って手を振り返す。するとあれがマサイだよとピタが教えてくれた。そうかマサイマラはあのマサイ族の住む地域だったのだ。
 そこから草が茂った道無き横道に入って2、3分もすると、緑色の6つのテントが設置された、茂みの中の小さなキャンプ場へと到着する。今晩はここで泊まるみたいだ。

 車を降りると僕と同じぐらいの背丈の、ひょろっとしたケニア人のおじさんがいる。ピタがそのひょろりんオヤジを、このキャンプ場の管理人兼コックだよと紹介してくれた。はじめましてと一通りの挨拶をすると、彼はようこそといって、僕が今晩泊まるテントまで案内してくれた。

 テントは思ったよりも大きく、日本の畳4畳半ぐらいはあるだろうか。中には鉄パイプ製の簡易ベッドが2つあり、その上に寝袋を敷いて使うようだ。意外にしっかりした作りだったのでちょっと安心する。
 ピタに今朝車に積んでいたテントは?と聞くと、あれは私用だよといって笑う。実は朝そのテントを見た時、かなり小さくてオンボロだったので、こ、これで寝るんすか?しかもピタと2人で?とちょっとビビっていたのだ。ピタにそのことを話すと、あれで2人寝たら、体の半分は外に出ちゃうよと笑っていた。

 テントに荷物を置いた後、まずはテントに穴や隙間がないか念入りにチェックする。ケニアは一応マラリア感染地域に指定されているので、もし穴があれば今のうちにふさいでおこうと思ったのだ。マラリアはハマダラ蚊という蚊を媒体に伝染するのだが、その蚊は夜しか活動しないので、昼間のうちにしっかり対策をしておく必要がある。一通り見てみたが、テントもまだわりと新しく穴もない。大丈夫みたいだ。

 ベッドの上にバンコクで買って持ってきていた寝袋を敷いて中に入り、リュックの中から文庫本を取り出して、それを読んでくつろいでいると、ピタがサファリに行くかい?と僕を呼びにきた。時計を見ると昼の3時半ぐらい。
 2時間だけサファリに行ってみようと、先程のマサイの村を通り越して車を走らせること15分、マサイマラ国立保護区のゲート(入り口)へと到着。サファリというのは日本の国立公園のようなものだ。

 ゲートをくぐってから、もうかれこれ30分も走っただろうか。だが動物なんてどこにもいやしない。ただひたすらサバンナの地平線が続いているだけだ。
 さらにもう10分も走るとようやく、シマウマやインパラといった草食動物がちらほらと姿を見せ始めた。ピタの話ではこの時期多くの動物達は、タンザニアとの国境付近まで移動しているとのこと。サファリに来たら動物がうじゃうじゃいるのかと思っていたので、ちょっと期待はずれだ。

 それでもさらに30分ほど車を走らせただろうか。ようやく1頭のアフリカ象を発見する。しかしやはり野生動物だけあって、警戒してこちらをじっと見ている。野生のアフリカ象を見たのは初めてだ。さすがに大きい。
記念にとカメラのシャッターを切ると、この象がいきなりウ○コをし始めた。マサイマラ最初の写真がウ○コ象なのか?と、ちびまる子並にサーっと黒のタテ線が僕の額に入る。それにしても体が大きいだけあって、出るものもサスガにデカイ。僕がその排泄物をじっと見ていると、ピタがウ○コ、ウ○コと僕を指差して笑う。俺のウ○コじゃないのに指差すんじゃない。あんなにデカイのするかよとちょっとブルーになる。

 それからまたしばらく車を走らせたが、あまり動物の姿は見かけない。2時間ではタンザニアとの国境近くまで行けないので、ここで今日は引き返すことに。また続きは明日にしよう。
それにしてももうかれこれ2時間近く車を走らせているのに、まだまだ延々とサバンナの地平線が続いている。なんてここは大きな国立公園なのだろうか。

 来た道をUターンし走ること1時間、ようやくキャンプ場へと戻って来た。行きは動物を探しながらだったが、帰りは真っ直ぐ車をかっ飛ばしてきたので、半分くらいの時間で帰って来ることが出来た。

 車を降りて自分のテントに戻ろうとすると、突然お腹の大きな白人のおっさんが声をかけてきた。彼の話ではなんでもドイツからやって来たらしく、明日僕達と一緒にサファリをドライブすることになっているらしい。ピタにそうなの?と聞くとウンとうなずく。どうやらこのツアーは僕1人じゃなかったらしい。

キャンプ場でなぜか、マサイの青年が3人焚き火を囲んで座っていたので、ドイツのおっさんとマサイの間に座って、焚き火にあたることにする。
おっさんとお互い簡単に自己紹介をするが、名前が長ったらしくて難しいので覚えられない。お腹がぼよーんと大きくて、ヌボーっとしたどこか人のよさそうな顔は、会った瞬間どこかで見たことがあると思ったのだが、そういえば子供の頃見たアニメのバーバパパそっくりだ。これから彼のことはバーバパパと呼ぶことにしよう。

 マサイは一見恐そうだが意外にフレンドリーで、枯れ枝などを拾ってきてはそれを蒔にして、ほら焚き火にあたれと親切にしてくれる。何か話をしようと思うのだが、英語はわからないらしく、先程からマサイ同士で時折しゃべっているのは、現地の言葉らしい。それでも身振り手振りで、なんとなくいいたいことはわかるような気がする。
 また彼達は戦士の証?として赤い布を身につけているのだが、それ以外何も着ていないので先程から視界に飛び込んでくる、丸見えのしわしわオイナリさんが気になって仕方ない。じっと見ているとうっかり目が合ってしまい何か気マズイ。でも彼達はまったく気にしていないようだ。
そしてマサイは笑ってはいけないルールでもあるかのように、さっきからずっと無表情で何を考えているのかよくわからない。1発ボケでもかまして笑わしてやろうかと思ったが、言葉が通じないのでそれも出来ない。やはり日本のお笑いを代表して?ココは体を張って笑いをとるべきなのだろうか。
 誰がお笑いやねん!と誰もツッこんでくれないので自分でツッコミつつ、一応ミュージシャンである僕としては、こんな時せめてギターでもあれば、歌でも歌って親睦をはかれるのにと地団駄を踏む。
実はあいにくバンコクでギターの調子がおかしくなってしまい、いくら弦を張り替えてもいっこうにチューニングがあわないので、しかたなく泊まっていた宿に、冬物などの荷物と一緒に置いてきてしまったのだ。
マイナス20℃近い韓国ソウルから、一気にプラス30℃を越す熱帯に移動したのがマズカッタのか、道中壊れてもいいように、安いギターだったのがいけなかったのかはわからないが、こういう時に楽器が無いというのはツライ。やはり見つけ次第ギターを買い替えることにしよう。

 夕食時になったのでドイツのバーバパパと、2人でテントから少し離れた場所にある、木の柱とトタン屋根だけの建物に、テーブルとライトを置いた、えらく大自然的な食堂に移動する。
 昼間会った管理人兼コックさんが、晩ご飯を持ってきてくれたので、2人してソレをつついて食べる。この日のメニューは、大きな鍋でドカっと肉とイモや、カリフラワーなどの野菜をゆでただけのもの。あまり味がなく美味いとは言い難い。それと紅茶をヤカンごとくれた。オカズももちろん大きな鍋ごと。うーんダイナミック。

 バーバパパと食事をしながら話をする。どうして1人なの?と聞くと、奥さんと子供達はアフリカなんて嫌だといって、オーストラリア旅行に出かけてしまったという。でもどうしても自分はアフリカに行ってみたくて、ロンリープラネット(※世界で最も売れている旅行用ガイドブック)片手にアフリカに来てしまったのだと、ウホホホホと甲高い奇妙な声をあげて笑う。このおっさん、笑うとつぶらな瞳が肉に埋もれて、消えてしまう不思議な技を持つことを発見。本物のバーバパパは、びよーんと体が伸びたりするが、アレに近いものがある。
 君はなぜアフリカに来たんだい?と聞かれ、何て答えようかあれこれ頭で英単語を並べてみたが、うまくまとまらないので、大学生で卒業旅行をしていることにしてしまう。申し訳ないと思ったが、当面ここではコレで通すことにしよう。
 その他は今までお互いが旅した国のことやサッカーの話、そして明日行く予定のサファリの話題などで盛り上がる。

 夕食後はテントに戻って、バンコクから持ってきた蚊取り線香を焚き、虫除けスプレーを体にシューっと吹きかける。マラリア感染地域では、ちょっと高級な宿はたいてい蚊帳がついているのだが、ここには当然そんなものは無い。マラリアの蚊は夜間活動するので、日没と共に就寝することに。最近ほとんど習慣となりつつある。
この日は疲れていたせいかすぐに眠りについた。


 しかし4、5時間も眠っただろうか、夜も深まった頃に何やらテントのまわりでガサガサ、ガサガサと物音がする。泥棒か?と思わず体中にビビビと衝撃が走る。
 あいにくテントの周りには灯りがない。本当の真っ暗闇で、今何が起こっているのかまったく分らない。
 バンコクのカオサン通りあたりで、屯している長期旅行者からよく、アジアは騙して、南米は羽交い締めなど力ずくで、そしてアフリカは殺して動かなくなってからモノを奪うから、気をつけてと忠告されていたのを思い出す。下手に騒ぐと命が危ないかもしれない。
幸い貴重品は、寝袋内の自分のわき腹下に隠してある。しばらく寝たふりをして状況を見守ることにする。
 テントには鍵など無く、チャックをビーっとあければ、誰でも自由に出入りできる。ひょっとしてマサイが襲ってきたのかなどと、あれこれ想像をめぐらす。
相変わらずガサガサと、何かを物色するような物音が続いている。とりあえず最悪この場は金目のモノを全部渡しても、命の安全を最重視するべきと腹をくくった。

 少し暗闇に目が馴れてきた頃、急にガサガサという音が止む。そして今度は隣のテントの方が騒がしくなった。
 しばらくすると今度はドイツのバーバパパの、ヘ、ヘルプ・ミーという消入りそうな小さな声が聞こえる。しかし助けてくれと言われても、こっちもどうすることも出来ない。
 だが聞き耳を立てていても他に声は聞こえず、悲鳴や叫び声も起こらない。心の中でおっさんの冥福、いや無事を祈る。

 どれぐらいの時間がたったのだろう。気がつくともう夜が明けていた。テントに窓はないので相変わらず真っ暗なのだが、蛍光色で光る小型の目覚まし時計を見ると、もう7時をまわっている。
 昨夜そのまま息を潜めていると、少しして物音がピタっと止んだ。どうなったのだろうとバーバパパの状態が気になっていた。そこまでは覚えているのだが、いつの間にか眠ってしまったようだ。
 すぐさまリュックからペンライトを取り出し灯りをつけて、何か盗られたものが無いか荷物をチェックする。だがどうやら被害はないみたい。あれは夢だったのだろうか。
 テントの入り口のチャックをジジジと開けると、まぶしい程の日差しが差し込んできた。今日も良い天気みたいだ。
 そろそろ朝食の時間だったのでそのまま、食堂という名前のほったて小屋へ移動。その途中、キキッ、ウキキと声をあげる4、5匹のモンキーとすれ違った。

 食堂の木のテーブルに肘をつき、少し茶色に汚れた白いプラスチックの椅子に腰かけ、ぼおっとしていると、10分ぐらい後にドイツのバーバパパがやってきた。
 おはようと挨拶を交わした後、夢だったのかもと思いつつ昨夜の出来事を話してみる。すると彼も襲われはしなかったものの、テントの周りでガサガサと何やら物音がして、恐くて眠れなかったという。やっぱりあれは夢じゃなかったのだ。
 そうこうしているうちに管理人兼コック氏がひょっこり現れ、ほら朝食だよとパンと紅茶をヤカンごと、ドンとテーブルに置いた。

 バーバパパと僕がそれを無言で口に運んでいると、おはよう昨夜はよく眠れたかい?と今度はピタがやってきた。
 ピタに昨夜の件を話すと、それはきっとモンキーの仕業だよと笑っている。このあたりには野生のモンキーが沢山いて、よく餌を求めていたずらしにくるらしい。朝ここに来る時にすれ違った、モンキー達の仕業だったのかもしれない。
 泥棒の心配はないのか?と不安そうにバーバパパがピタに聞くと、その為にマサイ達がセキュリティとして見張りをしているのだという。そうかあのマサイ達はガードマン役だったのかと、心の中で昨夜疑ったことを詫びる。

 3人でパンと紅茶の朝食を済ませた後、まだ朝8時半過ぎくらいだったが、そのまま車でサファリに向かうことに。
 最初はやはり昨日と同じく、何もないサバンナの草原が続いたが、タンザニアとの国境が近づいてくると、次第に驚くような光景が視界に飛び込んできた。
 例えばシマウマ。シマウマはケニアではそれほど珍しくはない動物だ。しかし今目の前には、広がるサバンナ一面びっしりと、おびただしい数のシマウマが群れをなしている。その数およそ千頭以上。それはあまりにも圧倒的で、すごいという言葉の域を通り越し、完成された美とさえ思えるほどだ。

そして今回楽しみにしていた象やキリンといった、大型の草食動物もスケールが違う。
 日本の動物園では1頭だけで飼育されていることも多いが、キリンなども群れをなすのか、さっきから何度となく3、4頭の群れとすれ違っている。そのうち林のような連続した木の茂みに差し掛かると、10頭近い大きなキリンの群れにも出会った。やはりキリンは首が長いので、木に茂る葉っぱなどを食べている。
続いて平原に出ると、今度はあの大きなキリンが驚く程速く走っているじゃないか。檻の中のキリンしか知らないので、その光景に目が釘付けになる。キリンがウマのように速く走るとは知らなかった。

 また象とも何度となく遭遇し、その中でもとりわけインパクトがあったのは、10頭程の親子親戚?の行進とすれ違った時のことだ。小象の行進という曲があったような気がするが、本当に笑っちゃうくらいキレイな一列になって、象の家族がサバンナを行進している。
小象が列から遅れそうになると、後ろの親象が長い鼻で、ほらさっさとお行きとばかりにお尻をぺシっと叩いている。また後ろの象が遅れて間隔が開くと、前の象が少しペースを落として調整したりしている。なんだか微笑ましい光景だ。

 こうしてドライブしながらサファリを満喫していると、しばらくしてある小さな石碑の前で車が止まった。そしてピタがその石碑を指差し、あれがボーダーだとポツリという。
 指差された方向を見ると、その石には真中に1本線が引かれており、それを挟んでアルファベットのKとTという文字が見える。おそらくKというのがケニア側、Tというのがタンザニア側を指しているのだろう。でも国境といっても石が1つあるだけで建物どころか人っ子一人いやしない。
 ドイツのバーバパパがピタに、こっそりタンザニア側に入れる?と聞くが、ビザがないと無理だよと笑って返していた。
 
 国境から車は右へコースを変え、さらにしばらく走ると今度は川が見えてきた。川辺に着き車を降りる。するとベレー帽をかぶってライフルを構えた、軍人が近づいてきた。
 何か注意されるのか?と様子を見ていると、ピタが彼達と挨拶を交わしている。そしてピタは僕達2人に向かって「レンジャーの後について見てくるといい、私はここで待っているから」といった。どうやらこのレンジャーが護衛をしてくれるようだ。

 僕とバーバパパは2人組みのレンジャーと一緒に、ちょっとした坂を下って川岸に下りる。それからそのまま川岸を歩いていると、カバの群れに出会った。しかし皆水につかっており、目と鼻、耳だけを水上に出しているだけ。
 ここはヒッポ・プールという、カバの群れを見ることが出来る有名なポイントで、この川はタンザニアとの国境に流れるマラ川という川なのだと、バーバパパがロンリープラネット片手に解説してくれる。よくTV番組などで、壮大なヌーの群れの川渡りの映像が流れたりするが、あれもこのマラ川を渡っている映像らしい。
 その川渡りのポイントもここから近いらしいのだが、今はその時期ではないとのこと。それは残念。
 
それでもバーバパパはカメラを取り出し、せっかくだからとカバの群れの写真を撮ろうとしている。さあ皆さん私に姿を見せてちょーだいと、大きな声で叫ぶがまったく反応なし。僕に向かって肩をすぼめてみせた後、今度はカバに向かってハウマッチ?と陽気にジョークを飛ばしている。
 しかしいくら待っても、カバが水上に姿を見せないのでしびれを切らし、今度はレンジャー2人と立ち話をし始めた。
 僕も一応カメラを持ってきているので、まあ記念に1枚撮っておくかとカメラを構える。するとカバ達がいきなり、雄たけびをあげて立ちあがり2匹でじゃれあった。その瞬間を僕はパチリ。
 バーバパパは一瞬きょとんとして、すぐさまカメラを構える。しかし時すでに遅し。またカバは水の中へ入ってしまった。ハウマーッチ!という、バーバパパの叫び声だけが川辺に響いている。まったくおもしろいおっさんだ。
 レンジャー達もそれを見て、ジャパニーズ・イズ・ラッキー、ジャーマニー・イズ・アンラッキーとおっさんを指差して、ウォーホッホッと腹を抱えて笑っている。

 それからピタのところに戻った僕達は、川近くの木陰で弁当を広げて昼食をとる。今日の昼のメニューは、ジャガイモとカリフラワーを茹でたものがドンと鍋ごととバナナ1房。
 僕達が草の上に腰を下ろしてそれを食べていると、モンキーが2、3匹近づいてきた。野生のモンキーだが、人馴れしているらしく平気で近くまで寄ってくる。昼食の入った鍋やバナナを狙ってサルが走ってくるが、その度にピタが石を投げてキッと睨み威嚇している。最初はピタもダーっと声をあげるだけだったが、それぐらいじゃ全然このモンキー達には効かない。
 すると奴達も復習とばかりに、開いている窓から僕達の車に入り込み、中でいたずらを始めた。ピタとモンキーとの追いかけっこ。昔TV番組の再放送で見た、トムとジェリーのアニメみたいだ。
 それを見てバーバパパが、まあいいじゃないかカワイイものさとピタを諭す。ほら見てごらんとばかりにモンキーに向かって弁当のジャガイモを投げると、モンキーがわっとそれに飛びついた。するとどこからともなくモンキー達が集まってきて、気付けばあっという間に20匹近くの群に膨れ上がった。
モンキー達同士でも餌を求めて白熱バトルが始まり、おっさんの投げるオカズが地面につく前に、奪い合うようにしてモンキーがジャンピングキャッチし、すぐさまそれを口に含むと、他の仲間に盗られまいと木に駆け上がる。
 中にはまだ小さなおチビさんもいたが、まだ人間が恐いのか少し距離を置いて警戒しているので、一向に餌にありつけない。僕もかわいそうに思い、そのおチビさんめがけて餌を投げるが、先に体の大きなモンキーに餌を取られてしまう。サルの世界でも世の中は厳しいモノらしい。

 そのうちバーバパパが悪乗りをはじめ、このおっさん何を思ったのか急にバッと立ちあがり、すっと腕をのばしてバナナの皮を構えた。するとモンキーがそれをジャンプしてつかみ口にくわえて走り去る。やはりバナナはモンキー達のアイドルなのか、他の連中もすごい勢いでバナナをくわえた仲間を、羨ましげに俺にもよこせと追いかける。
 バーバパパに、もう1回やるから写真に撮ってくれないかとカメラを手渡される。そしてカリフラワーを同じようにして構え、それをモンキーが見事ジャンピングキャッチする。その瞬間を僕がパチリ!っといくはずだったが、ちょっとタイミングがずれてしまった。
 おっさんが笑ってオッケー?と聞くので、ダイジョウブ、イイ感じ!とにこやかに笑ってかえす。本当は全然大丈夫じゃないのだが、ドイツに帰ったら一応現像してみてくれたまえ。

拝啓、世界の路上から 第1話 「最悪のスタート/韓国」(後編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第1話 「最悪のスタート/韓国」(後編)

「ガチャッ」とドアが開くと、そこには小さな子供がエヘヘとテレ笑いしている。その子は韓国語で何やら挨拶をして、部屋を出ていった。
 
え?何だいったい?と、寝ぼけながら、眼をゴシゴシ手のひらで擦ってムクリと起きる。そして昨夜の出来事を思い出し、そうだ、キムさんのお宅にお世話になっていたのだと、状況を理解する。
リビングルームに顔を出すと、奥様のヤスコさんが昼食を作っていた。そうか、もうお昼なのか。
2人の小さなお子さんとヤスコさん、そして僕は韓国の家庭料理が並べられた座卓を囲み、せっせと韓国の長いハシでそれをつまんでは口へと運ぶ。うんウマイ。
 旅行代理店にお勤めのキムさんは、もうとっくに会社に行かれたとのこと。ヤスコさんに夕べのお礼と突然の訪問のお詫びを言うと、いいのよこんなことはよくあるからと笑っている。こんなことがよくあるということは、キムさんは筋金入りの「いい人」なのだろうか。
ご主人のキムさんと、SMAPの草薙君の顔を重ねながらぼんやりしていると、それより今日はどうされるのとヤスコさんが聞いてきた。
 まだ何も決めてないですと馬鹿正直に答えると、もしよかったらと前置きした後で、日本の知り合いの娘さんが今ソウルに語学留学しているから、もし予定が無いならあちこち案内させるけどどう?といわれる。
 天才的な方向音痴を自負する僕なので、それはまた何とありがたいお話であろうかと、すぐさまお礼を言いかけたが、いや待て、これ以上お世話になったらバチがあたると、こわばった作り笑いを浮かべながら、そんなご迷惑かけられませんからと杓子定規な返事をする。
しかしそれを見透かすかのように、いいのよあのコ暇だからハイ決まり!とヤスコさんはどこかに電話をかけ始めた。

 しばらくしてその留学生の娘さんがやって来た。彼女はイイジマさんといい、今日は授業が夜からだから、それまでどこか行きたい場所はない?と聞かれる。
 はあ、どこでも。なんと間抜けな返事だろうと思いつつ、イイジマさんオススメの場所を案内してもらうことに。
 ヤスコさんに丁重にお礼を言って、荷物をまとめキムさんのお宅を後にする。そしてまずは今日の寝床確保と、イイジマさんと地下鉄に乗ってチョンガクへ向かう。向かった先は昨日泊まるハズだったYMCA。ここに泊まっておけば、あんなトラブルなかったのにとボヤキつつ、シングルルームにチェックインし荷物を置いて外へ出る。

 現地の人がよく行く場所という、間抜けな僕のリクエストに、イイジマさんは韓国の渋谷・原宿と呼ばれる若者の街、フェーファや、南大門市場という上野アメ横を思わせる市場を案内してくれる。
 イイジマさんの話によると、ソウル市には大きな市場が幾つかあるのだが、その中でもとりわけ有名で規模が大きいのが、市内の南に位置する南大門市場と、東に位置する東大門市場なのだという。ここにくれば大抵のものがそろうとかで、毎日様々な物を求めて全国各地から人が集まってくるので、いつでも人でごった返しているとか。その言葉通りすごい人の数で、歩いていてもなかなか前に進まない。
またこの界隈は屋台がたくさん出ており、その中でトッポギという韓国餅を、キムチ汁につけたおやつを売る屋台で1つ買って食べてみる。餅とキムチ汁なんて美味いのか?と思いつつ1つ摘んだのだが、意外に真っ赤なこの汁が、甘辛くてなかなか美味い。韓国の若者にとってトッポギは、ファーストフードのようなものらしい。またこういった屋台のものだけでなく、本格的なものは肉や野菜、豆腐などと一緒に炒めるらしく、トッポギ専門店もあるという。僕は雑煮や焼餅など日本の餅もわりと好きなのだが、この韓国のトッポギはそれを上回り、あっという間に僕のハートをキャッチして虜にしてしまった。これなら毎日でも食べたいぐらいだ。
 
 夕方になり、そろそろ語学学校の授業の時間ですか?とイイジマさんに聞くと、今日はサボリサボリと言うので、彼女は韓国人の友達と連絡を取り合い、僕もまた自分の知り合いである日本人旅行者、ウエハラさんと待ち合わせをして皆で飲みに行く。
 このウエハラさんという人は、世界の五大陸を徒歩で10年かけて縦横断しているツワモノで、僕も以前ほぼ同じルートを旅する計画をしていて、偶然インターネットで彼のホームページを見つけ、それ以来メールのやりとりをしている友人だ。
 さすがの僕でも歩いて縦横断をしようなどといった計画はしないが、今回の旅の企画段階で、アポなしで某テレビ局のバラエティ番組に、企画書送りつけ協力求む!とほざく程度にはバカだったりするので、似た者同士?結構気があったりする。

 実は今回の旅のプランを上原さんにEメールしたところ、偶然同じ時期に彼も韓国にいるというので、それなら一度お会いしましょうということになり、それがちょうどこの日の夕方だったのだ。
 でも2人はメールのみのやり取りで、お互い顔も知らない者同士、連絡手段も無いので、ちゃんと会えるか不安だった。だが待ち合わせ場所でイイジマさんが突然、「ウエハラさ~ん、ウエハラさんはいますかあ?」と大声で叫んでくれたので、僕達は無事会う事ができた。彼女もスマシタ顔して、なかなかオモシロイ人のようだ。なんだ皆似た者同士じゃんと、ホッと胸をなでおろす。
 焼肉屋で手短に食事を済ませた後、イイジマさんの韓国人の友達と合流し、ぞろぞろと皆で歩いて移動する。入ったお店は、小さなステージがある場末のバーといった雰囲気。だがテーブルを囲んで座って話し始めるも、言葉も文化も違う者同士どこかぎこちない。

 ふとステージに目をやると、小さいがライブ用の音響機材もそろっている。歌ってもいいかな?とイイジマさんに聞くと、彼女の友達の韓国人が店のオーナーに聞いてくれた。すると2曲くらいならオーケーだという。
 ウエハラさんと会う目印にギターを持ってきていたので、僕はそれを取りだし歌い始める。まず1曲目はビートルズだ。
ドント・レット・ミー・ダウン~♪僕のシャウトが店の中を突き抜けると、店内がシーンとなった。店中の視線が自分へ向けられているのを感じる。
この旅最初のステージだが、なぜか気持ちは落ち着いている。均等な間隔で並べられた丸テーブルを囲む、学生だろうか髪の短い韓国の若者達の顔や、さらにその奥のカウンターで、カクテルを作るバーテンダーのお兄さんの表情、そして真剣にこちらを見つめる先程まで自分が座っていた仲間内で囲むテーブルの、皆の表情などそれを眺めているだけでも面白い。
1曲目が終わり、誰もがビートルズは知っているようなので、続けてレット・イット・ビーを歌いはじめる。静かなバラードを歌っていると、目を閉じてじっと聞き入っている人もいる。本当に小さな無色のピンスポットライトが僕を照らし続ける。時間が止まっているかのように錯覚する一瞬。ライトの温もりが暖かい。こうしてステージで歌っていると、ここは自分の居場所なのだなと感じる。どこにいるよりも、何をしている時よりも歌っている時の自分が僕は好きだ。やはり歌は、音楽は最高だ。

 そんなこんなで歌い終わり、拍手の中またテーブルへと戻る。すると先程までぎこちなかった雰囲気は一転し、彼達も僕に興味を持ってくれたのか、互いに交わす会話にも活気が出てきた。皆の目もらんらんと輝いているように見える。
 5人いた韓国人の中にも、日本語が多少できる人がいたので、向こうはカタコトの日本語で、僕はつたない英語で返す。それでもお互いに言葉を交わしていることに喜びを感じる。難しい話や込み入った内容は、韓国語のできるイイジマさんが間に入ってくれどんどん会話がはずんできた。
 酒の量と共に次第に僕達は熱く語りはじめる。コンベ!コンベ!(乾杯)と絶叫し、日韓友好イッキ飲みと訳の分らないイベントを連発しつつ、この日はこれからの日本と韓国のあり方という真面目なテーマで話し合う。

 僕達が生まれるずっと前の今から50年以上も昔、日本と韓国の間には哀しい歴史があった。そしてそれが理由で、今日まで両国は複雑な関係だった。でもこれからは僕達が、僕達の世代が変えていくのだと堅い握手を交わす。
 例えば僕達が良い友達になれるように、きっと日本と韓国はこれから共に手を取って世界を相手に活躍できるはずだということ、2002年のサッカーのワールドカップは、きっといいチャンスになるだろうといった内容を熱く話しあう。
 けど日本と試合をする時は負けないよと韓国の1人がいう。すかさず僕もこちらこそと返す。でも互いに手をとりあい世界をあっといわせたいねと続ける。
 イイジマさんが僕に起った昨夜の出来事を話すと、彼達は申し訳なさそうに、同じ韓国人としてすまないことをしたと謝ってくれた。でも悪い韓国人もいるが、良い韓国人だっている。それは日本人だって同じ。イイジマさんのその言葉に僕達は心の底から頷いた。
 大切なのは過去じゃない、今日という日とこれからのこと。お互いがより良い明日を望むなら、きっと未来は明るいはずとそう何度も堅い握手を交わす。僕達がこの気持ちを忘れない限り、日本と韓国の関係は間違いなく変わる、いや変えなくちゃいけないと強く感じた。きっとできる。だって僕達はこの日、民族の壁を超えて1つになれたのだから。

 この後、イイジマさんと韓国人の友達が、僕とウエハラさんをホテルまで送ってくれた。
 お金を払うと何度も申し出たが、韓国スタイルではゲストからお金をもらうわけにはいかないと、けして受け取ろうとしなかった。
 イイジマさんや、韓国の人達が何度も連呼していた韓国スタイル。初対面の僕におごってくれるなんて、なんともありがたい?韓国スタイル。
昨夜トラブルがあったときは韓国に来たことを後悔していたが、この日は少し韓国が好きになった。
 僕達が変える………か。
 幾度と無くこの日交わした言葉を胸に、部屋に戻った僕はベッドにもぐり込んだ。

拝啓、世界の路上から 第1話「最悪のスタート/韓国」(前編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第1話 「最悪のスタート/韓国」(前編)

 「まもなくソウル、キンポー空港に着陸いたします。」そうアナウンスが流れ、にわかに機内がざわつき始める。

 世界一周ストリートライブの旅をしようと計画したのが半年前。しかし1人で海外など行ったことも無ければ、飛行機すら生まれてコノカタ数える程しか乗っていない。
 その上、出発直前まで仕事をしていたこともあって、ロクな準備もせず旅に出ることになってしまった。なにしろ東京の下町で1人暮らしをしていたアパートを引き払い、後はヨロシクと、ドンと田舎の両親に、荷物を送りつけただけの引越しをしたのが出発の2日前。不安が無いといったら嘘になる。

空港に着いて前に並んだ人の、見よう見真似でイミグレーションを通り抜ける。そしてしばらく人波の列の後をついていくと、地下鉄に出た。だがその標識を見上げると、全部ハングル文字なので、何が何だかわからない。
困ってその場に立ち尽くしていたが、ふいに横に目をやると、すぐ隣で人の良さそうな青年が切符を買っていた。
 これはチャンスとばかり片言の英語をならべて、チョンガクという駅近くの、YMCAという安ホテルに行きたいことを話すと、「私日本語ダイジョウブです」と流暢な日本語で、彼はニッコリ笑って答える。そして僕は彼に案内されて、地下鉄の改札を通り列車に乗り込んだ。

 韓国の地下鉄は、東京や大阪といった日本の主要都市の地下鉄のように、よく整備されていて綺麗だ。例えば茶色のラインが目印の1号線、緑色の2号線といった具合に、複数の路線が乗り入れしており、各線とも電車が頻繁に走っていて、乗り継ぎもスムーズ。そして駅構内などの設備も綺麗で、料金も日本円で50円から90円と安いのがいい。またダイヤも割と正確で速いので、使い勝手が良いのだという、日本語の堪能なこの青年の話に耳を傾ける。
車内で彼としばらく他愛無い会話をしながら、なぜそんなに流暢な日本語が話せるのか聞いてみる。するとなんでも彼は5年前から日本に留学しており、今回就職の関係で韓国に帰ってきたのだという。おまけに旅に出る直前に僕が住んでいた東京の西日暮里と、彼の下宿先の三河島は目と鼻の先。しばらく東京の下町のローカルな話題で盛り上がる。
「チャン」と名乗るその青年と、その後も日本での生活や、韓国で大流行のインターネット対戦型ゲームセンター、PCヴァンの話などをする。ゲームセンターといっても、日本でいうところのインターネットカフェのようなものらしいのだが、韓国では家庭用ゲーム機があまり普及しておらず、インターネットカフェなどで、低料金で楽しめるパソコンゲームが大流行なのだという。実はこのチャン君は、ゲームのプログラマーになるのが夢だとかで、その勉強も兼ねてTVゲームの先進国である、日本に留学したのだそうだ。

 しばらくすると乗り継ぎの駅に着いたので、彼にお礼を言って別れる。そして彼に教わった次の電車への連絡通路を歩いていると、今度は別のズングリ体型の青年が、何やら韓国語で話しかけてきた。
 しかし僕は韓国語がまったく分からないので、つたない英語で自分は日本人であることを伝える。するとそのズングリ青年は、今度はカタコトの日本語で、すいません顔が日本人でないのでわかりませんでしたと、なんとも失礼なことを言ってくる。そして彼は、キムといいます、日本語あまり上手じゃないけどヨロシクと、頭をペコリと下げた。

 なんでもこのキムと名乗る青年は、韓国南部の大都市プサンの大学生らしく、冬休みを利用してソウルまで遊びに来ているとのこと。
 チョンガクへの乗り継ぎはここでいいのかと聞かれたので、僕もそこへ行くところだと話すと、ではご一緒しましょうということになった。

 乗り換えた電車の中で、今晩何処に泊まるのかと彼に尋ねられる。僕が今夜宿泊を予定している宿の名前を告げると、いくらですかと続けるので35000元(ウォン)、日本円にして約3500円と話すと、そいつは高いと驚かれる。
 確かに本音を言うとこの旅における1日の予算を、2000円ぐらいと考えているので、僕的にも決して安い宿ではない。しかし旅の準備などで、前日までドタバタして疲れていたので、宿探しに手間取るよりはと、ガイドブックの切れ端に載っていた、誰でも名前を知っているこの宿にしようと思ったのだ。
その話をすると彼も今晩チョンガクに宿泊予定とかで、彼の知っている安宿は1泊1000円くらいだから、もしよかったら一緒に来ないかと誘われる。他にも安い宿はたくさんあるから、紹介してくれるというので、そいつはありがたいとその提案を受けることにする。

 ソウル市内の中心にあるチョンガク駅に着いたので、彼の予定している宿へ一緒に向かう。しばらく歩くとキム君は、あちこちキョロキョロし何やら落ち着かない。そのまま歩き続けるが、気付けばさっきから同じ道を行ったり来たりしている。
彼にどうしたのかと尋ねると、確かこの辺にあるはずなのだが、お目当ての宿が見当たらないという。ひょっとして彼も、僕に負けず劣らず方向音痴なのだろうか。少し不安になる。

 彼がいうには宿の住所はここで間違いないのだが、あるはずの場所にその宿が見あたらないとのこと。どうしたものかとその場で立ち尽くしていると、ここから少し遠いが彼の友人宅近くに安くていい旅館があるから、そこじゃ駄目かなと申し訳なさそうに切り出してきた。もう疲れて頭の回っていない僕は、とりあえず寝られるならどこでもいいと返事する。

 バスに乗り郊外に向かってひた走ること30分。「ココ、ココ」と彼のいう場所で、一緒に降りる。そしてそこから奥へ1本入ったところにある、小さな旅館に入る。
 ここが何処なのかさっぱりわからなかったが、よく知った宿だからまかせておいてと彼が言うので、何の疑いもなくそうすることに。
中に入ってすぐの受付で、彼が宿のおじさんと何やら韓国語で話している。そして1つ大きく頷いた後、今度は僕の方に振り返り、今日は1部屋しか空いてないので一緒でもダイジョウブ?と聞いてくる。クタクタだったので、何でもいいとそのまま2人でチェックインすることにする。

荷物を持って2階に上がると、少し狭いがなかなか綺麗な部屋だ。値段も1泊11500元、日本円にして1150円といったところ。悪くない。
 部屋に荷物を降ろし、今日は疲れているので早めに寝たいことを告げると、友達をぜひ紹介したいので一緒に焼肉を食べようと誘われる。
 本当はもう1歩も動けないくらい疲れていたが、日韓友好、日韓友好と壊れたラジカセのように連呼するので、せっかくの好意だからと思い一緒に食事をすることに。
しかしヨッコラショといざ外に出ようと立ち上がると、ちょっと待ってとキム君が、僕の腕を掴んで制止する。何だい?と振り返ると、貴重品は部屋に置いていったほうがいいと、神妙な顔で忠告してきた。理由を聞くと、日本と違って韓国の夜は危ないので、貴重品は持ち歩かない方が良いというのだ。
 僕のバックパックに鍵がついていたので、それに入れて部屋にも鍵をかけておけばダイジョウブと言われ、じゃあそうしようとその通りにして外へ出る。

 バスで再び1区間だけ乗って、キム君のオススメだという1件の小さな焼肉屋に入る。靴を抜いで日本でいうところの座敷席に上がると、彼は適当に注文して、すぐ友達を呼んでくるので先に食べていてほしいと言い残し、店のおばちゃんに韓国語で何やら話して慌しく店を出て行った。
 10分ぐらいで戻ってくるというのでハシをつけずに待っていたが、いくら待っても来ないので先にいただくことに。
 最初はなかなかうまいじゃないかと、ノンキに焼肉を楽しんでいたが、気付けば彼が店を出て行ってもう30分になる。だんだん不安になってきた。
またよく考えてみると、彼にはおかしな言動が多すぎやしないかと、悪い予感が頭をよぎる。
まず僕の貴重品のほとんどが、旅館の部屋に置いてきたバックパックの中で、その部屋の鍵はキム君が持っている。そして僕はというと自分が今何処にいて、何という旅館に泊まったのかも判らない状態。彼はよく知った旅館だからといっていたけど、宿のおやじも韓国語しか話せないので、2人が何を話していたか判らない。

 そして1時間経った段階で、それは確信へと変わった。「やられた!」
 まずは店のおばちゃんに彼が何といって店を出ていったか聞くが、韓国語しか話せないらしくさっぱり話が通じない。
 すぐ後ろのテーブルに座っていた家族連れのおじさんが、英語が少し話せたので韓国語に訳してもらい、店のおばさんに伝えてもらう。すると部屋にお金を置いてあるのかと聞かれたので、僕を心配してくれているのかと思い、バックパックの中に貴重品はほとんど入れてあるのだと話すと、無銭飲食と誤解され逆に警察を呼ばれた。何でこうなるのだ?

 できるだけわかりやすく事情を家族連れのおじさんに説明し、警察に行きたいので場所を教えて欲しいと言うと、警察?すぐ隣だよというので店のドアを空けてみる。すると本当だ。警察が店のすぐ目の前にある。
 まるでコントのようだなと思いつつも、そのおじさんは僕の焼肉代も払ってくれ、警察署まで一緒についてきてくれた。

 警察で事情を話す。しかしどちらもほとんど英語ができない者同士なものだから、全然伝わらない。
 ホテルは何処?としきりに聞かれるが、こちらはホテルの名前どころか、ここが何処かも判らないので、逆にここはどこですかと聞き返すと、アホかこいつはという顔をされる。まあ普通いきなり警察にきてそんなことホザけば、ちょっと頭の弱い人かと思われて当然だが、本当に判らないのだから仕方ない。
 平常時ならここまで間抜けなドジは踏まないが、前日までの準備で疲れていたのと、彼が親切なのですっかり警戒心を緩めきってしまっていた。
 とりあえず日本大使館ならうまく仲介してくれるだろうと、電話を借りてかけるが、本日の営業は終了しましたという、無機質なガイダンスが何度も繰り返されるだけ。
 警察官も困ったなあという顔をしているので、とりあえず大体のホテルの場所は見当がつくから、車を出してくれと頼んだ。
 それから警察官2人とパトカーに乗ってしばらく探すが、いくら探してもそれらしき建物が見つからない。車を降りて外に出てみるが、どこも似たような景色でサッパリだ。
 
 寒い。もう1時間近く探しただろうか。寒さと疲れで何が何だかわからなくなってきた。後で聞いた話だが、この日のソウルの気温はマイナス18度。2人の警察官に駄目みたいだねと話すと、警察署からバスで1区間、5分ぐらいの所だったらまだ行ってない場所があるから、もう少し探してみようといってくれた。
 それからまた車に乗ったり、降りて探したりを繰り返し1時間が過ぎるがやはり見つからない。車は同じ所をぐるぐると回り、僕も疲れ果て力無くつぶやく。………アイ・ドント・ノー、アイ・ドント・ノーと。

 深夜0時を過ぎ、彼達も万策尽きたのか、僕達を乗せたパトカーはさらに大きな警察署の前で止まる。おそらくこのあたりを統括している警察署なのだろう。
 建物の中に入り階段を上がる。奥まった立派な扉を開けると、一緒にいた2人の警察官はビシッと敬礼をする。そしてその視線の先にはいかにも偉そうな制服を着た、お腹がでかくて髪の薄いオヤジと、その部下だと思われる警察官が4、5人、学校の職員室のような広い部屋の中で、机を囲んで座っている。
 
 パトカーで一緒に探してくれた2人は、その上官に韓国語で手短に話すと、僕にダイジョウブだからねというような笑顔を見せて、再び敬礼し部屋を出ていった。
 部屋に1人残された僕に、その偉そうなオヤジは何やら話しかけてきたが、韓国語の分らない僕には何を話しているのかさっぱり分らない。それを見かねた部下の警察官が、英語で色々質問してきた。とりあえずまあ座りなさいと、キャスター付の椅子を差し出されたのでそれに腰掛ける。そして僕は何度も繰り返してきた、キムと名乗る青年と出会ってから、ここまでの出来事をつたない英語で話す。すると彼もしばらく黙り込んで考えた後、机を挟んで座っているその部屋の警察官4、5人と、韓国語で何やら話し始めた。

その後、その中の1人がどこかへ電話をかけ、2言3言話して黒い受話器を僕に差し出す。何だろうと思いながらそれを受け取ると、そこから流暢な日本語が流れてきた。
 「私は日本語が話せますので、どういった状態なのか詳しく聞かせてください」電話の主はそういった。
 「よかったあ。」そう思わず声が出る。トラブルが起こってからずっと、ろくにコミュニケーションがとれていなかった僕は、まるで神に懺悔するかのように、韓国に着いてからの出来事を事細やかに説明する。
 電話の主は、わかりました警察の方と代わってもらえますかというので、先程の偉そうなオヤジに受話器を渡す。
するとそのオヤジは何やら韓国語でしばらく話した後、再び受話器を僕に差し出すのでそれを受け取り、もしもしと話かけると、受話器越しに日本語で、次のような言葉が返ってきた。「もう心配ありません、きっと彼達が見つけてくれます。」

 それから署内はまるで緊急事態発生のサイレンが鳴るかのごとく、急に慌しくなった。偉そうなオヤジが、何やら他の警察官を集めて強い口調で話している。すると皆がいっせいに返事をし、それぞれ分担があるのだろうか、何やら忙しく仕事を始めた。電話をバンバンかけまくる警察官や、2人コンビを組んで外へ出ていく警察官、まるでTVの刑事モノドラマのようである。僕もすっかり興奮して、頭の中で『太陽にほえろ』のテーマ音楽が流れている。

 僕は勧められるがまま、部屋の端に置かれた小さなソファーに、腰掛け静かに待つ。
そして時は流れ、時計が深夜1時を指す頃、署内に出前が慌しく運び込まれた。偉そうなオヤジはにこやかな笑顔で、そのうちの1つを食べろと僕に差し出す。
 普通、日本の刑事ドラマなら「カツ丼」と相場は決まっているのだが、何やらのびきった焼きうどんに、デミグラスソースみたいな真っ黒な汁をドロッとかけて、申し訳なさそうにチョットだけ煮野菜が乗っかっている。皆美味そうにたいらげているので、僕もハシを取りそれを口へと運ぶ。しかしなんとコレがメチャメチャくそまずい。
 一体何の汁がかかっているのだろう。麺もこれでもかという程のびきっており、よくまあこんなくそまずいものが食えるものだと、違った意味で彼達を尊敬してしまう。僕は一口食べた後弱々しく箸を置き、アイム・ソーリー、 アイム・ノット・ハングリーと小さく一言付け加えた。
 彼達もきっと僕は事件のことが心配で、食欲が無いと思ったのだろう、最初は何かいいたげだったが、すぐにダイジョウブだからねと、ポンポンと僕の肩をたたいて励ましてくれた。
 僕も仕方なく心配でしょうがないといった神妙な顔をする。まあ実際この事件が解決しないとパスポートも無いし、このまま何もしないで半年前から計画した旅が、焼肉食っただけで終わるのかと思うと、胸が痛んで仕方ないのだが、実はお腹は別モノだったりする。だってまさか、まずいからいらないとは言えないでしょう、普通。
 
そしてそれから5分としないうちに電話が鳴り、受話器を取った1人の若い警察官が僕に向かって叫ぶ。見つかった!
 え?本当ですか?と聞き返すと、これから現場に向かうので協力して欲しいという。僕はもちろんと答えた。すると先程の偉そうなオヤジが、今度は筆談で漢字を並べる。ワタシタチカンコクのケイサツは、ハンニンをツカマエル。キョウリョクタノムといった内容のようだ。
 ありがとうございますとお礼を言うと、オヤジは嬉しそうに笑った。
 それから僕は別の建物の、こじんまりした狭い部屋に連れていかれた。そこはまるで宿直室みたいなカビ臭い雰囲気で、机とテーブルとソファーが、ゴチャゴチャッと置かれている。そしてそのソファーで横になっていた、愛想のないノッポで痩せた警察官が、何だ?と言う不機嫌そうな顔で、タバコをふかしてこちらを見ている。
 僕を学校の職員室のような大部屋から、ここまで案内してくれた、優しそうなタヌキ顔の警察官が彼に事情を説明すると、愛想の無い痩せ警官は僕に何やら韓国語で話し、下品な笑い声を上げている。きっと僕はからかわれているのだろう。それにしてもコイツ顔がドラキュラそっくりだ。
 タヌキ顔の警察官は、気にするなといって奥の倉庫から何やら道具を取り出してきた。どうやら指紋をとるみたいだ。
 ちょっと抵抗があったが、協力すると言った手前仕方ない。左右両手五指の指紋を用意された用紙にとり、そこにサインする。すると先程電話で話した日本語の話せる人がここに来るから、しばらく待って欲しいといわれる。
 
 勧められるままソファーに腰を降ろすと、部屋の隅で別の警察官とふざけていた下品なドラキュラ男が、僕にコーヒーを入れてくれた。
 何だ結構いいやつじゃんと思う間もなく、また何やら韓国語で話してゲラゲラと笑い転げている。蹴飛ばしてやろうかと思ったが、ここはグッとこらえる。

 それからしばらく待っていると、先程電話で話した日本語の話せる人が警察署に到着し、大変でしたねえといいながら部屋に顔を出した。僕はこの人のことを、てっきり本庁のエライ警察官だと思い込んでいたのだが、実は先程僕の指紋を取ったタヌキ顔の警察官の親戚にあたる人で、日系資本の旅行代理店にお勤めなのだという。
この方の名前はキムさんといい、もちろん親戚のタヌキ顔の警察官もキムさん、今回の犯人もキムと名乗っており、どうやらキムという名前によほど縁があるみたいだ。
 そのキムさんがあまりに流暢な日本語を話すので、日本語お上手ですねと言うと、以前東京の本社で勤務したことがあり、その時知り合った日本人女性と結婚されているとのこと。ああナルホドと納得する。そしてとりあえず現場に向かいましょうと、2人のキムさんと3人でパトカーに乗り込む。
 
 しばらく走ると、なにやら見覚えのある建物の前で止まった。そして入り口をくぐると、確かに犯人と入った旅館に間違いない。
 宿の主人に連れられ2階へと上がり部屋に入る。そしてその瞬間愕然とした。
 部屋は無残にも荒らされ、僕の荷物の中身があちこちに散乱している。鍵をかけたはずのバックパックもナイフで切り裂かれ、当然の事ながら犯人の姿はもうそこになかった。
 僕が荷物に近寄ろうとすると、警察官のキムさんに指紋を取るから触らないで!といわれる。
 僕はまるでサスペンスドラマを見ているかのような、無残な光景を眺めながら、そこに立ち尽くしていた。
 
 5分程しただろうか、盗まれたものと、犯人の遺留品があったら教えて欲しいといわれ、僕は散乱した荷物のチェックを始める。するとパスポートの他、カードや航空券、ノートパソコンに至るまで、ほとんどが手付かずの状態で残っていた。
 結局調べてみると無くなっていたのは、日本を出るときに持っていた現金1万円と、トラベラーズチェックのみ。しかも犯人が吸ったタバコの吸殻や(※僕はタバコを吸いません)犯人が部屋に入るなり飲んでいた、ジュースの容器がそのまま残っていた。
 犯行時刻に銀行は閉まっていたので、当然換金はできない。ストップをかければまだ間に合うかもしれない。うまくいけば現金1万円という、最小限の被害で食い止められるかもしれない。

 散らかった荷物を片付け、警察署に戻って被害届を書き、それを旅行代理店のキムさんが韓国語に訳して書き直してくれた。そこに僕はサインし提出する。
 警察のキムさんももし何かあったら連絡してくれと、携帯の電話番号と名前をメモした紙をくれた。後は夜明けまでに、トラベラーズチェックのストップをかけるだけだ。
 電話を借りたい旨を伝えると、旅行代理店のキムさんが、もしよかったら今晩はウチにいらっしゃいませんかと申し出てくださった。電話もウチでどうぞといわれる。
 僕がそんなご迷惑かけられませんと言うと、韓国に対して悪いイメージを持って欲しくないので、同じ韓国人としてぜひお詫びしたいといわれる。時間も夜の2時半過ぎということもあって、その好意をありがたく受けることにした。

 キムさんの自宅に着いたのが深夜3時。日本人の奥様ヤスコさんが出迎えてくださった。また本当に親切にしていただき、その日は国際電話でなんとかトラベラーズチェックの盗難手続きを済ませ、用意してもらった布団に入り就寝。
 時計を見ると明け方の4時半。長かった1日、最悪のスタートとなった1日が、こうしてようやく終わりを告げた。

拝啓世界の路上から

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
2000年にギター片手に1年世界を旅した時のエッセイをブログにアップします。
自分がギター片手に世界を初めて旅した時の話です。
当時、出版社から本にしましょうというお話もあったのですが、紆余曲折ありお蔵入りしていたエッセイです。

「拝啓、世界の路上から」●目次
第一話  最悪のスタート(韓国)
第ニ話  大自然に抱かれて(ケニア)
第三話  星降る島での出来事(タンザニア)
第四話  極貧・ヒッチハイクの旅(タイ)
第五話  夢の先にあるもの(オーストラリア)
第六話  誰かの為に出来ること(ニュージーランド)
第七話  コンクリートで囲まれた戦場(ニューヨーク/USA)
第八話  モアイの住む島(イースター島/チリ)
第九話  グッバイ・マチュピチュ(ペルー)
第十話  わくわく?密入国入門(パラグアイ・アルゼンチン・ブラジル)
第十一話 真夏の夜のEurope(オランダ・ベルギー・フランス)
第十二話 アイ・フォー・ユー(イタリア)
第十三話 エーゲ海でのバースデイ(ギリシャ)
第十四話 ライヴ・イン・ピラミッド(エジプト)
第十五話 混沌の聖地へ(インド)
あとがき 道はまだ続く(敦煌/中国)