昨日、シンガポールから帰国した。
日本は秋になっていた。
伊丹空港から出て、日本の秋の風を肌で感じた瞬間、この国に対する愛情と日本人としてのアイデンティティのようなものを感じた。
やはり、私は日本が好きだ。
そして、長期の旅行は最近なかったので、久しぶりに旅をしたなぁという気分だ。
詳しい旅行記はこれから少しずつ書いていこうと思う。
今回は時系列ではなく、人気の(?)「姫シリーズ」として書くつもりだ
今日はそのプロローグ。
姫(姉)は、本当に真面目で、優しくて、自己主張が激しくて、私より完璧主義で、常識人で、たくましくも繊細な人だった。
40年も彼女と付き合ってきたが、改めてそう思った。
自分と似ていると思うところもあるし、全く正反対だと思うところもある。
その正反対の面が子供の頃はお互い理解しがたく、ケンカも多かったけれど、今は(というか今回の旅行で)自分と共感できる部分のほうを強く感じた。
そして、たぶん、この人は私よりずっと繊細で、ずっと真面目で、ずっと完璧主義なんだと気づいた瞬間、
自分が苦労している何倍も心を痛めることが多いんだろうなと思い、同情的な気分にもなった。
私も真面目な人間だけど、彼女はもっと真面目で自分を追い詰める。
自分にも人にも厳しい。
常に完璧であろうとするあまり、心身のストレスは大きくなる一方で。
姫の夫(お義兄さん)と私の夫は、ちょっとタイプが似ている。
おおらかで、のんびりやで、いい人。
私も姫も、そういう人じゃないと一緒にいるのは無理なんだと、これも改めて思ったこと。
深刻な人間が深刻な人間と一緒にいたら、破滅しかない
そういう意味では、私も姫も、自分に合った素晴らしい夫とめぐり合えたなぁと思う。
シンガポールという街は、活気があり、おもちゃ箱みたいにいろんなものが詰め込まれていて、国際的で、面白いところだった。
「シンガポールに行く」という話を友達に会うたびにしてみたら、4、5人は旅行で行ったことがあった。
でも、ほとんどが10年以上前の話。
「2日もあれば十分」という意見もあったけど、行ってみて、それも10年以上前の話だからだなぁと思った。
たぶんだけど、私の友達が見てきたシンガポールと、私が今回見たシンガポールは随分違っているのではないだろうか。
常にどこかで大掛かりな工事をしていて、日々、新しい建物ができている。
この10年くらいで、街並みだけでも随分変化してしまったと思う。
まあ、代表的で歴史的な観光地は変わらないだろうけど。
少なくとも「2日あれば十分」な場所ではなかった。
あと3日くらいあっても、まだ十分に楽しめた。
それくらい、日々進化している国なんだと思う。
また、これはアメリカでもそうだけど、いろんな人種が混在している街というのはちょっと慣れない。
ほとんどが中国人。
そして、アラブ系の人、インド人、韓国人、日本人、白人がいる。
中華街はいろんな国にあるが、シンガポールでもチャイナタウンはあって。
それ以外にも、アラブストリート、リトルインディアといった、人種ごとのエリアがある。
そこにはそれぞれの文化がそのまま残って、そのままの生活がある。
基本的に単民族国家の日本からすると、それはちょっと変な感じだ。
印象的だったのは、姫のこんな話。
シンガポールという国は、建国記念日に大々的なお祭りがあるという。
シンガポールに住んでいる他の国々でもそうらしい。
でも、日本は建国記念日に国をあげてのお祭りやイベントなんてない。
「日本では建国記念日にどういうことをするのか?」といろんな国の人に聞かれるらしい。
姫は「何もしない」と答える。
そうすると、皆にこう言われるそうだ。
「Why?」
なぜ、と。
姫が言っていた。
「なぜって聞かれるのが困るのよね・・・。なんて説明したらいいのかわからない」
それを聞いてから私も考えてみた。
でも、これといった答えも、異国の人を納得させる答えも、見つからなかった。
いろんな国の人がいる場所で暮らしていると、世界では当たり前のことが日本では違うことがあるみたいだ。
その代表的なものが「愛国心」。
もう少し詳しく言えば、「愛国心をどう表現するか」
もっと言えば、「愛国心を表現することをどう捉えられるか」
建国記念日を祝うこともない国民。
国歌や国旗に遠慮する国民。
世界で稀に見る、愛国心に罪悪感と他国への遠慮を感じる国民。
なんなんだろう。
日本人が安心して世界に対して日の丸を掲げられるのはスポーツだけ。
この異常性にすら、目を伏せて何も語ろうとはしない。
そのくせ、某テレビ局にはデモ行進をしてみたり(笑)
ただ、日本人は誠実で真面目であるということだけは、世界でも共通の認識らしい。
シンガポールでは、インド人が一番差別の対象にある。
ある日、私たちが道でタクシーを拾おうとしていたら、明らかに私たちより手前で時間的にも早くからインド人がいた。
タクシーはインド人の前を素通りして私達の前に止まった。
運転手さんは陽気でよくしゃべり、よく笑う、とてもいい人だった。
後で姫に「あの運転手さん、いい人だったね」というと、
「でも、あの人、インド人の前で止まらなかったよね」と言った。
私はそれまでその意味がわからなくて、「なんでなん?」と聞くと、
「この国ではインド人は差別されてるから」と姫は言った。
そうなのか・・・と初めて知った。
別の話をしていたとき。
ひなの(姪っ子)の習い事の月謝を先生に払うとき、姫が「お月謝です。中を確かめてください」と言って渡すと、
先生は決して中を確かめないらしい。
「日本人は信用できるから。確かめる必要ないわ」と。
そのかわり、こういうらしい。
「中国人の月謝は確かめる。インド人なら2回確かめる」と。
その話をしてくれたときの姫が、決して日本人であることを誇った言い方ではなく、
疑問と悲しみの混じった表情と言葉だったことに、私は心からホッとした。
こんなふうにいろんな人種の混じった目覚しく発展している国際国家のシンガポールでは、仕事が細分化されているという。
例えば、タクシー乗り場では、ただひたすらタクシーに案内する人がいる。
この人は正直、いなくても成り立つ。
姫が教えてくれた。
「あんなふうに『これだけ』を仕事でやってる人がいるねん。安くても仕事をできるだけたくさんの人に割り当てようという政策があるから」と。
なるほどなぁ、と思った。
もう1つわかりやすい例で言うと、ファストフードのような店に行くと、食べた後のゴミを片付けるだけの人がいる。
数年前、食べた後は自分で片付けようという話も出たらしいのだが、そうするとそれを片付ける仕事がなくなるということで、
今では食べた後は片付けないのが決まりらしい。
もちろん普通のレストランのようなところではそういう仕事は発生しないが、確かに焼き鶏屋台のようなところで食べたときは、
食べ終わると、さっとゴミ箱を持ったおじさんが来て、残飯などを処理していた。
そうやって、わずかな仕事であっても、失業者が出ないようにしているらしい。
ポケットティッシュを売りに来るおじさんもたくさんいた。
姫が言うには、あれは中国人ばかりで、政府から割り当てられた仕事ではなく、勝手に自分でやっているらしい。
でも、日本では考えられない仕事なので、私にとっては印象的だった。
(日本ではタダでポケットティッシュは配られているし)
私は、シンガポールの新しいビルや発展よりも、そういう人種差別や仕事の細分化のほうが興味深かった。
それから、アラブストリートに行ったときのこと。
イスラム教の寺院を拝観した。
仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、すべて「神」の形があるのに、イスラム教はない。
何も偶像がないのに、ただメッカの方向を拝む。
断食をしたり、1日に何度も拝まないといけない日があったりと、イスラム教徒はかなりストイックらしい。
日本人にはそういう宗教がない。
「他国の人は宗教に本当に熱心よ~」
そう話をした後で、姫が少し淋しそうに言った。
「最近、自分にもそういうものがあったらいいなって思うねん」と。
私は「そうなん?」と言って、それきり話はしなかったけれど、一番この言葉が印象に残った。
信じるものがあるということ。
自分にとっての「神」が確かにあるということ。
それはどんなに心強いことだろう。
そういう宗教をもっている国民性を羨ましいと感じる姫の気持ちを思ったとき、
この人はきっと私が思っている以上に、いろんなものを抱えているんだろうなと感じた。
姫の憂鬱。
それを思い、私もなんだか心が痛くなった。
あんな完璧主義で真面目な人が、このいい加減な国で生きていくということのストレス。
拠りどころが欲しいと思っても当然で・・・
英語教室、料理教室、スイミング。
姫は今、毎日こんな教室に通って学んでいる。
英語もスイミングもできなくても別に構わないし、料理にいたっては彼女はかなり上手なほうで学ぶ必要もない。
でも、毎日習い事と勉強を続ける。
「すごいなぁ。別にやらんでもいいことやるなんて」と言ったら、ひなのが冷静な態度で言った。
「お母さんは、人生でできることをすべてやろうとしてるねん」
なんだかおかしくて笑ってしまったけれど、後になって考えてみれば、なるほどなぁと思う。
姫は全てをやろうとしている。
でも、それは、なんだか素敵なことのように思えた。
ストレスがたまらなければ。
日本は秋になっていた。
伊丹空港から出て、日本の秋の風を肌で感じた瞬間、この国に対する愛情と日本人としてのアイデンティティのようなものを感じた。
やはり、私は日本が好きだ。
そして、長期の旅行は最近なかったので、久しぶりに旅をしたなぁという気分だ。
詳しい旅行記はこれから少しずつ書いていこうと思う。
今回は時系列ではなく、人気の(?)「姫シリーズ」として書くつもりだ
今日はそのプロローグ。
姫(姉)は、本当に真面目で、優しくて、自己主張が激しくて、私より完璧主義で、常識人で、たくましくも繊細な人だった。
40年も彼女と付き合ってきたが、改めてそう思った。
自分と似ていると思うところもあるし、全く正反対だと思うところもある。
その正反対の面が子供の頃はお互い理解しがたく、ケンカも多かったけれど、今は(というか今回の旅行で)自分と共感できる部分のほうを強く感じた。
そして、たぶん、この人は私よりずっと繊細で、ずっと真面目で、ずっと完璧主義なんだと気づいた瞬間、
自分が苦労している何倍も心を痛めることが多いんだろうなと思い、同情的な気分にもなった。
私も真面目な人間だけど、彼女はもっと真面目で自分を追い詰める。
自分にも人にも厳しい。
常に完璧であろうとするあまり、心身のストレスは大きくなる一方で。
姫の夫(お義兄さん)と私の夫は、ちょっとタイプが似ている。
おおらかで、のんびりやで、いい人。
私も姫も、そういう人じゃないと一緒にいるのは無理なんだと、これも改めて思ったこと。
深刻な人間が深刻な人間と一緒にいたら、破滅しかない
そういう意味では、私も姫も、自分に合った素晴らしい夫とめぐり合えたなぁと思う。
シンガポールという街は、活気があり、おもちゃ箱みたいにいろんなものが詰め込まれていて、国際的で、面白いところだった。
「シンガポールに行く」という話を友達に会うたびにしてみたら、4、5人は旅行で行ったことがあった。
でも、ほとんどが10年以上前の話。
「2日もあれば十分」という意見もあったけど、行ってみて、それも10年以上前の話だからだなぁと思った。
たぶんだけど、私の友達が見てきたシンガポールと、私が今回見たシンガポールは随分違っているのではないだろうか。
常にどこかで大掛かりな工事をしていて、日々、新しい建物ができている。
この10年くらいで、街並みだけでも随分変化してしまったと思う。
まあ、代表的で歴史的な観光地は変わらないだろうけど。
少なくとも「2日あれば十分」な場所ではなかった。
あと3日くらいあっても、まだ十分に楽しめた。
それくらい、日々進化している国なんだと思う。
また、これはアメリカでもそうだけど、いろんな人種が混在している街というのはちょっと慣れない。
ほとんどが中国人。
そして、アラブ系の人、インド人、韓国人、日本人、白人がいる。
中華街はいろんな国にあるが、シンガポールでもチャイナタウンはあって。
それ以外にも、アラブストリート、リトルインディアといった、人種ごとのエリアがある。
そこにはそれぞれの文化がそのまま残って、そのままの生活がある。
基本的に単民族国家の日本からすると、それはちょっと変な感じだ。
印象的だったのは、姫のこんな話。
シンガポールという国は、建国記念日に大々的なお祭りがあるという。
シンガポールに住んでいる他の国々でもそうらしい。
でも、日本は建国記念日に国をあげてのお祭りやイベントなんてない。
「日本では建国記念日にどういうことをするのか?」といろんな国の人に聞かれるらしい。
姫は「何もしない」と答える。
そうすると、皆にこう言われるそうだ。
「Why?」
なぜ、と。
姫が言っていた。
「なぜって聞かれるのが困るのよね・・・。なんて説明したらいいのかわからない」
それを聞いてから私も考えてみた。
でも、これといった答えも、異国の人を納得させる答えも、見つからなかった。
いろんな国の人がいる場所で暮らしていると、世界では当たり前のことが日本では違うことがあるみたいだ。
その代表的なものが「愛国心」。
もう少し詳しく言えば、「愛国心をどう表現するか」
もっと言えば、「愛国心を表現することをどう捉えられるか」
建国記念日を祝うこともない国民。
国歌や国旗に遠慮する国民。
世界で稀に見る、愛国心に罪悪感と他国への遠慮を感じる国民。
なんなんだろう。
日本人が安心して世界に対して日の丸を掲げられるのはスポーツだけ。
この異常性にすら、目を伏せて何も語ろうとはしない。
そのくせ、某テレビ局にはデモ行進をしてみたり(笑)
ただ、日本人は誠実で真面目であるということだけは、世界でも共通の認識らしい。
シンガポールでは、インド人が一番差別の対象にある。
ある日、私たちが道でタクシーを拾おうとしていたら、明らかに私たちより手前で時間的にも早くからインド人がいた。
タクシーはインド人の前を素通りして私達の前に止まった。
運転手さんは陽気でよくしゃべり、よく笑う、とてもいい人だった。
後で姫に「あの運転手さん、いい人だったね」というと、
「でも、あの人、インド人の前で止まらなかったよね」と言った。
私はそれまでその意味がわからなくて、「なんでなん?」と聞くと、
「この国ではインド人は差別されてるから」と姫は言った。
そうなのか・・・と初めて知った。
別の話をしていたとき。
ひなの(姪っ子)の習い事の月謝を先生に払うとき、姫が「お月謝です。中を確かめてください」と言って渡すと、
先生は決して中を確かめないらしい。
「日本人は信用できるから。確かめる必要ないわ」と。
そのかわり、こういうらしい。
「中国人の月謝は確かめる。インド人なら2回確かめる」と。
その話をしてくれたときの姫が、決して日本人であることを誇った言い方ではなく、
疑問と悲しみの混じった表情と言葉だったことに、私は心からホッとした。
こんなふうにいろんな人種の混じった目覚しく発展している国際国家のシンガポールでは、仕事が細分化されているという。
例えば、タクシー乗り場では、ただひたすらタクシーに案内する人がいる。
この人は正直、いなくても成り立つ。
姫が教えてくれた。
「あんなふうに『これだけ』を仕事でやってる人がいるねん。安くても仕事をできるだけたくさんの人に割り当てようという政策があるから」と。
なるほどなぁ、と思った。
もう1つわかりやすい例で言うと、ファストフードのような店に行くと、食べた後のゴミを片付けるだけの人がいる。
数年前、食べた後は自分で片付けようという話も出たらしいのだが、そうするとそれを片付ける仕事がなくなるということで、
今では食べた後は片付けないのが決まりらしい。
もちろん普通のレストランのようなところではそういう仕事は発生しないが、確かに焼き鶏屋台のようなところで食べたときは、
食べ終わると、さっとゴミ箱を持ったおじさんが来て、残飯などを処理していた。
そうやって、わずかな仕事であっても、失業者が出ないようにしているらしい。
ポケットティッシュを売りに来るおじさんもたくさんいた。
姫が言うには、あれは中国人ばかりで、政府から割り当てられた仕事ではなく、勝手に自分でやっているらしい。
でも、日本では考えられない仕事なので、私にとっては印象的だった。
(日本ではタダでポケットティッシュは配られているし)
私は、シンガポールの新しいビルや発展よりも、そういう人種差別や仕事の細分化のほうが興味深かった。
それから、アラブストリートに行ったときのこと。
イスラム教の寺院を拝観した。
仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、すべて「神」の形があるのに、イスラム教はない。
何も偶像がないのに、ただメッカの方向を拝む。
断食をしたり、1日に何度も拝まないといけない日があったりと、イスラム教徒はかなりストイックらしい。
日本人にはそういう宗教がない。
「他国の人は宗教に本当に熱心よ~」
そう話をした後で、姫が少し淋しそうに言った。
「最近、自分にもそういうものがあったらいいなって思うねん」と。
私は「そうなん?」と言って、それきり話はしなかったけれど、一番この言葉が印象に残った。
信じるものがあるということ。
自分にとっての「神」が確かにあるということ。
それはどんなに心強いことだろう。
そういう宗教をもっている国民性を羨ましいと感じる姫の気持ちを思ったとき、
この人はきっと私が思っている以上に、いろんなものを抱えているんだろうなと感じた。
姫の憂鬱。
それを思い、私もなんだか心が痛くなった。
あんな完璧主義で真面目な人が、このいい加減な国で生きていくということのストレス。
拠りどころが欲しいと思っても当然で・・・
英語教室、料理教室、スイミング。
姫は今、毎日こんな教室に通って学んでいる。
英語もスイミングもできなくても別に構わないし、料理にいたっては彼女はかなり上手なほうで学ぶ必要もない。
でも、毎日習い事と勉強を続ける。
「すごいなぁ。別にやらんでもいいことやるなんて」と言ったら、ひなのが冷静な態度で言った。
「お母さんは、人生でできることをすべてやろうとしてるねん」
なんだかおかしくて笑ってしまったけれど、後になって考えてみれば、なるほどなぁと思う。
姫は全てをやろうとしている。
でも、それは、なんだか素敵なことのように思えた。
ストレスがたまらなければ。