こんな物語を、いわさきっちのために書きたかった、と思った。
小川糸の「食堂かたつむり」を読んで。
どの本屋でも平積みにはなっているものの、賛否両論の小説だ。
幼稚であることは否めないし、誰にでも好かれる本ではないかもしれない。
「つまらない」と感じる人もいるのだろう。
ネットで書評を探したが、ほとんどボロクソに書かれていた。
ボロクソに書く人の感性とはたぶん私は違うのだろう。
文学にはいろんな要素がある。
それは一面性ではない。多面性だ。
息もつかせぬサスペンスを望む人もいれば、感動的でドラマティックなストーリーを好む人もいる。
また、「本」は知識を得るためのものとしか思っていない人もいるし、逆に「暇つぶし」であって、ただ「楽に」読めればいいという人もいる。
小難しく、評論家が研究したがるような本もある。
そういうことはわかっているうえで、あえて私が思うのは、「文学は人を幸せにするものであってほしい」ということだ。
偶然が重なって、フィクションの香りがぷんぷんするものだっていい。
「こんなうまくいくはず絶対ないさ」と思うようなものでもいい。
そういう文学しか受け付けない、という意味では決してなく、そんなものでも呼んだ後に「ああ、読んでよかった。幸せだ。これをあの人に読ませたい」と思えるかどうか。
私はそこを重視する。
そういう意味ではこの本は非常に的を得ていたのだ。
今日は朝から忙しい日で。
10時から大阪で取材。
13時から神戸で取材。
18時から京都で飲み会。
移動が多いのがわかっていたので、昼に梅田を通過した際、本を2冊購入。
その1冊がこの本で、京都での飲み会の前には読み終わっていた。
運よく、今日の飲み会はゆうちゃんといわさきっちと。
読みたてほやほやの本をいわさきっちに貸した。
今日の飲み会の店はかなりヒット。
日本酒のラインナップ良し。
「開運」「義侠」「磯自慢」「明鏡止水」「大治郎」「瑞冠」「波乃音」等。
料理もはずれなし。うまい。

雰囲気もよし。居心地良し。
最近、意志と反して忙しかったのだけど、こんなふうに気の合う仲間と一緒に、美味しいお酒と料理を味わうのは本当に楽しい。
久しぶりにリフレッシュした。
「これが終われば……」「これが終われば……」と思うばかりで、幸か不幸か次々に仕事が来て、もう一生終わらないような気持ちにさせられる。
来週も既に4件取材が入っているというのに、また今日「来週で空いてる日を教えてください」と電話があった。
……いつも思うけど、分散してくれないかな

なぜ固まる!!
この間からひたすら書いているけれど、
今、模索中。
今日、整体の先生と話していて、またいろんなことを考えてしまった。
私は一体何を求めているんだろう。
ただ、1つ進歩があったとするなら、こんなふうに「模索すること」ができ、「模索していること」を認められるようになったことだろう。
今度はどうしたって知りたいのだ。
自分が本当に進みたい道を。
「文学」も自分の中に蘇りつつある。
この間、三浦哲郎の「おおるり」の話を書いたけれど、あれ以来、自分の中で文学の匂いが強くなっている。
文学といえば。
びっくりしたのは、今、小林多喜二の「蟹工船」がどえらい売れ行きだとか。
噂には聞いていたけれど、今日、本屋に行ったら、なんと平積み!
みんなわかってる?
プロレタリア文学だよ……
確かに私は昔、「今の人が『蟹工船』も読まずに生きていることが残念だ」的なことを書いた記憶はある。
だけど、こんなふうに平積みにされる日が来るとは思いもしなかった。
プロレタリア文学……。
私はずっと近代文学を勉強していたのに、卒論のテーマを決めるときになって、突然転向し、中古中世の仏教説話を選択したという、異例の学生だった。(うちの大学では)
まあ、2年間フレンチを修業していたのに、いざ店をオープンしたら日本料理屋だった、くらいの衝撃があったようだ。
で、その近代文学を専攻していた時に、樋口一葉と堀辰雄とプロレタリア文学を勉強していたのだ。
「蟹工船」は衝撃だったし、小林多喜二の拷問の受け方、死に方、死体の腫れ方まで勉強した。
プロレタリア文学自体にはそんなに夢中にはならなかったが、宮本百合子の「貧しき人々の群」が好きだった。
そして、その当時、「私はプロレタリアだから」というのが、自分だけの流行語になった。
話が逸れたが、今、「蟹工船」が世の中で流行っているって……
一体どうなったの?日本は……
それもさておき、文学といえば。
私は文学評論なんてあまり読まない。
先ほども書いたように、大学のときはなりゆきで読んでいたけれど。
でも、今読んでいるのは、堀江敏幸の『書かれる手』という文学評論。
それもまた、批評している作品・人物がまったく私の範疇にない作家ばかりで。
「マルグリット・ユルスナール論」に始まり、竹西寛子、長谷川四郎、パトリック・モディアノ論などなど。
でもこれが不思議と面白いのだ。
「面白い」という表現はちょっと違うかもしれないが、これを読んでいて、「ああ、私って、本当に言葉が好きなんだな」と思った。
ストーリーが面白いとか、内容に共感できるとか、そんなことももちろん本を読む楽しみの1つだけれど、美しい文章を読むという行為が好きなのだ、たぶん。
堀江敏幸の文章は正確で美しい。
読んでいると、意味もわからないのに心地良いのだ。
こういう感覚は久しぶりだった。
まるで、いい音楽を聴いているかのような。
『文学』
最も憧れ、一番好きで、いまだに遠い世界。
20歳の頃、自分の内側を削り取るようにして言葉を紡いできた。
矛盾しているかもしれないが、削り取ったにも関わらず、書く前よりも恢復している自分に気付いた。
その感覚を味わいたくて、ずっと書き続けてきたんだと思う。
書けなくなってからも、あの快感を思い出しては拳を自分の胸にたたきつけた。
なぜ書けないのか。
なぜ。
ライターとしての成功なんて、あの快感の代償行為でしかないことには、もうずっと前から気付いていたはずだ。
それでも。
ライターの仕事をいやだと思ったことは1日とてない。
楽しい仕事しかしたくないから、こんな不安定な道を選んだのだし。
そんなことも踏まえながら、現在、模索中。
酒を飲んで帰ってきても、道中ですっかりさめきって。
これを書きながら飲むグレンフィディックが、まるで水のように喉を通過していく。
40度のアルコールが水のようって、一体いつからなんだろうな。
酒を人生の友に選んだ代わりに、文学を少し遠ざけたような、そんな気もする、今日この頃。
今日は若干、センチメンタル。
※センチメンタルって、死語だな~