“人生、一分(いちぶ)を減省(げんせい)せば、すなわち一分を超脱(ちょうだつ)する”(人生減省一分、便超脱一分)
意味するところは、
『少しだけ減らすことを考えていけば、その分だけ世俗(の悩み)から抜け出すことができる』
となる。出典は中国・明末期の洪応明(自誠)による「菜根譚」(さいこんたん)。同書はその後、こう続ける。
“友人との付き合いを少し減らせば、その分だけ煩わしさから逃れることができるし、発言を少し減らせば、その分だけ過ちも少なくなり、思慮することを少し減らせば、その分だけ精神を消耗させることもなく、聡明さを少し減らせば、その分だけ煩わしさから逃れることができる。
余分なものを減らすことなく、逆に増やそうとしているのは、自分の一生を、手枷足枷(てかせあしかせ)で呪縛しているようなものだ”
* * *
肥大化する人間の欲望は、常に「増やす」ということを前提にしている。
「増やす」対象は、無限に並べ立てることができる。人間個人としては……、おそらく金銭に始まり、資産、名誉名声、功績、役職、権利、そして事業であり交遊といったものだろうか。国家としては、……領土、軍事力、国益、資源、国際的地位など。いずれも、「もっと(more)」いう発想に基づいている。
「大きいこと、多いことはいいことだ」という「感覚」は、有無を言わさず「五感」を支配する。それだけに、揺らぐことのない存在感をもって欲望をそそるのだろう。一旦この物質現象的な充足感の「魔力」に囚われたとき、人は一も二もなく平伏しがちだ。
その昔、「軽薄短小」と言われた時代があった。これについての特集やTVの番組があったように記憶している。文字通り、重たいものより軽いもの、厚手のものより薄いもの、長いものより短いもの、大きなものより小さなもの……。というものだった。
しかし、このフレーズは、主に「IT技術」や「パソコン関連商品」の「進化」をアピールするものであったような気がする。そのため、それらの技術に目新しさがなくなり、商品が当たり前のように店頭に並び始めた頃、いつの間にか消え去った感がある。
その消え方には、「なんだかんだ言っても、重厚長大」でなければ……というニュアンスがあったように思えてならない。ここにも物質現象的な充足感の「魔力」が根強く活きている。
その証拠に、「増やすもの」については、重々しい感じのものが多いようだ。では「減らすもの」についてはどうだろうか。すぐに頭に浮かんで来る。……仕事や趣味に始まり、交遊、近所付き合い、社会奉仕、名誉職など。飲酒や体重、浪費という人もいるようだ。そのため、「増やす」対象に比べてどこかに「気軽さ」が漂っている。それは「減らす」対象が、物質現象的な影響が少ないからかもしれない。
「生きる」と言うことは、何かを「獲得」しようとすることであり、獲得したものをさらに増やそうとすることとも言える。あるいは、一旦獲得したものを「守り通そう」とすることかもしれない。
そのため、人は常に「何かと闘い続けている」。何かを増やし、何かを減らされまいとするために。そうしなければ、自分を保ち続ける「何か」を喪うからである。少なくとも、そういう恐れが働いている。
そして、そのような「増やす」あるいは「減らされまい」とする闘いは、必然、「貪り(むさぼり)の心」を導き出す。
「減らす」ということは、今自分が持っている「何か」に対する固執した気持ちを解放することにほかならない。
「貪りの心」を排し、今自分に与えられているものをもう一度見直したいものだ。そうすれば、「増やす」でも「減らす」でもない……今あるものをもっと活かし切るということに行きつくような気がする。
今ある「何か」を減らしてみよう。とりあえずは何か一つ……その一つの何かが減ったとき、新しい何かが生まれるのかもしれない。物質現象の遠く及ばない「何か」が……。