小雪のちらつく1月27日、近代京都の礎を観る会主催の「小関越えハイキング」に参加した。京阪浜大津駅に20名が集合し、最年長の私が解説役を務めた。今回の主目的は、琵琶湖疏水の最大の難工事となった第一トンネル(第一竪坑を含む)の工事を現場で立ち会って当時を回想することであり、大津運河と山科疏水をつなぐ第一トンネル直線水路のほぼ上をジグザグに走る小関越え道を数年ぶりに歩いたが、これに関連した解説事項は2月度のホームページに紹介したので、ここでは小関越えの峠から藤尾道に降りる小道の現状について触れることにした。
小関越えの道は、入り口にある道標に示すごとく、北国海道(西近江路)を通って京都を目指す旅人や、西国三十三所観音巡りの巡礼道(14番の大津三井寺と13番の京都今熊野観音寺をつなぐ)や、東海道の逢坂の関を抜ける間道など多目的に利用されており、歴史のあちこちに登場する古道であるが、近代化の進行により現在では幅広い車の往来が可能な舗装された道となっている。この中で、峠の左側から藤尾の普門寺横に降りる約2m幅の短い小道は簡易舗装されているが、昔の小関越え道の面影を残す道として歴史愛好家や散策者に愛されてきた。
私自身昭和50年(1975)から藤尾の地に家を建て、二十数年にわたり小関超え道を歩いて三井寺まで散歩を楽しんだ。当時は普門寺近くに若干の倉庫風の建物は存在したが、古道の面影を残した山道であった。登り道の左側は山の斜面で樹木が迫っており、右側は緩やかな斜面で田畑があり、琵琶湖疏水の第一竪坑が赤いレンガ色でどっしりと腰を据えていた。しかしながら、この30年の間に登り道の竪坑の上まで開発が進み、プラスチック製波板や雑物でカバーされた通路となり、古道の面影は消えてしまった。
竪坑のすぐ上部にある建物 第一竪坑前の唯一の看板「マムシキケン」
おそらく右側の斜面は個人の所有地であり、開発の自由はあると思うが、「小関超え」という歴史遺産を風格ある姿で残すための若干の行政指導や補助を考えてほしいと大津市に要請したい。また、「第一竪坑」は琵琶湖疏水の構築物として最も大切なのものであるが 現場に全く説明がなく、唯一存在する看板が「マムシキケン」だけでは淋しすぎる。もう一つある国の史跡「第二竪坑」も藤尾にある個人住宅の庭の裏にあり、通路から全く見えない。これらは京都市所管と聞いているが、小関越え道にある“国の史跡指定を受けた文化財”として標示をお願いしたい。
小関越えの道は、入り口にある道標に示すごとく、北国海道(西近江路)を通って京都を目指す旅人や、西国三十三所観音巡りの巡礼道(14番の大津三井寺と13番の京都今熊野観音寺をつなぐ)や、東海道の逢坂の関を抜ける間道など多目的に利用されており、歴史のあちこちに登場する古道であるが、近代化の進行により現在では幅広い車の往来が可能な舗装された道となっている。この中で、峠の左側から藤尾の普門寺横に降りる約2m幅の短い小道は簡易舗装されているが、昔の小関越え道の面影を残す道として歴史愛好家や散策者に愛されてきた。
私自身昭和50年(1975)から藤尾の地に家を建て、二十数年にわたり小関超え道を歩いて三井寺まで散歩を楽しんだ。当時は普門寺近くに若干の倉庫風の建物は存在したが、古道の面影を残した山道であった。登り道の左側は山の斜面で樹木が迫っており、右側は緩やかな斜面で田畑があり、琵琶湖疏水の第一竪坑が赤いレンガ色でどっしりと腰を据えていた。しかしながら、この30年の間に登り道の竪坑の上まで開発が進み、プラスチック製波板や雑物でカバーされた通路となり、古道の面影は消えてしまった。
竪坑のすぐ上部にある建物 第一竪坑前の唯一の看板「マムシキケン」
おそらく右側の斜面は個人の所有地であり、開発の自由はあると思うが、「小関超え」という歴史遺産を風格ある姿で残すための若干の行政指導や補助を考えてほしいと大津市に要請したい。また、「第一竪坑」は琵琶湖疏水の構築物として最も大切なのものであるが 現場に全く説明がなく、唯一存在する看板が「マムシキケン」だけでは淋しすぎる。もう一つある国の史跡「第二竪坑」も藤尾にある個人住宅の庭の裏にあり、通路から全く見えない。これらは京都市所管と聞いているが、小関越え道にある“国の史跡指定を受けた文化財”として標示をお願いしたい。